配信映えを意識したゲームはなぜ広まったのか:ゲーム文化の収束という未来を読む

「配信映え」を前提にしたゲームが増えているように感じる。

リアクションしやすい、切り抜きやすい、友達と盛り上がりやすい、見ているだけでも成立する・・・・・・こういった作品にこぞって配信者などが集まり、そして一過性で消費していく様子が見られる。

これ自体は悪いことではない。配信文化はゲームの入口を広げ、新しい遊び方やコミュニケーションを生み出している。そして、配信によって人気を獲得した作品は数多く、売上にも繋がっている。

ただ、ここでひとつ気になることがある。

もし「配信されやすいこと」が、ゲーム制作における最も安全な選択肢になったとしたら、ゲーム文化はどう変化していくのだろうか。

あるいは「配信されること」が生存戦略としての最適解に落ち着いたら、今後のゲームはどういうものが主流になるのだろうか。

これは「配信向けゲームは浅い」みたいな逆張り、批判ではない。なぜ今そうした作品が増えるのか、なぜ制作側がそこへ最適化していくのか、そしてその結果として市場や文化に何が起きるのか、という構造の話だ。

先に、本記事で扱う言葉の定義を整えておく。

  • 配信適性
    • 単に人気があることではない
    • 視聴者や配信者が、リアクション、会話、偶発性、解釈を持ち込みやすい構造全般
  • 衰退
    • 売上低下のことではない
    • 市場が単一価値へ偏ることを指すもの

では以降、「配信最適化」を一例として、単一の評価軸へ最適化された市場がどのように多様性や長期的な発展性を失っていくのかを考えていく。

「映え」を意識したゲームの氾濫

最近のゲーム市場を見ていると、「見ること」を強く意識した作品がかなり増えているように思う。

  • 配信者が大きなリアクションを取りやすいホラーゲーム
  • 視聴者がコメントで参加しやすい対戦ゲーム
  • 切り抜きで一瞬の面白さが伝わるバカゲー
  • 友達同士で雑談しながら遊ぶこと自体がコンテンツになるタイプのゲーム
  • 共有することを前提としたゲーム

特にゲームタイトルはあげないが、一時的やたら話題になり、しかしそれ以降誰も触れないような作品は非常に多い。まさしくブームとして消費されている昨今だ。

「誰かが遊んでいるのを見て興味を持つ」という導線は、今やゲーム文化の重要な入口になっている。配信者たちがやるからこそ脚光を浴び、そして売上が伸び、新作が開発されたという経緯もある。

見られないなら意味はなく、知られないなら何もできない。宣伝やプロモーションにあえぐ開発者からすると、さして広告費を使わずともなんらかのきっかけで大きく伸びる現代は、かなり追い風ではある。

ゲーム実況や切り抜き文化によって、「ゲームを遊ぶ」だけではなく、「ゲームを共有する」「一緒に盛り上がる」という新しい楽しみ方が生まれたのも事実だ。

自分が昔やっていたゲームを楽しんでプレイする配信者に惹かれ、懐かしさを味わうなんて珍しい話じゃない。会社は手間をかけずに認知を広げられ、プレイヤーは懐かしみ、配信者は登録者やコメント数などのスコアが伸びて嬉しい・・・・・・まさに良い循環が巡っている。

プレイヤーのみだけに供給される、という閉じた状況が無くなった。普段ゲームはやらないけど見てる、というような人の増加はまさしくその功績だ。

総じて、配信文化がゲーム業界、あるいはその文化全体に概ね良い循環や影響を与えているのは間違いないだろう。

ただ、この現状においてひとつ気になることがある。

今のゲーム市場では、「配信されやすいこと」が、以前よりもかなり重要な価値になっている。そして、それが実際に売上や話題性へ直結している。

では、もし、「配信されやすいこと」そのものが、ゲーム制作における前提条件になったとしたらどうなるのか。

  • やるゲームではなく見るゲーム
  • SNSでの拡散を前提にしたゲーム
  • 自分でやらなくても完結するゲーム

こういった、ある種かなり異質な方向性が主軸になったらどうなるのか。

配信文化、という界隈のみをセグメントとして意識するのが全体の流れになった場合、ゲーム文化全体はどのように変化していくのだろうか。

評価軸の収束という問題

私は「配信向けゲーム」を否定したいわけではない。

前述した通り、配信文化によって生まれた(見つけられた)名作は実際に存在するし、ゲーム実況によって広がった市場もある。誰かが遊んでいる様子を見ることで興味を持ち、実際にプレイへ繋がるケースも珍しくない。

だから問題は、「配信があること」ではない。論点は、配信適性が「最も安全な評価軸」になっていくことだ。

以前のゲーム市場における伝播は、基本的にこういう流れだった。

  • ゲーム体験
    • →評価
      • →売上

まずプレイヤーが遊び、その体験が口コミやレビューとして広がり、結果的に売上へ繋がる。配信がなくとも、この熱意によって売れた作品は割と多い。

たとえば『Minecraft』はゲーム実況で伸びたイメージが強いが、初期は掲示板やフォーラム文化での熱意の影響が大きかった。その後の動画サイトにおける伸びは「さらに」であって、それ以前全く話題にならなかったわけじゃない。

あるいは『ICO』もこれの系譜だ。商業的には大作とは言えない。しかし熱狂的ファンがその魅力が強く支持し、結果的に作品寿命を大いに伸ばした。それを体験した人の熱意が、今もICOを支えている。

しかしこれらをもって「だから別に過剰な宣伝はいらない」とか言うつもりはない。

大前提として「ファン熱量だけで売れた作品」は実は少ないのだ。ゲームの良さは当たり前に影響する。熱量は増幅器であって、完全なゼロから市場を作るケースは稀。

ただ、いずれも個人を発端としたものが盛り上がりの共通項である、ということは間違いない。宣伝やブランド力は昔から存在した。しかし少なくとも、「実際に遊んだ個人的体験」が価値評価の中心にあったのだ。

一方、現在一部の市場では、少し違う流れが強くなっている。

  • 話題性
    • →認知
      • →売上

つまり、「どれだけ面白い体験か」より先に、「どれだけ拡散されやすいか」が重要になっている。

  • 切り抜き映えする
  • SNSで共有されやすい
  • 配信者が取り上げやすい
  • リアクションが発生しやすい
  • 短時間で何のゲームかが伝わる

こうした「外部から見たわかりやすさ」が、以前よりもかなり強い価値を持つようになっている流れ。これが現状とても強く感じられる。

ゲーム市場における価値評価経路の変化を示した図

ただ、これは別に不正でも堕落でもない。むしろ合理的とも言える。

ゲームの数が増え、開発費が高騰し、宣伝コストも上がる中で、「認知されること」は以前より遥かに重要になった。そして配信文化は、その認知を極めて効率よく獲得できる仕組みだ。

となると、制作側がそこへ最適化していくのはある意味当然でもある。

で、本記事の主旨・・・・・・こういったことの問題は、その合理性が市場全体の方向性を固定し始めることだ。

もし「配信されやすいこと」が最も低リスクで、最も成功確率の高い設計になっていくなら、制作者たちは自然とそこへ寄っていく。

すると市場は徐々に、同じ評価軸を中心に回り始める。

そして単一評価軸への最適化は、市場を少しずつ収束させていく。

私はここに不安を覚えるのだ。

なぜ市場は収束するのか

なぜ最近のゲームは似た方向へ寄っていくのか。本記事ではこれを、単なる感想ではなく構造として考えたい。

よくある議論では、「最近のゲーム会社は冒険しなくなった」とか、「売れ線ばかり狙っている」と言われる。しかし実際には、もっと単純でもっと合理的な理由がある。

それはやはり、「失敗できなくなった」という背景問題だ。

今のゲーム開発はとにかくコストが重い。

開発期間は長期化し、グラフィック品質や運営体制も求められる。特に大型タイトルほど、一度の失敗が致命傷になりやすい。F2Pゲームやライブサービス型ならなおさらで、初動で人を集められなければ、そのまま終わることも珍しくない。

すると当然、制作側は「成功確率を上げる方法」を探し始める。そこで強くなるのが、既に成功した型だ。

  • 配信で伸びた
  • SNSで拡散された
  • 切り抜きが回った
  • 実況者が継続的に触れていた

こうした前例は非常にわかりやすい成功データとして機能する。そして今はそれが数字として可視化される。

  • 同時接続数
  • 再生数
  • クリップ数
  • SNSトレンド
  • 視聴維持率

どのゲームがどれだけ話題になり、どれだけ拡散されたかが、以前より遥かに見えやすくなっているのだ。

さらに大きいものとして、配信文化は広告コストを大きく下げる効用がある。

昔はテレビCMや雑誌広告を大量に打たなければ認知を獲得できなかった。しかし今は、配信者ひとりが触れるだけで、一気に市場へ広がることがある。

つまり配信適性とは、単なる流行ではない。認知獲得コストを下げる、極めて合理的な設計なのだ。

ここまでを踏まえると、市場は自然とこういう構造へ入っていく。

  • 失敗できない
    • →再現性へ依存する
      • →既存成功モデルを模倣する
ゲーム市場が単一評価軸へ収束していく構造図

これは怠慢ではない。失敗しない形式のモデル化としては合理的だ。

売れるものを作ろうとするのは当然だし、実績のある型を参考にするのも普通の経営判断だ。実際、インディーズ開発者であっても、「売れる可能性が高いジャンル」を選ぶことは珍しくない。

だからこの記事は、「最近の制作者は楽をしている」と言いたいわけではない。

問題なのは、その合理性が市場全体を同じ方向へ押し流していくことにある。

全員が同じ成功条件を参照し始めると、作品は少しずつ似ていく。すると競争は、「誰が新しいものを作るか」ではなく、「誰が最も効率よく同じ型を回せるか」へ変わっていく。

そして市場は徐々に収束する。ここに問いを置きたい。

さて、ここでひとつ未定義のものが存在する。その収束の中心にある「配信適性」とは、具体的に何なのだろうか。

「配信適正」という曖昧な指標の正体

これは単純に、「人気があるゲーム」という意味ではない。あるいは、「実況されているゲーム」という話でもない。

本質は、そのゲームがどれだけ「人が介在できる構造」を持っているかだ。

たとえば配信で伸びやすいゲームには、ある種の共通点がある。前述したものを踏まえると「未完成であること」が当たる。

ただし、ここで言う「未完成」は、雑とか低品質という意味ではなく、「プレイヤーや視聴者が入り込む余白」がある、ということだ。言わばゲーム側がすべてを完成させきっていないもの。

たとえば対戦ゲームは毎回展開が変わる。プレイヤー同士の駆け引きやミスによって、配信ごとに違うドラマが発生する。

サンドボックスゲームなら、「何をするか」自体をプレイヤー側が決められる。そこに分岐が存在する。

ホラーゲームは、驚きや悲鳴といったリアクションがコンテンツになる。ゲームそのものではなく付随する人格に価値が生まれる。

いわゆるバカゲーもこの構造と相性が良い。完成された映画的体験ではなく、そこには「人がツッコミを入れる余地」があるからだ。

よって、必ずしも「密度の高いゲーム」が配信向きとは限らない。

たとえば対戦ゲームには、戦闘そのものではなく、移動や探索、準備といった空白時間が存在する。代表的なのは、バトルロイヤル系のファーム時間だろう。

しかし、その空白は無駄ではない。配信ではそこが雑談空間になる。友達同士で遊ぶ時も同じで、「ずっとイベントが起き続ける」より、少し緩む時間があるほうがコミュニケーションが発生しやすい。

配信適性を構成する要素を整理した図

たとえば『エーペックスレジェンズ』がなぜあそこまで流行ったのかと言えば、まさにこのメリハリが明確で、緊張と緩和の連続性と配信の相性部分が大きい。

常に戦い続けていてはコミュニケーションが取れず、しかしずっと暇だと会話が尽きる。ここで、APEXはゲーム的な面白さと間を埋めるための余白が絶妙なラインで混在していて、ゆえに配信タイトルとして人気を博した。

理由はもちろんこれのみではなく、誰が見てもわかりやすいという画面の強さなど、他の要因もあるだろう。しかし、なぜ今も「とりあえずAPEX」が成り立つのかと言えば、間隙のデザインがあまりにも配信という形式にマッチしていたからだ。

つまり配信適性とは、「密度」ではなく、「介在可能性」に近い。

プレイヤーや視聴者が、自分の反応、会話、解釈、偶発的な出来事を持ち込める構造。だから毎回違う体験になるし、だからこそ共有されやすく、それが適正として評価される。

なぜ制作は配信向けに最適化されるのか

ゲームは「見るだけでも楽しめる」ものであり、同時に「見るだけでは代替できない体験」を持っている。

その中で、現在の市場では「見る面白さ」が、以前より遥かに価値として強い。配信適正・・・・・・これに連なる問題として、「見られるゲーム」というものが勢いを増している傾向がある。

ここでひとつの問題を考えたい。「自分でやらなくてもいいゲーム」の氾濫、それはなぜ起きているのか?

なぜ現在のゲーム市場は、これほど「見る面白さ」を重視する方向へ進んでいるのだろうか。

しかし、この問いへの答えも、やはり「合理的だから」だろう。

今の時代、ゲームは「面白いだけ」では埋もれる。

作品数は増え続け、ユーザーの可処分時間は限られている。その中で、まず必要になるのは認知だ。存在を知ってもらえなければ、そもそも遊ばれない。

そこで極めて強力なのが配信文化だ。

配信者が触れる。SNSで切り抜きが拡散される。リアクションがミーム化する。すると、広告費を大量に投下しなくても、一気に市場へ浸透することがある。

つまり現在の配信文化は、単なるファン活動ではなく、巨大な宣伝システムとして機能している。

すると当然、制作側は考える。

  • 「どうすれば継続的に話題化されるか」
  • 「どうすれば配信者に拾われるか」
  • 「どうすれば切り抜きが回るか」

配信適性が高いということは、それだけ認知獲得コストを下げられるということでもある。広告費を抑えられる。初動を形成しやすい。SNSで自然拡散されやすい。つまり、失敗リスクを下げやすい。

だから現在の市場では、「配信適性=低リスク化」という構造が成立してすらいる。

そしてそうなると、やった人だけがわかる面白さ、という渋さよりも、見ているだけで満足するような傾向を促進したもののほうが安牌になる。現代の認知はやるよりも見ることに強く主軸をおいているからこそ、直感的な面白さを重視するのだ。

けれど、ここで「配信向け作品は悪い(良くない)」と言いたいわけではない。

問題なのは、それが「最適解」として固定されること・・・・・・この記事のメインはこれだ。

人気ゲームのフォロワーが増えることが危ういのではない。成功モデルが投資判断の基準になり、資本や露出がそこへ集中し始めるのが不穏なのだ。

制作費が高騰した市場では、「再現性のある成功」が重視されやすい。すると、未知の体験よりも、既に数字化された成功条件が優先される。

その結果、「成立しうる作品」そのものが徐々に偏っていく。その逸脱や冒険が許されず、均質化した市場に変容する。

しかし市場が一方向へ収束すると、新しい人を拾えなくなる。全員が同じ成功条件を参照し、同じ方向を向き始めると、「既にその価値観に適応している人」しか残らなくなるからだ。

やがて、逸脱も生まれにくくなる。

本来、文化の発展は、少数の異常値や例外から始まることが多い。既存文脈から少しズレたもの、最初は理解されなかったもの、売れるかどうかわからなかったもの。そうした逸脱が、後から新しい流れになる。

だが市場全体が「安全な成功条件」を共有し始めると、その逸脱自体が成立しにくくなる。

結果として、市場は安定する代わりに、新しい入口を失っていく。

「そうするのが合理的だ」と大勢が流れると、文化はどう変化するのか。

そして、市場全体が「どうすれば配信されるか」を中心に回り始めると、制作思想そのものはどう変化していくのか。

文化が衰退する時、何が起きているのか

改めて、この記事における「文化衰退」の定義をはっきりさせておきたい。

というのも、衰退という言葉は、すぐに「売上が落ちること」と結び付けられやすいからだ。

しかし実際には、文化は売上だけでは死なない。むしろ危険なのは、多様性が失われることだ。

たとえば市場全体が、ある特定の成功パターンへ集中し始めるとどうなるか。当然、その方向に近い作品は増える。一方で、それ以外の作品は減っていく。すると市場の入口が徐々に狭くなる。

対戦ゲームが好きな人。協力プレイが好きな人。リアクション重視の配信文化を楽しめる人。そうした層にとっては、むしろ今の市場は豊かに見えるかもしれない。

しかし逆に、静かなRPGを求める人、個人的な没入を重視する人、じっくりひとりで試行錯誤したい人、自分だけのペースで遊びたい人にとってはどうだろうか。

もし市場全体が「見て面白い」「共有しやすい」「配信向き」という方向へ寄り続ければ、そうした人々が触れられる作品は徐々に減っていく。

この変化は、別に誰かが悪意を持って排除しているわけではない。善悪問わず、市場が合理的に動いた結果として、そうなっていくだけの話だ。

文化が痩せる時というのは、必ずしも失敗作が増えた時ではない。

本当に危険なのは、「合わない人が戻ってこなくなった時」だ。

  • 「あのジャンル、最近やらなくなったな」
  • 「昔は好きだったけど、今はもう追ってないな」
  • 「なんか自分向けじゃなくなったな」

そうして静かに離脱した人たちは、数字としては見えにくい。しかし文化の広がりとは、本来、違うタイプの人間が、それぞれ違う入口から入ってくることによって成立している。

私はこれが恐ろしいのだ。一過性の流行りで大勢が流れ、そして飽きたときにもう何も他に残っていない、この未来像が。

市場の多様性が減少していく様子を示した図

「配信はゲームにとって得」は本当か

こういった話をすると、テンプレ的な反論が出てくる。

「でも実際、配信によってゲーム市場は広がっているのでは?」

これはかなり重要な指摘だ。そして言い分は真っ当であるが、万能ではない。

この問題が収束しないのは「売上」と「文化」を混同させてしまうことにある。

まず、そもそもとして配信文化は売上に大きく貢献している。『Among Us』『Phasmophobia』なんかは明確で、配信文化によって救済された側面は非常に強い。つまり、配信文化がゲームの売上を著しく落としている、というのは大局的には通用しにくい。

しかし、この記事で問いたいのはそこじゃない。主旨は文化の変質や影響だ。故に、この反論は売上という部分においては強いが、文化の側面においては成り立たない。

そして再三言っている通り、私は配信文化を否定する気はまったくない。決して「配信を主軸にした媚び売ったゲームはやめろ」「ゲームを消費して迷惑だ」なんてラディカルなことを言うつもりはない。

問題は、その「入口拡張」と「文化としての定着」を同じものとして扱っていいのか、という点にある。

たとえば、配信を見て一時的に話題へ参加する人と、実際にゲームを購入し長期的に追い続ける人は必ずしも一致しない。

つまり、視聴者、プレイヤー、長期ファンは、それぞれ別の層でもあるのだ。

視聴者とプレイヤーと長期ファンの違いを示した図

もちろん重なる部分はある。しかし、「多くの人に見られたこと」と、「深く支持されること」、はたまた「実際にプレイされること」は同義ではない。

配信文化が強いのは「認知」という部分にすぎない。短期間で大量の人へ届く。話題になる。SNSで共有される。ミーム化する。だから初動の爆発力を生みやすい。

ただ、それと「作品が長期的に文化として残ること」は別問題でもある。

実際、短期的に大流行した作品が、数年後にはほとんど語られなくなることは珍しくない。一方で、初動はそこまで大きくなくても、長期的な支持によって定着していく作品もある。

つまり、短期ヒットと長期文化形成は別なのだ。

そして後者に必要なのは、単なる話題性だけではない。

「この作品が好きだ」と思う人がいること。長く語りたいと思う人がいること。次回作を待つ人がいること。つまり、熱量を持ったファンの存在だ。

しかし市場全体が、「まず拡散されること」「まず認知を取ること」へ最適化していくと、どうしても短期的な話題性へ寄りやすくなる。

何度も言うが、これ自体はなんら悪ではない。短期回収型の作品にも価値はあるし、瞬間的な盛り上がりそのものを否定する理由はない。

ただ、「それだけが最も合理的な成功条件」になった時、市場は徐々に一方向へ収束していくだろう。これは本当に望むべくことなのか?

だから問題は配信文化そのものではない。

「配信適性だけが安全牌になる環境」なのだ。

衰退は目に見えない

私自身、ゲーム配信はよく見る。それが嫌だとか、嫌いだとかなんてことはない。自分で遊ぶ以外の方向性が成り立った現状、ゲーム好きにとって不満は少ない。

実際、配信はゲームの可能性を大きく広げた。

ただ、その一方で問題も表層化してきた。

もし市場全体が、「配信されやすいこと」を中心に回り始めたなら。もし「見る面白さ」だけが、最も安全で、最も合理的な成功条件になったなら。

そこでは少しずつ、見えにくい価値が弱くなっていく。

静かな没入感。個人的な試行錯誤。寄り道。長時間かけて積み上がる感情。誰かと共有しなくても成立する体験。そうした、「外から見えにくい遊び」は、市場構造の中で不利になりやすい。

もちろん、すべての作品が革新的である必要はない。流行を取り入れること自体も自然なことだ。

しかし、本来文化というものは、多数派の最適解だけでは発展しない。

少しズレたもの。最初は理解されなかったもの。売れるかどうかわからなかったもの。そうした逸脱が、後から新しい流れになることがある。

だから危険なのは、人気作が存在することではない。

市場全体が、同じ評価軸だけを参照し始めることだ。

単一評価軸への最適化は、短期的には非常に合理的ではある。成功例を模倣し、リスクを下げ、認知を獲得しやすくする。だからこそ、多くの制作側がそこへ向かう。

だが、その合理性が市場全体へ浸透した時、可能性の拡張は、逆に可能性の収束へ変わっていく。

文化の衰退は目に見えない。その不可逆な展開は、逸脱が不可能になった時にやがて見え始めるのかもしれない。

多様だった市場が徐々に同じ方向へ収束していくイメージ

ランダム記事(表示できない場合はページを再読み込みしてください)