【メタファー:リファンタジオ】王道の再翻訳とは何か:設計から読み解くRPG分析

8年。

中学生が就活を考える年齢になり、新卒社員はプロジェクトを任される側に回り、喃語しか喋れなかった赤子は筋道立てて言葉を操るようになる。単語で見れば短い2文字だが、人間が変わるには十分すぎる時間だ。

そしてこれは、アトラスが「完全新作RPG」を世に出すまでの時間でもあった。

発表は2016年。そこから初報らしい初報が出るまでですら7年。発売に至るまで、文字通り難産だった。「そういえばそんな計画あったな」と友人と話していたのが懐かしい。

だからこそ、この2024年10月11日は個人的に特別だった。

ずっと待っていた。

そんな滾る思いのまま5日でトロコンし、思った。これは、確かに「王道を再翻訳している良いRPGだ」と。これは語らざるを得ない、と。

ということで本記事では『メタファー:リファンタジオ』の設計に宿る、再翻訳の主張を分析したいと思う。

本作が成し遂げたのは「新しさではなく理解可能な形への変換」であり、そして翻訳とは「理解可能化設計(≠簡略化)」のことだと私は考えた。それについて以下、考察をまとめる。

メタファーによる王道の「翻訳精度」

メタファーは尖った新規性で驚かせるタイプのRPGではない。物語も構造も、かなり素直に王道へ寄っている・・・・・・にもかかわらず、薄くないし、退屈でもない。

この違和感・・・・・・「王道なのに刺さった」という感触の正体を、ここでは言語化してみたい。

本記事は、クリア後のプレイヤーが抱えている「良かったのに言葉にならない部分」を回収するためにある。「たしかにそうだった」と腑に落ちる再発見を、作品の設計とプレイ体験の両面から拾っていく。

以降、扱う視点は大きく4つ。

  • 王道化しても消えなかった「アトラスらしさ」は、どこに残っていたのか
  • 戦闘と育成は、なぜ「役割」をここまで気持ちよく触らせたのか
  • UIは、なぜ情報量をストレスではなく「快感」に変えられたのか
  • 「説明不足」に見える余白は、何を狙い、なぜ賛否を生んだのか

結論を先に言えば、この作品は「古典的な王道」をただ繰り返したのではない。王道を現代語訳し、プレイヤーの手触りとして再実装したRPGだった。

この記事では、その翻訳精度がどこで発揮されているのかを順に分解していく。

「アトラスらしい王道」とは何か?

メタファーがまだその名前じゃなかった頃、発表番組の中でヨコオタロウ氏が放ったセリフが印象に残っている。

「何やってるんですか!」

もちろん、これは本気の批判ではない。

「アトラスがニッチな立ち位置にいるから食い合わずに済んでいるのに、そんな会社が王道をやったらこっちの仕事がなくなるじゃないですか」という、場を和ませるための冗談だ。

だが私は、その言葉に妙なリアリティを感じてしまった。

アトラスが王道をやる・・・・・・それは、自分たちの持ち味を殺す選択にならないのか?

私にとっての「アトラスらしさ」とは、世情や現代的な問いをファンタジーと地続きの世界に落とし込む、その紙一重の感覚にある。

現実と非現実の境界を曖昧にしながら、プレイヤーを異界へ連れ出す。東京が崩壊し、南極に異空間が開き、日常のすぐ裏側に別の常識が口を開ける。そうした世界観は、決して王道的ではなかった。

ペルソナシリーズを振り返ってもそれは明らかだ。

高校生の日常という極めて現実的な舞台に、「隠された時間」「歪んだ異界」「虚構へ繋がる装置」を重ね合わせ、人が目を背けがちな問い・・・・・・自己との対峙、言葉の暴力、生と死、欺瞞と真実、正義の不在などをファンタジーの形で突きつけてきた。

そうした捻くれた問いの立て方こそがアトラスの美点であり、私が惹かれてきた理由だった。

「異端」「ニッチ」という言葉が似合う一方で、「王道」とは最も遠い場所にいる会社。だからこそ、ハイファンタジーへの挑戦には期待以上に不安が勝っていた。面白くはなるだろうが無味無臭な物語にもなるのではないかと、正直そう思っていた。

だが結果として、その不安は杞憂だった。

確かにメタファーは王道だ。だが、その根底には『真・女神転生』以来描かれ続けてきた人間への視線・・・・・・甘さも残酷さも含んだ人間讃歌が確かに流れている。

メタファーは「別にアトラスがやらなくてもいいRPG」にはなっていなかった。明確に「アトラスらしい王道」があった。

橋野氏は本作を、「なぜファンタジーは人の心を惹きつけるのか」という問いから立ち上げたという。

生きるために幻想は不要だ。犬は政治を理解せず、クジラは神を必要としない。それでも人間は物語や虚構を欲する。なぜか。

この問いから始まった再解釈は、レディメイドのファンタジーをなぞることではなかった。

王道をそのまま使うのではなく、王道が機能する理由そのものを問い直す。その過程で生まれたメタファーは単なるハイファンタジーではなく、「幻想とは何か」を内側から描き直した物語になっている。

つまりここで行われているのは王道の否定でも迎合でもない。

アトラス流の視点で王道を読み替え、現代のプレイヤーに通じる形へ翻訳すること。

それこそが本作における「アトラスらしい王道」であり、翻訳精度の正体だ。

戦闘と育成が気持ちよすぎた理由

メタファーの戦闘と育成は単に出来が良いという以上に、触っていて妙な納得感がある。

爽快でもあり、戦略的でもあり、考えた結果がそのまま手応えとして返ってくる感覚。しかもそれが複雑さや煩雑さとしてではなく、「気持ちよさ」として成立している。

重要なのは、この快感が新奇なシステムによって生まれているわけではない点だ。

職業、役割分担、弱点突き、シナジー・・・・・・要素自体はRPGとして決して珍しくない。それでもメタファーの戦闘が強く印象に残るのは、それらが迷いなく直感的に扱える形へ翻訳されているからだ。

育成においても同様。

最適解を探す作業に引きずられにくく、「どう組み合わせたいか」「どう振る舞わせたいか」という意図がそのまま結果に反映される。考えることと遊ぶことが分断されず、戦闘そのものが表現の場として機能している。

この章では、アーキタイプとジンテーゼを中心に、なぜ戦闘と育成がここまで気持ちよく噛み合ったのかを見ていく。

それは単なる完成度の高さではなく、王道的なRPG文法をプレイヤーの手触りに合わせて再設計した結果だった。

メタファーリファンタジオにおけるアーキタイプ、ソードマスター

役割を体験に変換するということ

メタファーの戦闘は、フィールド上のアクションパートと、そこから移行するコマンドバトルの2層構造になっている。

流れ自体は過去のペルソナシリーズと地続きだが、決定的に違うのはアクションパートが単なる導線ではなく、役割を理解させる体験として機能している点だ。

これまでのシリーズでは、アクションは「先制を取るための儀式」に近かった。

敵を殴る、触れる、それで戦闘に入る。それ以上の意味は持たされていなかったし、正直に言えば出来も良いとは言えなかった。

だがメタファーでは事情が違う。

敵は一般的なアクションゲームに近い挙動でこちらに干渉してくるし、プレイヤーはそれを回避し、位置を取り、アーキタイプごとに異なる攻撃で応じる。さらに格下の敵は、コマンドバトルに移行することなくアクションだけで処理できる。

メタファーリファンタジオにおけるマップ移動

この一連の流れによって、「戦う前から、何を担う役割なのか」が自然に身体へ落ちてくる。

この判断は少し意外でもあった。

というのも、本作のディレクションを担当した橋野氏はアクションゲームを得意とするタイプではない。実際、過去作においてもアクション要素は最小限に留められてきたし、主軸に据えられることはなかった。

だが、メタファーの出発点が「ファンタジーの再解釈」である以上、既存シリーズの文法に寄り添うよりも必要な要素を改めて組み直すことが優先されたのだろう。その結果として選ばれたのがアクションの強化だったと考えると腑に落ちる。

実際、この選択は機能している。

アーキタイプごとにモーションが変わることで、役割の違いは説明文ではなく操作感で伝わる。ペルソナシリーズでは単調になりがちだった戦闘への導線が、ここでは緊張感と選択を伴うものに変わった。

もちろん、純粋なアクションゲームと比べれば物足りなさはある。

だが、メタファーはアクションを主役にした作品ではない。コマンドバトルを主とし、その前段階で「どう振る舞う存在なのか」を理解させる補助として設計されたこのアクションパートは、役割を体験へ翻訳する装置として十分に機能している。

適材適所のアーキタイプ

アーキタイプ、そしてジンテーゼという仕組みは、本作の戦闘と育成を決定づけている。

最初に触れたとき、「ペルソナと同じでは?」と感じた人も多いだろう。同意する。私も「ガワが変化しただけのペルソナ」だと思った。

だが実際、これは似て非なるものだった。これらは全員が万能になれるシステムではなく、パーティ全体で役割をどう組むかを考えさせる仕組みなのだ。

本作では、キャラクター固有の差異はロイヤルなど一部に限られ、それ以外のアーキタイプは基本的に誰でも履修できる。

極端な話、サムライ4人で編成することも可能だ。だが重要なのは「できる」ことではなく、「どう使うか」を問われる点にある。

アーキタイプの面白さは、単体性能だけでは強弱が判断できないところにある。

一見すると使い道が分からないものが、ジンテーゼや役割を軸に組み直した瞬間、不可欠な存在に変わる。「何に使うんだこれ」が「これがないと始まらない」へ反転する。その瞬間に、このシステムの楽しさが立ち上がる。

分かりやすい例が、ヒュルケンベルグの初期アーキタイプであるナイトだ。

レベル20になるまで攻撃手段を一切持たず、できることは挑発だけ。単体で見ればお世辞にも強いとは言えない。だがその代わり、ナイトはジンテーゼにおいて極めて強力な役割を担う。ここで評価されているのは火力ではなく、「場を成立させる能力」だ。

また、フェイカーも同様だ。

単体の攻撃性能は低いが、豊富なデバフ、強力なフィールドアタック、そしてジンテーゼ発動のリソースとしての汎用性を持つ。自分が輝くのではなく、他を輝かせるためのアーキタイプとして設計されている。

この設計は、ペルソナや悪魔システムとの決定的な違いでもある。

過去作では数多くのペルソナが存在したが、その大半は早々に役目を終え、有用なスキルだけが継承されていった。個々が完結しており、結果として使い捨てになりやすかった。

一方、アーキタイプには「不要な元型」がほとんど存在しない。

どれもが編成の文脈次第で意味を持ち、「この軸で組むならこれが必要だ」「この役割を立てるにはあのパッシブが要る」と、思考が連鎖していく。強さを選ぶのではなく、構造を組む楽しさが前面に出ている。

メタファーリファンタジオにおけるアーキタイプの組み合わせ

この思想は物語の主題とも重なっている。

メタファーが一貫して描くのは、「人はひとりでは限界がある」という感覚だ。王であっても万能ではなく、誰かと支え合うことで初めて可能性が広がる。

その象徴がプリンスの効果「ジンテーゼの発動条件を撤廃する」という設計だろう。

これは万能性の肯定ではない。むしろ、多様な役割が揃ってこそ力を発揮するという思想をシステムに落とし込んだものに見える。

戦闘中にアーキタイプを付け替えられない点については最初こそ不便に感じるかもしれない。だが、これは有意義な制限だ。仮に許してしまえばシステムは一気にペルソナ寄りになるし、キャラクターの存在感も薄れる。

そこで代わりに用意されているのが極端に低いコストでのキャラ入れ替えだ。

誰を前に出すか。誰を下げるか。

その選択こそがこのゲームにおける「付け替え」であり、役割を運用するための最小単位になっている。

アトラスのUIはなぜ快感を生むのか

アトラス作品、特に『ペルソナ3』以降のシリーズにおいて、UIはもはや1つの作風として語られてきた。

『ペルソナ5』に至ってはスタイリッシュさと操作性が完全に噛み合い、ゲームUIの到達点のひとつとして記憶されている。正直、あれ以上はもうないのではないか・・・・・・そう思っていたのは事実だ。

ペルソナ5のUI画像

だが、メタファーのUIはその懸念を前向きに裏切る。

初見では派手すぎて見づらいと感じる。だが、数分触れるだけで印象は反転する。操作は直感的で迷いがない。ストレスを感じたのは本当に最初だけだった。これこそまさしく、アトラスらしいUIだ。

メタファーリファンタジオのメニューUI

ここで重要なのは、メタファーのUIが「情報を減らす」方向には進んでいない点だ。むしろ情報量は多い。それでも快適なのは、どの判断を優先すべきかをUIが先回りして示しているからだ。

分かりやすい例がバトルUIの配置だ。

メタファーリファンタジオのバトルUI

スキルやジンテーゼといった主軸となる選択肢は大きく表示され、パスやアイテムは一段控えめなサイズに抑えられている。

もちろん、後者が不要という意味ではない。状況次第ではパスやアイテムが最適解になる場面も多い。だが「まず何を考えるべきか」という初動の判断はUIによって自然に誘導されている。

これは命令ではなく、無意識への助言に近い。

UIデザインのセオリーでは、自己主張を抑え、極力シンプルにすることが良しとされる。しかしアトラスのUIは真逆の道を選んできた。色、形、動き・・・・・・あらゆる要素を使ってテーマと意思を前面に押し出す。

シリーズごとにテーマカラーが明確だった点も象徴的だ。ただ、青、黄、赤と続いてきた中で、メタファーの色は掴みづらい。

あえて言うなら「無色」か。新たなシリーズの始まりとして、特定の色に寄せない選択だったのかもしれない。

そしてこのUIは、単なる見た目の刷新では終わらない。

思い返すとペルソナ5ではすべてのコマンドが等価に主張していた。一方メタファーでは新しいシステム・・・・・・特にジンテーゼのような要素に自然と触れてもらうための重み付けがなされている。

つまり、ここで行われているのは操作の簡略化ではない。判断の翻訳だ。

プレイヤーが考えるべきことを減らすのではなく、考えやすい順序に並べ替える。その結果として、情報量の多さはストレスではなく快感へと変換されている。

このUIもまた、王道的なRPG体験を現代の手触りへ翻訳するための重要な装置だと言えるだろう。

余白設計の美しさ

メタファーはすべてを丁寧に語るタイプのRPGではない。

だが、この語らなさをそのまま「手抜き」や「不親切さ」と捉えるのは、少し違う。メタファーで起きているのは情報の欠落ではなく、情報の置き方そのものの転換だ。

この作品は、世界や出来事を一元的な正解として提示しない。代わりに、断片的な情報、食い違う証言、立場によって異なる解釈を並べ、「どう受け取るか」をプレイヤー側に委ねている。

つまり、語られない部分は放置されているのではなく、解釈の余地として意図的に残されているのだ。

この余白は物語体験を希薄にするどころか、むしろ逆の効果を生む。

プレイヤーは情報を受動的に消費するのではなく、聞いた話を比べ、補い、自分なりの像を組み立てることになる。その過程自体が世界に関わる行為として組み込まれていて、没入感を補助する要素足り得る。

以降では、この「語られないことを肯定する設計」がどのようにシステムとして機能しているのかを見ていく。

  • 解釈を提示する存在としての風聞屋
  • 単一の真実ではなく集合知を見せる見聞録
  • 受け手の理解度によって情報量が変わるスキーマの問題

メタファーの余白は説明不足の言い換えではない。

それは物語を一方的に与えないための設計であり、王道ファンタジーを現代的な体験へ翻訳するための、もう1つの重要な装置だ。

「解釈」を示す風聞屋

RPGにおける「足で情報を稼ぐ」という行為が好きだ。

誰かに話を聞き、断片的なヒントを集め、それをもとに状況を推測する。町人の噂話から装備や目的地の存在を知る・・・・・・あの感覚には、旅をしている実感がある。

ただし、それはやり方を間違えると一気に苦行になる。

話しかけられるNPCが大量に存在し、その大半が無意味なことしか話さない。やがて情報収集が作業になった瞬間、その楽しさは失われる。正直に言えば、私はそういう設計があまり好きではない。

その点、メタファーの風聞屋は非常に割り切っている。

情報を得たいなら彼に聞けばいい。「誰が何を知っているか」を探し回る必要はない。この簡易さは、情報収集を面倒な作業から切り離すための明確な設計判断だ。

だが、風聞屋の本質はそこではない。彼が語る情報は、必ずしも完全でも正確でもないということ。実際に現地へ赴くと、「もう少し言うべきことがあっただろ!」と感じる場面も少なくない。

しかし、それこそが本来の役割なのだと思う。

彼は自分で確かめた事実を売っているわけではない。酒場や街角で囁かれる、半分本当で半分怪しい話・・・・・・そうした解釈と推測が混じった情報に価値を与え、商品として並べているにすぎない。

この設計によって、プレイヤーは「正解を教えられる立場」から外れる。

渡されるのは答えではなく、方向性と期待値だ。だからこそ実際の体験とのズレが生まれ、そのズレが「自分で確かめる」行為を促す。そして「もっとちゃんと調べとけよ風聞屋!」という思い出になる。

風聞屋は「冒険を効率化するための便利装置」ではない。噂話が必ずしも真実ではないという現実を、そのままゲーム体験に持ち込む存在だ。

この「信頼しきれない情報源」の存在自体が、メタファーにおける余白・・・・・・語られない部分をプレイヤーに委ねる設計の最初の一歩になっている。

見聞録は集合知を見せる

クリア後に他人の感想を眺めていると、同じ作品を遊んだはずなのに、解釈が大きく食い違っている場面に出くわす。説明されていたはずの要素が「回収されていない」と言われていたり、物語の前提が誤って受け取られていたりすることも少なくない。

ただ、これは「プレイヤーの理解力が低いせい」という単純な話ではない。

ゲームという媒体の性質上、体験は連続し、情報は分散し、しかも操作や戦闘を挟みながら進行する。そうなるとすべてを一度で正確に把握するほうが難しい。

しかし、キャラクターが逐一説明口調で語り始めるのも違う。

これをやられると、彼らが世界の中で生きている存在ではなく、「説明のために配置された人形」に見えてしまう。少なくとも私はあまり好みではない。語らずとも示す・・・・・・これを望む。

一方で、雰囲気だけに任せて情報を削りすぎると今度は推測のしようがなくなる。材料がなければ考察も成立しないのに。これは過去のシリーズ作品でもしばしば起きてきた問題だ。

この板挟みを解決するために用意されたのが見聞録だ。

メタファーリファンタジオにおける見聞録

物語の進行中に断片的に得た情報を、第三者的な視点で蓄積する場所。いわば、世界の出来事を一度俯瞰して並べ直すための装置だ。

重要なのは、見聞録が「絶対的な正解」を示していない点だ。

そこに書かれているのは、誰かの発言、ある時点での理解、状況に基づく整理・・・・・・つまり、単一の真実ではなく、集められた視点の集合でしかない。

プレイヤーはムービーや会話で得た印象と見聞録に残された情報を照らし合わせながら自分なりの理解を組み立てる。説明を押し付けられるのでも放り出されるのでもない。考えるための材料だけが、適切な距離感で渡される。

見聞録は、物語を分かりやすくするための補助輪ではない。語られなかった部分を後から補うための「集合知の提示」だ。これによって、メタファーは説明過多にも説明不足にも傾かず、余白を保ったまま物語を成立させている。

スキーマと情報量の差について

正直に言えば、私自身もメタファーを進める中で「よく分からなかった部分」や、勘違いしたまま通過した要素はある。

だが、それを大きな問題だとは感じなかった。そもそも、物語においてすべてが明らかにされる必要はあるのだろうか、という疑問がある。

ゲームや映画の感想を眺めていると、「説明不足」という言葉は頻繁に目に入る。

もちろん、本当に描写が足りず、「結局あれは何だったのか分からない」と首をかしげる作品も存在する。だが一方で、「あえて語らない」という表現上の選択まで欠陥として扱われている場面も少なくない。

前述した通り、私は登場人物が世界の仕組みを逐一説明し始める演出に抵抗がある。同様に、世界の構造や結末の解釈が公式によって一義的に確定されてしまうことにも強い違和感を覚える。

「最後に主人公は死んだ」と断言されたり、「あの描写に特別な意味はない」と明かされた瞬間、想像の余地は消えてしまう。これは悲劇だ。

解釈の余地が欲しいのだ。

分からないものを分からないまま残すことにも価値がある。現実世界ですら未解明の事柄が無数に存在するのだから、虚構の世界に曖昧さがあっても、何ら不自然ではないはずだ。

メタファーの場合、物語の根幹に関わる部分はきちんと説明されている。それでも語られていない点があるとすれば、それは説明が足りないのではなく、説明する必要がないと判断された部分、あるいは「各自の解釈に委ねたい」領域なのだろう。

ここで関係してくるのが、「スキーマ」という考え方だ。

例えば、次の場面を想像してほしい。

老若男女が一堂に会し、黒い服を着て、沈んだ表情をしている。泣いている人もいる。この場面だけで、説明やテロップがなくとも多くの人は「葬式だろう」と理解できるはずだ。

誰も何も語っていないのに、状況に意味を与えられる。

これは、人が自分の中にある既存の概念と照らし合わせて状況を理解するからだ。この認知の枠組みをスキーマと呼ぶ。モノトーンの画面やノイズがかかった音声を見て「回想だな」と判断するのも、同じ作用だ。

問題は、このスキーマが十分に共有されていない場合だ。

ある人は特に意識することなく理解できる一方で、別の人は「なぜ説明されないのか」と不安になる。「説明不足だ」という感想の多くは、作品の欠陥というより、スキーマの差によって生じる情報量の体感差だと考えられる。

しかし、理解度を完全に万人に合わせることは不可能だ。説明を厚くすれば「くどい」「分かりきったことを語るな」と言われ、削れば「描写不足」「不親切」と言われる。

だからその間を取り持つ設計として見聞録が置かれている。

物語の流れを止めず、必要な人には材料を渡す。読むかどうかはプレイヤーに委ねる・・・・・・この距離感こそが重要で、機能していると感じる。

メタファーの余白は決して「投げっぱなし」ではない。

理解の差が生まれること自体を前提に、その受け皿を用意した設計だ。

語られないことを否定せず、解釈する行為そのものを物語体験の一部として肯定している。そして私はその勇気を、強く評価したい。

「王道化の代償」としての不満点

ここまで述べてきた通り、メタファーは完成度の高いRPGだ。だが同時に、その完成度の高さゆえに生じた代償も確かに存在する。

最も分かりやすいのは、目新しさが薄いという点だろう。

システムも物語構造も、触っていて未知の領域に連れていかれる感覚は少ない。良く言えば安心感があり、悪く言えば「見たことがある」体験の積み重ねだ。

もう1つは過去文法への強い依存だ。

戦闘、育成、語り口、その多くが、これまでのアトラス作品・・・・・・特にペルソナシリーズで培われてきた文法の延長線上にある。新規IPでありながら、「これまでとは別物だ」と断言できるほどの断絶はない。

だが、これらは単純な欠点だろうか。

メタファーは「これまでにない何か」を提示する作品ではない。そうではなく、既にある王道と文法を現代の感覚へと再配置することを選んだ作品だ。

つまり、目新しさの薄さや文法依存は挑戦不足の結果ではなく、再翻訳という方針を採ったことによる必然的なトレードオフだと言える。

この章では、そうした不満点を曖昧に打ち消すのではなく、「なぜそう感じるのか」「それが何を意味しているのか」を整理していく。

メタファーを否定するためではなく、この作品がどこに立っているのかを明確にするために。

目新しさは薄い

メタファーに対して多くのプレイヤーが感じるのはこの点だろう。ガワや細部こそ違えど、やっていることの多くはペルソナシリーズと地続きだ。発売前から散々言われていた通り、強い既視感がある。これは否定しようがない。

残念ながら本作は「これまでにない何か」を提示するタイプのゲームではない。

未知の体験で驚かせたり、新しいジャンルを切り拓いたりする作品とは異なる。これまでに遊んだ中で特に好きな1本ではあったが、内容の大半は「どこかで見たもの」の組み合わせだ。

この点だけを切り取れば評価が伸びきらない理由も分かる。新規性という軸で見るなら、突出しているとは言い難いからだ。いわゆるGOTY的な文脈に乗りづらいのも妥当。

ただし、ここで一度立ち止まる必要がある。新しくないことは、そのまま欠点なのだろうか。

個人的には、エンターテインメントにおいて最も重要なのは「面白いかどうか」だと思っている。

たとえば、ソウルライクやメトロイドヴァニア、ローグライクと呼ばれる作品群も、突き詰めれば既存文法の再利用だ。それでも多くの作品が支持されてきたのはリスペクトを持った再構築がなされていたからだろう。

メタファーも立ち位置としてはそれに近い。

過去作の焼き直しに見える部分は多いが、それは手抜きではなく、既に確立された文法を別の文脈で使い直す選択だったと捉えられる。

目新しさが薄いという評価は正しい。だが同時に、それは「失敗」の証拠でもない。

この作品が選んだのは革新ではなく再翻訳だった。そしてその方針においてできる限りの完成度を目指した結果が、今のメタファーなのだと思う。

過去文法への依存

ここも、不満点として挙げるべきかどうかは正直迷うところだ。

というのも、私は初代メガテンから続くあの手の理不尽な難易度にすっかり慣らされてしまっている。バックアタック、反射、即死級スキル・・・・・・理屈より先に殺される展開にも、「まあそういうものだよな」で納得してしまう側の人間だ。

普通ならこうした理不尽はモチベーションを大きく削ぐ。だがメガテン系列に限っては不思議と「ハイハイいつものね」と受け止められてしまう。良く言えば順応、悪く言えば調教。

メタファーにも、そうした「いつもの文法」は確かに残っている。

突然の大ダメージ、押し切られる展開、プレス増加からのクリティカル連打。場面によっては理不尽だと感じる敵も出てくる。

ただし、過去作と決定的に違う点もある。それは、失敗したときの受け止め方が明らかに優しくなっていることだ。

リトライのコストは低く、オートセーブも徹底されている。理不尽な展開に遭遇しても、「もう1回やってみよう」で済む。精神的なダメージが致命傷にならない設計だ。

メタファーリファンタジオにおけるリトライUI

橋野氏がたびたび語ってきたように、旧来のメガテンシリーズは新規参入に厳しかった。

これはその通りで、ゲームとしての不親切さがそのまま参入障壁になっている面は否定できない。それは作品の価値とは別の話としての事実だろう。

ペルソナ3以降、その排他性は意図的に削ぎ落とされてきた。遊びやすさを優先し、理解できる導線を整え、多くのユーザーを迎え入れる方向へ舵を切った。メタファーもまた、その延長線上にある。

本作は過去文法を捨ててはいない。だが同時に、それをそのまま放置もしていない。

「理不尽さ」という旧来の感触を残しつつ、受け止め方だけを現代向けに翻訳している。

結果として、古くからのファンには懐かしく、新規には致命傷にならない。このバランスは明らかに意図されたものだ。

とはいえ、だからといってすべてを肯定できるわけでもない。同じではあるが違う、しかし同じじゃないか・・・・・・この批評の落とし所は、難しい。

これは、「古典を現代語訳したRPG」だ

本作は、主人公が王となった後に、過去の旅を振り返る構造を取っている。

道中で語られる出来事は世界を巡った紀行録であり、王になる前の視点から綴られた記憶だ。この構造自体がすでに示唆的だ。旅とは、後から意味づけされるものだからだ。

ペルソナシリーズのエンディングが強く心を揺さぶる理由もそこにある。

限られた期間を仲間と過ごし、日々を積み重ね、そのすべてが最後に思い出として押し寄せてくる。メタファーも同様に、仲間たちと過ごした数ヶ月は短いようでいて驚くほど密度が高い。

鎧戦車での移動、食事、野営での会話、各地の風景。物語の核心とは直接関係しない時間が旅としての実感を形作っていく。背景美術やロケーションもまた、語られない歴史や余剰を感じさせ、「ここで何があったのか」と想像させる余白を残していた。

振り返ってみれば、私は確かに彼らと一緒に冒険をしていた。

スクリーンショットを見返すだけでその時間が具体的に蘇る。それは単なるゲーム体験ではなく、記憶として定着している。

メタファーが特別なのは、奇抜なことをしたからではない。むしろ逆だ。王道的な構造、古典的なファンタジー、既存の文法・・・・・・それらを否定せず、今の感覚に合わせて丁寧に翻訳し直した。

戦闘は役割を体験に変換し、UIは判断を翻訳し、物語は語られないことを肯定する余白を残した。すべてが、「分かりやすくする」ためではなく、触って納得できる形に置き換えるための設計だった。

だからこそ、この作品は消費で終わらない。

一度遊んで終わる娯楽ではなく、時間が経っても思い出せる旅になる。それは新しさによる刺激ではなく、古典が持つ強度を現代の手触りで受け取れたからだ。

私はきっと、このゲームを忘れない。10年先でも風景や会話の断片を思い出すだろう。メタファーは、人生を少しだけ豊かにしてくれる幻想として、確かにここに残った。

本当に、良い旅だった。


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