なぜXはこんなにも息苦しいのか:SNSがしんどくなった設計の変化を分析する

「SNSって、そこまでしてやる意味ある?」

友人と話した時、そんな言葉が口をついて出た。これはSNS批判というより、純粋な疑問だった。

「◯◯が△△で炎上してるらしい」と言う彼は楽しげではないように見える。更新が義務になり、膨大な情報によって疲弊し、サービスに振り回されている彼の姿を見て「SNSっていいね」などとは到底思えない。

そもそも「楽しそうにSNSをやる人」というのがかなり少なくなっているのではないかと思う。

いつからか、SNSはしんどいものになった。これは主観ではなく、様々な方面から聞こえてくる嘆きだ。

その理由は、民度の変化か?

私はそう結論しない。思うに、プラットフォームの変化が影響として一番大きいのではないか。

その最たる例として思い当たるのがXだ。

140文字のつぶやきが主体の投稿SNS「Twitter」が、万能アプリ「X」へと変わってもう数年が経つ。イーロン・マスクが「Twitterという名前は140文字の投稿サービスの名残。今やそれではない」といった旨の発言をする通り、UXは別物に近くなった。

私はかつてこそTwitterを楽しんでいたが、Xはしんどすぎて早々に撤退した。では、そこにはいったいどういう変化があり、影響を及ぼしたのだろうか。

楽しかった過去は事実だが、しんどい現在も同様に事実。この変化には何が影響しているのか。

本記事では、TwitterとXの変化構造を分析し、SNS利用そのものへの考察を行う。SNSは本当にやる意味があるのか、その一考の余地が提供できればと思う。

なぜXは息苦しいのか

静かな部屋に外部の情報や通知が大量に流れ込むイメージ

昔のTwitterはもっと静かな場所だったように思う。

もちろん、炎上が無かったわけではない。誰かが暴れ、誰かが怒り、誰かが燃える。そういうことは昔から起きていた。

だが少なくとも、こちらから見に行かなければそれらはある程度遠い場所の出来事だった。自分でフォローした相手を見て、自分で関わる範囲を決める。嫌なら見ない、関わらないが成立していた。タイムラインというものに最低限の「自分の空間」という感覚があった。

しかし、今のXはどうだろう。

タイムラインを開けば、知らない誰かの怒号が流れてくる。政治、戦争、対立、ヘイト、炎上。誰かの喧嘩、誰かの失言、誰かの断罪・・・・・・常に何かが燃えていて、しかもそれが自分の視界へ半ば強制的に流し込まれてくる。

ここで特に強く感じるのは「お前誰だよ」という感覚だ。

自分がフォローしていない人間、自分と何の関係もない人間、自分が見たいと思っていない投稿・・・・・・それらが当たり前のようにタイムラインへ侵入してくる。おすすめ欄を閉じても、別の形でまた入り込んでくる。

気がつけば、タイムラインは「自分が選んだ場所」ではなく、「プラットフォーム側が見せたいものを流す場所」へ変わっていた。

それが正しい意見かどうかは関係ない。単純に不愉快なのだ。自分の部屋だと思っていた場所に、知らない誰かが土足で入ってきて「今こんな話題が盛り上がってるよ」と話しかけてくるような、そんな感覚に近い。

「最近のネットは荒れている」

「民度が下がった」

「みんな余裕がなくなった」

そういう説明も間違ってはいないのだろう。しかし、どうも腑に落ちない。なぜなら、問題の本質は「誰かが(何かが)荒れていること」ではなく、「それが避けられないこと」にあるように思えたからだ。

昔のTwitterにも地獄はあった。だが、少なくとも自分で距離を取ることはできた。しかし今のXは、その境界線をシステム側が踏み越えてくる。こちらの意思に関係なく、争いや怒りを可視化し続ける。

ならば、これは本当にユーザーの問題なのだろうか。

人々の民度が突然下がったからXは息苦しくなったのか。そうとは思いにくい。言ってしまえば、民度なんて昔から悪かった。じゃないならバカッターなんて存在しないはずだ。

つまり、この感覚はSNSそのものの設計が変わった結果なのではないか。

X自体が邪悪さを増長させる仕様になった・・・・・・今の息苦しさの根本原因は、それが大きく影響しているのではと思えてならない。

Twitterは「庭」だった

静かで小規模な庭のイメージ。旧Twitterの落ち着いた空間性を表現

当時、TwitterというSNSが特殊だったのは「自分で世界を選べる」という感覚が強かったことが要因として大きい。

今のSNSは基本的に「おすすめ」が中心だ。自分がフォローしているかどうかとは関係なく、反応の大きいもの、滞在時間が伸びるもの、拡散されやすいものが優先的に表示される。つまり、ユーザーは「与えられた世界」を見る。

しかし、昔のTwitterは少し違った。

かつて、フォローは境界線だった。誰を見るか、誰を見ないか。その選択によって、自分のタイムラインが形成されていた。もちろん完全ではないにせよ、「ここから先は自分で選んだ空間だ」という感覚が確かに存在していた。

だからこそ、「嫌なら見ない」が成立していた。

合わない人はフォローしない。うるさい話題からは離れる。興味のないコミュニティには近づかない。しんどい世界なのは、しんどい世界を選択しているから、というのは正論だったのだ。

インターネット特有の揉め事や炎上は昔からいくらでも存在していたが、それでもなお、自分で距離を取ることはできた。少なくとも、アルゴリズムが勝手にそれを居間へ持ち込んでくるような感覚は薄かった。

この「選択できる」という感覚は非常に重要だったと思う。

Twitterは巨大SNSでありながら、体験としてはむしろ小規模コミュニティに近かった。

仲の良いフォロワー同士でゆるく繋がり、たまに知らない人のツイートが流れてきて、そこから輪が広がる。完全に閉じているわけではないが、かといって常時すべてが接続されているわけでもない。その曖昧な距離感が心地よかった。

それは、よく手入れされた庭に近い。

自分で植えるものを選び、自分で配置し、気に入ったものだけを育てていく。雑草が生えれば抜けばいいし、落ち着かないなら別の場所へ移動すればいい。

あるいは、自室や、小さなバーでもいい。決して広くはないが、だからこそ落ち着く場所。Twitterには、そういう「半私的空間」としての性質があった。

そしてそもそも、タイムラインとは本来そういうものだったはずだ。

単なる情報の流れではなく、「自分で選んだ人間関係の集積」。そこには少なくとも、「自分の空間を自分で調整している」という感覚が存在していた。だから愛着や帰属意識というものもあった。

つまり、旧Twitterとは「選択型SNS」だったのだ。

もちろん、昔もRTだったりで外部の情報が紛れ込むことは多々あった。完全に自分だけの空間だったわけではない。しかし、少なくとも「自分で調整している感覚」は今より強かった。

ユーザー自身が境界を決め、何を見るかを決める。アルゴリズムではなく、自分の意思によって空間を編集できるSNS。だからこそ、多少荒れていても、多少面倒な人がいても、多くの人はそこに居場所を感じられたのだと思う。

Xは「広場」になった

しかし、今やもうそんな設計は「懐古」になった。Xにおける空間の性質は大きく変化し、Twitterが好きだった人こそ特に不快感を催す仕様になった。

もっとも象徴的なのが、「おすすめ」の存在だろう。

今のXを開くと、まず目に入るのはフォローしている相手ではない。アルゴリズムが「今これが盛り上がっている」と判断した投稿だ。

そこに自分との関係性はほとんど考慮されず、話題になっているか、反応が大きいか、滞在時間を伸ばせるかどうかで勝手に表示される。

つまり、主語が変わったのだ。

かつてのTwitterは、「誰を見るか」のSNSだった。

しかし、Xは「何が話題か」のSNSになった。

これは単なるUI変更ではない。サービスそのものの設計思想が変わったということだ。

Twitterでは、タイムラインは基本的にフォロー関係によって構築されていた。もちろんおすすめ表示やバズツイートが混ざることはあったが、中心にあったのはあくまで人間関係だった。だからこそ、「誰と繋がるか」が重要だった。

しかしXでは、「発見」が優先される。

フォロー外投稿は日常的に流れ込み、トレンドは常時視界に入り、今まさに燃えている話題が絶えず供給される。自分が興味を持っていようがいまいが関係ない。アルゴリズムは、「あなたが見たいもの」よりも「あなたが反応しそうなもの」を優先して運んでくる。

その結果、タイムラインの意味そのものが変わった。

以前は、自分で選んだ空間だった。だが今は、「世界で今起きている騒ぎ」が流れ込む場所になっている。

これは感覚として、庭から広場への変化に近い。

広場には常に誰かがいる。叫んでいる人、喧嘩している人、宣伝している人、怒っている人、演説している人。静かに座っていたくても、周囲の喧騒は止まらない。さらに言えば、その広場は巨大な市場でもあり、闘技場でもある。

注目を集めた者が勝ち、反応を取った者が得をする。

そこでは当然、穏やかな会話よりも、強い言葉のほうが有利になる。怒り、断罪、対立、嘲笑。そうした感情は拡散力が強く、人を引き留めやすいからだ。

大勢の人と広告が溢れる騒がしい広場のイメージ

さらに、そのグロテスクな闘技場は、とあるシステムがその構造をより露悪的な方向へ加速させている。

収益化だ。

インプレッションによって収益が発生する以上、「見られること」自体が価値になる。すると、一部のユーザーは過激な発言や対立煽りを戦略として使い始める。もはや単なる承認欲求ではなく、システムそのものが注目獲得競争を促進しているのだ。

加速度的に悪意が撒き散らされるようになったのは偶然ではない。システム上、当然の帰結だった。

つまり、Xは民度の低下で荒れてしまったのではない。むしろ、「発見型SNS」として合理的に進化した結果、現在の姿になったと言うほうが正確だろう。

そして、この変化によって失われたのがまさしく、かつてTwitterに存在していた「自分で空間を選んでいる感覚」だった。

「争い」が息苦しさの正体か?

ここでの主題は「昔は平和だった」というものではない。

そもそもインターネットは昔から荒れていた。ここを美化するのはまさしく懐古であり、事実を歪曲するタイプのよろしくないものだ。

ニコニコ動画や匿名掲示板文化などを見ればわかるように、煽り、レスバ、炎上、誹謗中傷、そういったものはずっと存在していた。Twitterにも当然それはあったし、定期的に誰かが燃え、誰かが叩かれ、誰かが謝罪していた。

だから、「最近のネットは荒れた(Xが特別に時代性を請け負っている)」という説明には、どこか違和感がある。

正確には、争いそのものが増えたのではない。少なくとも、ユーザーが突然邪悪になったわけではない。問題の本質は別のところにある。

それは、避けられなくなったことと、仕様が助長してしまうということだ。

まず、Xでは対岸の火事と見なす境界線をシステム側が飛び越えてくる。つまり、現在のXで起きているのは「炎上の増加」というより「炎上の常時接続化(優先的可視化)」なのだ。

この違いはかなり大きい。

人は、嫌な情報そのものよりも、「逃げられないこと」に強いストレスを感じる。たとえば騒音でも、短時間なら我慢できる。しかし、四六時中続けば精神的に消耗する。しかも、それを自分では止められないとなればなおさらだ。

今のXに通ずる息苦しさも、まさにこれに近い。

誰かが喧嘩していることが問題なのではない。それが避けられず、視界に入り続け、しかもアルゴリズムによって増幅されるのが諸悪の根源だ。

ゆえに、自分で空間を管理している感覚がない・・・・・・これが決定的なのだと思う。

何を見るかを決めているのは自分ではなくアルゴリズムであり、そして極端なヘイトこそ最も効率的に稼げる・・・・・・ゆにえ偽善よりも露悪が戦略的に正しくなる。すべてが悪意の増幅に合致してしまっている。

だから疲れるのだ。

タイムラインが荒れているからではなく、自分の空間であるはずの場所に自分の意思と無関係なものが入り込み続ける・・・・・・その侵入感こそが、Xの息苦しさの正体なのだと思う。

家の隣で工事が続き、静かに休めない様子のイメージ

なぜこうなってしまったのか?

では、なぜXはこうした方向へ変化したのだろうか。

よくある勘違いとして「運営が突然悪趣味になった」というものがある。これはもちろん違う。ヘイトが最適解という現状から、結果的にそう見えるが、発端に「悪意を増幅させよう」という意識は当然なかったはずだ。

現在のXは極めて合理的に動いている。問題は、その合理性がユーザー体験と噛み合わなくなっていることだ。

まず前提として、Twitterは長らく広告依存型のSNSだった。

ユーザー数や影響力は巨大だったが、収益構造はかなり不安定で、基本的には広告収入に頼っていた。しかし、イーロン・マスクによる買収以降、広告主の離脱やブランド安全性の問題が発生し、従来型の広告モデルは大きく揺らぐことになる。

すると当然、別の指標が重要になる。

それが「滞在時間」だ。

どれだけ長くアプリを見続けるか。どれだけ反応するか。どれだけ画面を閉じないか。現在のSNSはこの競争に入っている。そして、この構造を最も極端な形で成功させたのがTikTokだった。

TikTokは、「誰をフォローしているか」よりも、「何に反応するか」を重視する。

だからこそ、次々に刺激的なコンテンツを流し込み、ユーザーをアプリへ拘束することに成功した。Xが近年行っている変化も、本質的にはこのモデルへの接近だと思う。

  • おすすめ中心設計
  • フォロー外投稿の大量流入
  • 常時更新されるトレンド
  • 短時間で強い反応を引き出す投稿の優先表示
エンゲージメントや滞在時間を分析するSNSアルゴリズムのイメージ

これらはすべて、「ユーザーに空間を提供する」というより、「ユーザーを画面へ留める」ための設計として理解すると整合性が取れる。

つまり、現在のXにとって重要なのは、「快適かどうか」ではなく、「反応するかどうか」なのだ。

そして、ここで問題になるのが、人間は何に最も強く反応するかという点だ。

答えは比較的単純で、怒りや不安、対立となる。

穏やかな会話よりも炎上。静かな日常よりも断罪。冷静な議論よりも極端な意見。そのほうが人は立ち止まり、反応し、引用し、拡散する。つまり、エンゲージメントが高い。

だから、結果的に不愉快で悪質なものが優先的に上げられる。なぜなら、それが最も人を滞在させるコンテンツだからだ。

第一子誕生の話よりも、「実はこのタレントはひどい暴言を吐いた上、前妻に対して未だに嫌がらせをしている」という暴露のほうがインプレッションは伸びる。結局、誰かの争いが最も簡単に注意を引きつけるのだ。

これはユーザーの民度というより、ただの人間の認知特性に近い。

さらに、収益分配制度がこの構造を加速させている。これは文化ではなく、ただのインセンティブだ。より多くを稼ぐ方法としてヘイトが簡単、だからやる、これだけ。

つまり、ユーザーが急に邪悪になったわけではないのだ。システム側が、「怒りのほうが伸びる」「対立のほうが滞在時間を稼げる」という構造を採用した結果として、現在の空気が形成されている。

Xにおいて、怒りは偶然拡散してしまうものではない。広がらない理由のない、シンプルな着火剤だ。

となると「ユーザー層の変化」というものも曖昧な意見に思えてしまう。本当に悪人が増えたのか、悪意を持ったユーザーが増えたのか?

私はこういった言説にかなり否定的で、むしろ人間そのものはそこまで変わっていないのではないかと考えている。

インターネットには昔から変な人がいた。にもかかわらず、なぜ今のほうが息苦しく(変なやつがめっちゃ多く)感じるのか。

理由は単純で、「そういうものを目にする確率」が劇的に変わったからだ。

つまり今起きているのは、「人類の性格が急激に悪化した」というより、「可視化される感情の種類が変わった」という話に近い。

たとえば、防犯カメラと速報アプリによってごく少数の変人が常時見えるようになったとしたら、人はその街を以前より危険だと感じるだろう。犯罪件数などが仮に横ばいであったとしても。

同じように、Xでは怒りや対立が「どこかで起きているもの」ではなく、「常に視界へ入るもの」へ変化した。だから、多くの人が「ネット全体が怖くなった」と感じるのだ。

これは利用可能性ヒューリスティックと呼ばれるもので、いわば勘違いに近い。

  • 炎上投稿ばかり見える
    • →「世の中みんな攻撃的だ」
  • 凶悪犯罪ニュースを大量に見る
    • →「治安が崩壊している」

たとえば移民問題の攻撃的ポストを見て「やっぱり移民はマトモじゃないんだ」と思うのもそう。しかし、実際に働いている外国人などが暴動を起こしている場面を、いったいどれだけ見たことがあるだろう?

アルゴリズムによって「強い感情」が反復表示されるため、実数以上に、常態的に、社会全体の空気として感じやすくなる。一部の過激な現象が、世界全体の雰囲気として知覚される・・・・・・まさにヒューリスティックだ。

もちろん、単に可視化されただけではなく、インセンティブ設計そのものがユーザー行動へ影響を与え、人間の振る舞い自体を実際に変質させている面もあるだろう。ただその上で、本記事では可視化問題を重視したい。

青い鳥はどこに行ったのか?

では、Twitterは死んだのだろうか。

青い鳥が消え、名前が変わった時、多くの人が「Twitterが終わった」と言った。しかし、ここまで見てきたように、本当に変わったのはロゴや名称ではなく、もっと根本的な部分・・・・・・つまり、サービスそのものの目的だった。

だから正確には、「Twitterが壊れた」というより、「別のものになった」と言ったほうが近い。

これは、よくあるリニューアルとは少し違う。

内装が変わったとか、UIが変わったとか、運営方針が少し変化したとか、そういうレベルではない。もっと感覚的に言えば、昔通っていた店が、同じ場所でまったく別業態になっていた感覚に近い。

昔は静かな喫茶店だった場所が、いつの間にか巨大モニターの流れるスポーツバーになっていた。建物そのものは同じで、看板にも見覚えはある。しかし、中で起きていることも、集まる人も、求められる振る舞いも、完全に変わっている。

静かな喫茶店が騒がしいスポーツバーへ変化した比較イメージ

だから、そこに違和感を覚えるのは当然なのだ。

Twitter時代の設計思想は、「人間関係を軸にした空間」に近かった。誰をフォローするか、誰と繋がるか、どんなコミュニティに属するか。そこでは、「自分の場所を作る」という感覚が重要だった。

しかしXは違う。

このSNSが重視しているのは、「何が注目を集めるか」であり、「どれだけ反応を引き出せるか」だ。つまり、空間としての快適性より、情報流通装置としての効率を優先している。

これは優劣の話ではない。

おそらくプラットフォーム側から見れば、Xはかなり合理的なのだと思う。現代のSNS競争において、滞在時間やエンゲージメントを重視するのは自然な流れだ。TikTok的な発見型SNSへの移行も、ビジネスとして見れば理解できる。

ただ、その結果として、Twitter時代に存在していた「居場所としての感覚」は薄れていった。

だから、「最近のXは嫌だ」と感じる人の中には、無意識に昔のTwitterを探してしまっている人が多いのだと思う。しかし実際には、もうあれは存在しない。少なくとも、同じ設計思想のサービスではなくなった。

つまり、Twitterは終わったのではない。

変わったのだ。

サービスの目的が変わればユーザー体験も変わる。同じままではいられない。

もう、あの青い鳥はどこにもいないのだ。

嫌なら辞めろ?ハイ辞めました

ここまで書いておいてなんだが、私は別に「だからXをやめろ」と言いたいわけではない。主旨はSNS批判の啓蒙なんかじゃない。

そもそも、Xが合っている人も当然いる。リアルタイム性や拡散力という意味では今なお非常に強力なSNSであるし、使うのは合理的だ。他人がとやかく言うことじゃない。

ただ、少なくとも私は、あの空間に「居場所」を感じなくなってしまったユーザーのひとりだ。そして、その違和感を言葉にしたいと考えた。

それはユーザーが悪いとか、運営が邪悪だとか、そういう単純な話ではない。もっと単純な、空間の性質が変わったことへの強い拒絶感。

静かな庭だった場所が、巨大な広場になった。人間関係を軸にした空間が、話題と反応を軸にした空間へ変わった。ならば、以前と同じ感覚で居続けることが難しくなるのは当然だろう。

「嫌なら辞めろ」という言葉に、以前ほど反発を覚えなくなった。

この言葉は雑に使われがちだ。排除や嘲笑の意味で投げられることの多いこれの受容は、敗北主義者の烙印に近い。しかし、環境そのものが変わったのであれば、そこから離れるという選択は、必ずしも敗北ではないと思う。

むしろ、それは適応に近い。

海だった場所が砂漠になったなら、泳ぎ方を磨くより、別の生き方を探すほうが合理的な場合もある。Xに疲れた人が、小規模Discordサーバーや限定的なコミュニティへ流れていくのも、私はかなり自然な現象だと思っている。

実際、私自身のネット生活もかなり変わった。

今やメインの交流は、小さなDiscordコミュニティが中心だ。人数は10人にも満たないことが多い。けれど、そのぶん空気感は安定しているし、何より「誰と繋がっているのか」が見えている。おすすめアルゴリズムが勝手に知らない人を流し込んでくることもない。

もちろん、閉鎖的なコミュニティにも別種の問題はある。内輪化、同調圧力、固定化・・・・・・しかし少なくとも、「自分で空間を選んでいる感覚」は残る。

少人数で静かに会話できる小規模コミュニティ空間のイメージ

結局、多くの人が求めていたのは、「巨大SNS」そのものではなかったのかもしれない。

好きな人とだけゆるく繋がり、自分で距離感を調整し、自分の空間をある程度コントロールできること。つまり、「インターネット上の居場所」だったのではないか。

もしそうだとするなら、現在のXに違和感を覚えるのも、そして「やる意味あるのかな」と自問するのも当然だ。

なぜなら、あそこはもう「居場所」ではなく、「注目を集めるための舞台」に近づいているのだから。

私は、自分含めXから離れる人たちを「時代についていけなかった敗者だ」とは思わない。それは、空間の変化を理解した上でのごく自然な環境適応なのだと思う。

SNSに求めていたものの正体

今起きているのは単なる「SNSの劣化」ではなく、もっと根本的な・・・・・・SNSそのものの目的の変化だ。

かつてのSNSには、「居場所」としての側面があった。

多くの人にとってそれは「知り合いとゆるく繋がる場所」だったように思う。趣味の話をして、どうでもいい日常を呟いて、好きなものを共有する。そこには少なくとも、「生活空間の延長」のような感覚があった。

だが現在のSNSは、徐々に別のものへ変化している。

重要なのは繋がりではなく、反応。関係性ではなく、可視性。どれだけ注目を集めるか、どれだけ数字を取るか、どれだけ拡散されるか。

つまり、SNSが「コミュニケーションの場」から、「注目獲得装置」へ変化しているのだ。

そして、その構造において「静けさ」は不利だ。

穏やかな会話よりも対立。小さなコミュニティよりも大規模拡散。閉じた関係性よりも、無数の他人へ届く刺激・・・・・・現在のSNS設計は、そうした方向へ最適化されている。

静かなSNSは難しい。

正確には、「巨大でありながら静かなSNS」は、ビジネスとして成立しにくい。人を長時間滞在させ、広告を見せ、反応を引き出すためには、強い刺激のほうが効率がいい。ならば、プラットフォームがそちらへ寄っていくのは、ある意味で自然な流れだ。

しかし、その結果として失われるものもある。

安心感。距離感。コントロール感。そして、「ここは自分の場所だ」と思える感覚。

だから私は、現在のXに違和感を覚え、Twitterを憧憬する人たちを、単なる懐古主義者だとは思わない。

彼らはおそらく、「青い鳥のロゴ」を恋しがっているわけではない。もっと別のもの・・・・・・自分で空間を選び、自分で人間関係を調整し、自分で距離感を決められる感覚を失ったことに違和感を抱いているのだ。

SNSは本来、居場所だったのか。それとも最初から舞台だったのか。

あるいは、居場所だったものが、巨大化によって舞台へ変質してしまったのか。

その答えはまだわからない。

ただ少なくとも、今のXを見ていると、私たちが愛していたものの正体が、少しだけ見えてくる気がする。何を求めていたのか、その名残を思う。

もしかすると私たちが求め愛していたのはSNSではなく、ただ「自分で選べる空間」だったのかもしれない。


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