ゲーム・オブ・ザ・イヤー(GOTY)という賞は、本来「最も優れた作品」を讃えるはずのものだった。
しかし現実には、政治性や審査員の嗜好が混ざり込み、「本当にこれでいいのか?」と首をかしげる受賞は珍しくない。映画でも同じだが、受賞作は往々にして作品の質より審査する側が好む要素を映し出す鏡になりがちだ。
たとえば有名な賞の裏側には、こういった「都合」があると良く言われる。
- アカデミー賞:社会性の高い作品が優遇
- カンヌ国際映画祭:審査員の嗜好が色濃く反映
- 芥川賞、直木賞:いまの文壇が推したい作家の「顔見せ」の側面
- マン・ブッカー賞:時事性、テーマ性が重く評価
事情を知らない人は「受賞作だからすごい」という見方をする。しかし、内情を分かっている人にとっては「今年はこういう路線なんだ」という方向性の確認でしかなく、作品の善し悪しの判断基準には使わない。
では、GOTYの基準はなにか。かなり乱暴にまとめてしまえば、「話題性」だ。というか「作品の質」だけでは説明できないと感じる受賞が多い。
The Game Awardsの投票構造を見ても、その傾向ははっきりしている。各国メディアの投票と一般投票が組み合わさり、「どれだけ広く知られているか」「どれだけ語られてきたか」がそのまま得票力になる。
クオリティの高い佳作よりも、「今年のゲームシーンの中心にいたタイトル」がGOTY候補として浮かび上がりやすい構造なのだ。
だが、多くのユーザーは「良いゲームが選ばれる」と勘違いしている。その期待と実際の選出基準とのズレが摩擦を生む。
事実、2020年の受賞作『The Last of Us Part II』の際にはとんでもなく炎上した。「嘘だろ」と。作品そのものへの賛否も相まって、「これがGOTYなのか?」という反発が爆発した。
しかし残念ながら、多くの場合GOTYとは「主観のぶつかり合いが結果に反映されたショー」であって、「これが今年最高のゲームです」という客観的事実を示す指標ではない。
「award show」という言葉自体がそうであるように、本質的には「見世物」だ。
けれどその事情が共有されていないから、ユーザー側でも納得する層と納得しない層が分かれ、受賞のたびに小さな論争が発生する。「なんでこれがGOTYなの?」という小火は恒例行事。

そこで、2021年の『It Takes Two』受賞。これは極めて例外的なもので、反応も波打った。
本作が大賞を獲得したとき、驚きはあっても、他年のような大きな不満はほとんど見かけなかった。むしろ「これは確かに取るだろう」「選ばれて当然」と、SNSでもコミュニティでも珍しく総意に近い反応が広がったのだ。
好みの問題を超えて、「これはゲームとして正しい受賞だ」と、多くの人が自然に納得した。
私も反対の気持ちはなく、大同意だった。文字通りの「ゲーム・オブ・ザ・イヤー」だ、と思った。
これは本当に異例だ。
主観的な「好き、嫌い」を超えて、「わかる、だよね」と共有される普遍的な納得感を生んだ作品。政治的なアイコンではなく、ただ作品としての評価。
では、何がすごかったのだろう?
もしGOTYが「話題性」で決まるものなら、It Takes Twoにはその派手さがあったのか?
これについて私はこう考える。
本作がGOTYを獲ったのは、議論を呼ぶための仕掛けや派手な話題性に寄せたからではない。むしろ話題性フレームから一歩外れた作品が、純粋に「ゲームとして優れていた」という理由で選ばれた・・・・・・その事実こそが意味を持っていたのではないか、ということ。
つまり、話題性に忠実であることが受賞条件だと思われてきた枠組みに対し、本作は「ゲームそのものの良さ」を評価されることで、逆に「評価基準の原点回帰」を促したのだ。
ごちゃつくのでいったん本記事の方向性、前提を整理しておきたい。
- GOTYは話題性で選ばれやすい
- It Takes Twoは相対的に地味な部類だった
- 対抗馬
- 『バイオハザード ヴィレッジ』
- 『メトロイド ドレッド』
- 『ラチェット&クランク パラレル・トラブル』
- 対抗馬
- では、なぜIt Takes Twoが選ばれたのか?

以降、実際にプレイして感じた体験をもとに、なぜ本作がGOTYに値したのかを「設計」「構造」「ナラティブ」の観点から読み解いていく。
単なる嗜好ではなく、作品としての仕組みがどのように普遍的な評価へつながったのかを、丁寧に解釈していこう。
なぜ画面を分割するのか

本作が特異なのは、分割画面プレイが前提の設計である点だ。そういえば『マリオカート64』もこうだったな、と思わず昔の記憶が蘇った。
かつてゲームの多くは分割画面で遊ぶものだったが、時代とともにこの形式は消えていった。理由は単純で、視界が狭まり、情報量が落ちるからだ。ゲーム体験は「各自の画面で完結する」ことを目指して進化した。
誰かの家に集まって、同じテレビを見つめながら遊ぶ・・・・・・そんな体験はオンライン化や生活の個人化とともに過去のものとなった(未だにやっている人がいるのはもちろんとして)。
最近のゲームでは、対人プレイであっても相手は常に「どこか遠くにいる誰か」だ。チャットのやり取りすら省略され、他者の存在は希薄化していく。
「現代のゲーム文化ではプレイヤー同士の交流はオンラインへシフトしてきている」とも指摘される。
一緒に遊んでいるはずなのに、互いの姿はどこにもない。
この状態こそ、ゲームの標準となった。
私もそうで、『ファイナルファンタジーXIV』や『エーペックスレジェンズ』のプレイ中、「おそらくどこかにいる誰か」とやっているのだろうという、対人感覚の弱い麻痺がずっとあった。
そこに、本作は転換を差す。
オンラインであっても画面は常に分割されるという、一歩間違えればそれが離脱の原因になるかもしれないデザインを通した。
相手の視点がこちら側に強制的に提示され、同じ世界が別の目でどう見えているかを常に意識させられる・・・・・・これは単なる懐古趣味ではない。他者の視界を共有するための設計思想だと私は感じた。
ある場面では、自分だけが大きく、相手は豆粒のような存在になる。またある場面では、自分には何も見えず、相手の視界にだけ真実が映る。
視点が変われば、解釈が変わる。解釈が変われば、感情の重みが変わる。
人は「相手の視界」を手掛かりに他者理解を組み立てる。視界の共有は認知負荷を下げ、共感を自然に促す。
思いやりとは、多様な視点の存在を前提とする感情だ。その視点を互いに見失えば、他者はただの記号に変わる。現代のオンラインゲームが象徴するのは、まさにその方向性だ。
だが本作は、こういった「アンチテーゼ」としての提言をしない。彼らは何も説教しない。ただ分割画面という仕掛けだけで、こう語る。相手には相手の世界がある、と。
分割画面は、失われつつあった「共同体験」を再起動させる仕組みであり、極端な個人化が進む時代に対する、静かで強いカウンターだった。
相手の気持ちを思いやる。
これは言葉では簡単だが、実際には難しい。「でも俺は!」という言葉は、ストレス社会で身を守るための立派な自己防衛だ。だがそれは、関係を断絶する一歩でもある。
答えがわかっても、それは自分の視点から得られる情報でしか無い。共有するためには同じ視座が必要だ。
「ここ、ここ!(指差す)このあたりからこーやって(なぞる)行くんじゃない?」
「は?・・・・・・あー、なるほどね?あ、わかったわ」
こういう光景が何度もあり、そしてそれが「楽しかった」。これは本作独自の体験であり、失われた「遊びの本質」だったように思う。
今日の主流が置き去りにしてきた「一緒に遊ぶという喜び」・・・・・・これを本作は改めて定義する。
「ふたりで遊ぶ」という設計の真意
誰かと何かをするという行為には、常に摩擦がつきまとう。
自分はこうしたい、相手はそうではない。「なんでそう動くんだ」「そこじゃないだろ」という、わずかなズレが苛立ちへ変わり、協力は対立へと転じることさえある。
協力は不満の温床だ。これは現実でもゲームでも変わらない。だが、本作はマイナスの作用が非常に少ない。
The Ringerにおけるインタビューで、記者は問う。
My wife and I recently played Super Mario 3D World and Pikmin 3. They’re both good games with good co-op modes, but they sometimes make us annoyed at each other. I’m saying, “No, go there, do this,” and she’s saying, “No, do this, do that.” When we play your games, we don’t experience that sense of frustration. You seem to stress collaboration over competition.
(妻と私は最近『スーパーマリオ 3Dワールド』と『ピクミン3』をプレイしました。どちらも協力プレイモードが充実した良いゲームですが、時々お互いにイライラさせられるんです。私が「違う、あっちへ行け、これをやれ」と言うと、彼女は「違う、これをやれ、あれをやれ」と言う。けれど、あなたのゲームをプレイする時は、そんなイライラを感じません。あなたは競争よりも協力関係を重視しているように見えます。)
そのとおりだな、と思った。
プレイ中、その種の不満を覚えることがほとんどなかった。その理由は明確だ。ミスを許容するシステムが隅々まで行き渡っているのだ。
- 落下してもすぐに戻れる
- 操作を誤っても数秒で再挑戦できる
- 足を引っ張っても相手に負債を背負わせない
- 失敗が重荷にならない
失敗の軽さが挑戦への意欲に転換されるよう設計されている。その結果、プレイヤー同士は「こうしてみよう」「次はこうだ」とアイデアを言い合うことができる。

怒りではなく、試行が生まれる。ミスを咎める必要がないから、関係が壊れない。
人は、失敗を責められる可能性がある環境では新しい行動を避けるようになる。
心理的安全性という概念がある。「ミスをしても責められないと信じられる組織ユニットではミス報告率が高く、その後の改善や学びが進む」というものだ。本作のセーフティネットはこれに近い。
上記の発言に対し、ディレクターであるジョセフ・ファレスは答える(以下、記事内引用はすべて彼の発言)。
When you’re playing a game that’s designed for co-op, it’s done so that the communication is key. Frustration is not supposed to be there. When you design a single-player game and then you add co-op to it, you have to adapt it.
(協力プレイを前提に設計されたゲームでは、コミュニケーションが鍵となるように作られています。ならばイライラは生じないはず。一方、シングルプレイ用ゲームを設計した後に協力プレイを追加する場合、適応させる必要があります。)
開発側の強い思想を感じる。「最後まで必ず辿り着かせる」という意志を。
だがそれは、レールに乗せるような強引な誘導ではない。道が見えるように看板だけを立てているようなものだ。辿らさせるのではない、辿るための要素を置いておく姿勢。
「こっちへ行けばいい」「まだ進める」・・・・・・ガイドとして機能し、しかし鬱陶しくないそうした微細な導線が丁寧に敷かれている。
プレイヤーは導かれているのではなく、自分の意志で前に進んでいると感じられる・・・・・・この主体性の尊重が、とても気持ちいい。
先回りというのは萎える。ゲームを「やっている」のと、ゲームを「やらされている」のではまるで違う。
教育心理学では「自分で考える時間が学びの深さに影響する」という指摘や、答えを与えすぎると、子どもの探究心や主体性が削がれる場合があるという研究が知られる。
もちろん、ゲームと教育は異なる領域だが、「主体性が保たれる環境ほど人は学び、試行しやすい」という点では共通する。「いまやろうと思ってたのに!」ということだ。
本作は強制しない。もちろんルートは決まっているが、「早く行けよ」と急かすことはない。
すぐ正解に導かない設計を採用しているということは、プレイヤーの主体性を守り、協力への意欲を維持するための思想とも言える。そしてこれには、ある種の信頼をも思うのだ。
押し上げるのではなく、到達できることを保証する。このバランス調整の巧みさは、協力ゲームを成立させる上で決定的だ。
ふたりで最後まで行く。
本作の協力設計には、単なる遊びやすさを超えた主義が刻まれている。
Why should I be happy that 50 percent of the people didn’t finish the game? It’s almost like making a movie and half the audience walks out of the cinema. That’s madness.
(なぜ50%の人がゲームをクリアしなかったことを喜ばねばならないのか?まるで、映画を作っても観客の半分が途中で席を立つようなものだ。そんなの正気の沙汰じゃない。)
これがゲームであることの意味
技術の進化はゲームと映画の境界を曖昧にした。
高精細なムービー、濃密なドラマ、映画のような体験・・・・・・しかしその副作用として、「これは本当にゲームである必要があるのか」という問いが浮かび上がる。
長いムービーの後に長いムービーが続き、冗長な会話シーンで間延びする。もはや操作する時間より眺める時間の方が長い。映画の合間に操作「させてくれる」、そういうもの。
そのたびに、「私はゲームをやっているのだろうか?」と我に返る。ストーリーだけを伝えたいのなら、映画や小説でいいはずだ。
操作をさせる意味を見失ったゲームは多数存在する。それである必要性、というものを失った「ゲームのようなもの」が「グラフィックが綺麗」と言うだけの理由で評価される。グラフィックは要素でしか無いのに。
乖離を感じることがある。ゲームに小説を同梱したような歪さ。物語表現がゲーム体験を支えているのではなく、ゲーム体験を従属させてしまっているような感覚。
そんな中、本作はこれじゃないとダメな設計・・・・・・ゲームでなければ成立しない物語にすらなっている。
この作品は、2人プレイという形式を採用しているから2人用にしたのではない。仲直りの物語を語るために、2つの身体と2つの視点を必要としたのだ。
だからゲームプレイとストーリーが分離しない。協力の設計が、そのまま夫婦の関係修復というテーマに直結している。物語の主題と、プレイヤーが実際に行う行為の一致・・・・・・これが本作の強さだ。
I think sometimes people make too many comparisons between movies and games, especially when I see writers and people coming from the movie industry that don’t know so much about gaming. You have to understand when writing for a movie and writing for a game, the way that you write a script and the way you write a book are two different ways of writing.
(映画とゲームを過剰に比較する傾向が時々あると思います。特に、ゲームについてあまり詳しくない映画業界出身の作家や関係者を見るとそう感じる。映画とゲームでは、脚本を書く方法も本を書く方法も全く異なる表現手法だということを理解すべきです。)
プレイヤーは歩き、触り、動かし、考え、語り合う。双方向性が常に維持され、プレイヤーが存在しなければ前へ進めない物語として設計されている。
操作する意味がある。失敗にも意味がある。2人でなければ解けないギミックが、2人で生きる意味へと反転していく。
終盤のメイの歌のシーンが象徴的だ。プレイヤーがボタンを押して抱きしめるからこそ、それはただ見せられる演出ではなく、自分たちが選んだ和解の瞬間へと変わる。

そこでプレイヤーは「見ているだけの観客」ではない。そこに介入できる。物語に余剰を持ち込み、自分の意志を刻む余地がある。
本作は、演出のために操作を挟むのではなく、操作が演出そのものを成立させているのだ。ただ眺めているだけでは「他人の物語」だが、手を動かした瞬間、それは「自分の物語」に切り替わる。
It Takes Twoは、「ゲームがゲームである理由」を問い直し、その答えを実際のプレイ体験によって示した。本作はゲームでしか成り立たない。ゲームだから、この作品の意味があるのだ。
It’s not like in a movie, when you have a great scene, you’re just, ‘Oh, this is such a cool scene. Let’s play it again for the audience.’ You don’t do that. It takes away the specialness of it.
(映画みたいに素晴らしいシーンが撮れたからって「おお、これめっちゃカッコいいシーンだ。観客のためにもう一度やろうぜ」なんてことはしない。そんなことしたらそのシーンの特別感が台無しになる。)
ただ、この操作は一般的なQTEとは少し意図が違うと思っている。
たとえば『ゴッド・オブ・ウォー』などは、間違いなく没入するための意図がある演出だろう。しかし、これは言うなれば「試練」としての側面が強い。要は、それ自体がひとつのアトラクション扱いになっているのだ。
一方、本作は異なる。クリアや達成感に寄与しているわけではない。別にやったからと言ってダメージが入るわけでも、失敗してやり直しのゲームオーバーになるわけじゃない。
本作のイベント内操作は、「ゲームに触れられる」ということに意味がある。
自分が、その作品に関われる舞台装置として組み込まれている。だからQTEと本質的な部分(ゲームへの没入感の増大)は同じであれ、目的は少し違う。
眺めるだけではなく、プレイヤーたちが主人公として、作品に干渉できる手段としてのシステムなのだ。
ナラティブなギミック
It Takes Twoのギミックはとてもバリエーション豊かだ。しかし、単にただ多彩なだけではない。すべてのギミックが物語そのものに必然性を持って結びついている、という点が驚異的だ。
一般的に、ゲームが「つまらなくなる理由」は単純だ。「慣れ」という適応。
同じ操作、同じ展開を繰り返せば、感情は死ぬ。刺激の無くなった脳は退屈になり、あくびを誘発する。読める展開、知っている情報、これらに脳は興味を示さない。
だから、それを避けるために、多くのゲームはレベル制やスキル解放によって面白さの段差を意図的に作ろうとする。単調な戦闘も、範囲攻撃が加われば少しの味変が行われ、寿命は伸びる。
しかし、その段差に辿り着く前に飽きたら終わりだ。「後半は面白い」という評価は、裏を返せば「前半は苦痛である」ということでもある。
一方で、本作にはその構造がなく、最初からトップスピードで面白い。さらには、今に飽きが生まれる前に必ず次の展開が投入される。「もっとやりたい」と思った瞬間に、「だが次がある」と背中を押されるのだ。
あるときはガラメカのような火器で蹂躙したり、あるときはクォータービューでの剣と魔法のファンタジーが展開され、あるいは時を止め、戻し、謎を解くこともあれば、レインボーロードを駆け巡ることもできる。これらすべてが1つのゲーム内で体験できる。

未来へ先回りするよりも先に、現実の楽しさが更新され続ける。いわゆる「強化学習の最適化」が成立している。
だからクリア後の感想は「あれよかったよね」「あれもよかったよね」と良いこと探ししかしない・・・・・・できない。
1つ1つが非常に丁寧に作られ、ゲームプレイの楽しさの最大値を常に更新し続けているということ。中だるみが存在せず、最初から面白いのに、進むに連れてさらに楽しくなっていく・・・・・・そんなゲームがあるだろうか?
「ゲームは制御可能なアトラクションである」と誰かが言った。確かに、It Takes Twoの世界には乗り物がたくさんあった。
また、これらの変化はただの寄せ集めではない。2人の関係性や物語の文脈に結びついたナラティブな変容として立ち上がっている。
- 夫婦の役割がズレている場面では能力もズレる
- 互いに依存している場面では片方では解けない構造になる
- 関係が断絶する場面では操作までが分断される
- 協力が芽生える場面では同じ行為が連動して結果を生む
ここは私の専門領域なので少しつっこむ。この「ナラティブ」というものの扱いは、実は非常に難しい。
| 階層 | 本作の場合 |
|---|---|
| UI(操作面) | 画面分割でも視認性が崩れない、誤操作しづらいUI |
| IA(情報設計) | 「どちらが何をするか」が直感で理解できるレベルデザイン |
| インタラクション(体験の構造) | 協力が当たり前として成立し、摩擦を抑える |
| ナラティブ(意味構造) | 協力=夫婦の修復という文脈が行為と一致 |
UXには段階がある。
UI(操作しやすさ)→IA(迷わなさ)→インタラクション(行為の設計)→ナラティブ(意味の統合)と深度を増していき、同時に扱いや設計の難易度が爆増する。実際、クライアントが理解してるのは良くてIAまでという状況によく当たる。
ナラティブの扱いはなぜ難しいのか?それは、そもそも正解がないからだ。
- 抽象度が高すぎる
- 唯一解や安定解などの正解がない
- 複数要素の相互作用で成立する
- 価値判断、テーマ設定が絡む
- 失敗が最後まで見えにくい
- 作者の思想が透ける(責任領域が重い)
階層が下がるほど、構造的難易度と要求される創造性が指数関数的に跳ね上がる。だから、「ナラティブな設計にする」というのは、言うは易く行うは難しなのだ。
多くのゲームはどこかの階層で破綻する。操作しづらい、迷う、同じことの繰り返し、物語と遊びが分離するなど・・・・・・。
だからこそ本作には驚きを隠せない。これらすべての階層で破綻がないのだ。「遊びが意味を持ち続ける」構造が貫通している。It Takes Twoは「操作が意味を失わないゲーム」だ。
UIやIAは技術と慣習の積み重ねで解決できるが、インタラクションやナラティブは正解のない領域であり、チーム全体の思想と一致していなければ成立しない。非常に高難度の設計にあたる。
だが、It Takes Twoは成し遂げた。思想の共有こそが、この一貫性を生み出した。
Even online, some people ask, “Why can’t we play it in full screen?” But all the communication builds on the idea that you can see your friend’s screen at the same time, see what’s going on. That’s how we designed these games, so they are a couch co-op game that you can play online.
(「なぜフルスクリーンで遊べないのか?」と尋ねる人がいます。しかし、すべてのコミュニケーションは友人の画面を同時に見ながら状況を把握できる、という発想に基づいています。だからこそ我々はこうしたゲームを設計したのです。)
ギミックというメタファー
このゲームをプレイしてて一番多く喋った言葉は「なるほど」だったように思う。
本作のギミックに理不尽さや「そんなのアリかよ」と不満が溜まるものはなかった。予想と結果の一致、解法を見つけた瞬間の「なるほど」は、ひたすらにシンプルな納得由来だった。
予想と結果が一致したとき、脳は「理解できた」という快のドーパミン反応を起こす。It Takes Twoはこの報酬回路を寸分違わず突き続ける。
どのギミックも、想像と実践のズレが最小化されているので不満が生まれない。失敗は試行として許容され、成功は共同の成果として祝われる。不愉快な気分が介入しない試練の連続だった。
これは、夫婦(対人)の理解への比喩でもある。
観察し、考え、言葉にし、役割を交換し、「そこを押して」「今だ」と声を交わせば必ず進める。これはゲームデザインであると同時に、関係性のレッスンそのものだ。言わなきゃわからない、伝えなきゃ理解されない。
そこにあるのは、「気持ちを伝える」という当たり前のコミュニケーションだ。
しかし、こういったものは倫理的な教訓として提示されるのではなく、体験の中で自然と身に染みる形で組み込まれている。説教臭くない、だから沁みる。
この徹底ぶりは狂気に近い。バリエーションは爆発的なのに、根のテーマから一切逸脱していない。It takes two・・・・・・2人が必要なのだ。
度重なる遊びは、ただ種類を増やすためのギミックではない。物語を前へ押し進めるための要素だ。だから一切の中だるみがない。語らずとも必要性を理解できる。最初から最後までプレイヤーの主体性が維持される。
飽きさせず、説教せず、ただ体験そのものが意味を持つ。
こうしたナラティブとギミックの融合が、本作を「ゲームでなければ語れない物語」へと昇華させている。It Takes Twoは「成功が関係性を補強するゲーム」でもあるのだ。

ゲームがゲームであるための条件
本作が面白いと感じ、そしてGOTYという結果に納得した。
なぜ納得したのか?
それは結局のところ、本作が「ゲームである必要性」を最後まで失わなかったからだと思う。
近年、ゲームは映画のようになり、映画はゲームのようになった。映像は美しくなり、物語は重厚になり、演出は洗練された。しかしその進化のなかで、ときどき浮かび上がる問いがある。
「これは本当にゲームでやる必要があるのか?」
長いムービー、操作を伴わない演出、眺める時間の増大・・・・・・もちろんそれ自体が悪いわけではない。だがもし、プレイヤーの行為が物語と切り離され、操作が単なる通過儀礼になってしまったなら、その体験は他のメディアでも代替可能になる。
ゲームがゲームであるためには、プレイヤーの行為と物語の意味が一致していなければならない。
ボタンを押すことがただ進行条件を満たすためではなく、物語の文脈に接続していること。
失敗することが単なるペナルティではなく、体験の一部として意味を持つこと。
協力することが攻略の効率化ではなく、テーマそのものを体現していること。
そういった行為が意味を帯びる瞬間、プレイヤーは観客ではなく当事者になる。
ゲームの面白さとは、予測と結果の一致によって生まれる快楽だけではない。それは「自分の行為が世界に影響を与えている」という実感が、物語的文脈と結びついたときに生まれる、参加の感覚だ。
行為と意味が乖離していれば、それは「アトラクション」になる。
しかし、行為と意味が一致していれば、それは「体験」になる。
本作は「協力というテーマ」を語るために協力させたのではない。協力しなければ進めない構造そのものが、夫婦の関係修復という物語の意味と直結していた。
だから、操作は演出ではなく、演出が操作になっていた。物語を見せられるのではなく、やらされるのでもなく、物語をやることができた。
そのとき初めて、ゲームは他のどの表現形式でも代替できない体験になる。
おそらく、あの年のGOTYに対する納得感はここにあったのだと思う。話題性でも、社会性でも、制度の妙でもなく、「これはゲームでしか成立しない」という感覚。それが、多くのプレイヤーに共有された。
ゲームの面白さとは何か。
それは、行為に意味が宿り、その意味を自分の手で引き寄せられること。そしてその一致が、最後まで崩れないこと。
だから私は納得した。
それは「好きだから」ではなく、「構造として正しかったから」だ。
一緒に遊ぶということの意味
It Takes Twoは「当たり前」を再定義した。
それは、「ゲームは誰かとやると楽しい」という、本当に当たり前のことだ。ゲームが持つ最も普遍的な幸福を正面から扱った作品・・・・・・ここに感動と、価値が付随した。
私がこのゲームをクリアし、友達と感想を言った時、これは「消費」ではなくなっていた。
セールで買った、カタログで落とした、フリープレイでもらった・・・・・・これらはもはや宿題のようなものだ。億劫で、能動的選択ではなく「やらなきゃな」と急かされるような「課題」。
けれど、自分にとってゲームは本来なんだったのだろう。
同じ場所で、同じお菓子を食べて、同じ感動を共有し、同じタイミングで笑う・・・・・・そうだ、ゲームは、コミュニケーションだった。
喜びも失敗も同時に起こるからこそ、心が通う。それがゲーム体験を「思い出」へ変えるのだ。
It Takes Twoは世界を共有する感覚を取り戻させてくれた。ずっと忘れていた、純粋な遊びとしての本能を想起させた。
だからこれはGOTYという場で、異質な、しかし普遍的な納得を蔓延させたのだ。
人によって合う合わないはある。これは仕方のないことだし、やはり万人受けは難しい。しかし、それを踏まえてなお、私は本作を「誰しもがやる価値のあるゲーム」だと心から言いたい。
私が本作を推したい理由は「ゲームを通じて人とつながる」ということのプリミティブな楽しみを改めて実感できたからに他ならない。ゲームを誰かと遊ぶと楽しい・・・・・・本作は、そんな当たり前のことを思い出させてくれた。
このゲームは2人でやる以外に選択肢はなく、昨今だとまず見ない、画面分割でやるゲームだ。常にお互いの画面を見てプレイしなくてはならない。
面倒くさい。だが、だからこそこのゲームのプレイ中は自分だけの孤立した空間ではない。
2人ならもっと楽しい、2人ならすぐに感想が共有できる、2人なら難しいギミックも解ける・・・・・・誰かとやることの楽しさが、本作には詰まっている。
ぜひにとも、夫婦や、恋人や、仲の良い友達とプレイして欲しい。最後までたどり着いたときには、きっと本作がただの面白いゲームじゃなく、それ以上の思い出として形になっているはずだ。
友人のチンパンプレイや自分のポンコツプレイに笑おう。相棒の発想を称賛しよう。困難なギミックやわからないことがあったら相談しよう。
2人なら最後までクリアできる。
2人なら、なんでもできる。
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