王カーナまで倒して感じたのは、評価に困るゲームだな、ということだった。
面白かったかどうかを考えれば、それは間違いなく「面白い」となる。しかし、絶賛できるか、手放しに褒められるか、人に勧められるかとなると明確に否定が出てしまう。
『モンスターハンターワールド:アイスボーン』は、おそらく「良いゲーム」だ。
シリーズの転換点と言える作品であり、事実、過去作に存在していた数々の不便さを取り払い、あらゆるすべてが刷新され、現代的なゲームとして大きく進化した。そのインパクトは大きい。
ダメージ表示、ショートカットUI、シームレスなマップ、直感的なスキル構築・・・・・・どれを取っても快適で、「ついにモンハンがここまで来たか」と感じさせる完成度だった。少なくとも序盤においては文句のつけようがなく、加点法なら良いスコアを出すだろう。
しかし、プレイを進めていくと少しずつ違和感が積み重なっていく。それはまるで放置した隅のホコリのように、徐々に徐々に、不満が蓄積されていく。
その由来は操作の不便さでもなければ、単純な難しさでもない。もっと根本的な部分で何かが引っかかるのだ。
ふと、こんな感覚が頭をよぎる。
「これは自分で遊んでいるのか、それとも遊ばされているのか」
やるべきことを提示され、進行は誘導され、体験が用意されている。確かにスムーズだし、分かりやすい。だが同時に、レールから外れないことを強制されるその構造は、自分の意思で動いている感覚を薄れさせていく。
ひどく息苦しい。そう感じる瞬間が多かった。ワールドでもこの傾向は顕著だが、アイスボーンでさらに強化された。
では、この違和感は一体何なのか。なぜ本作はこれほど完成度が高いにもかかわらず、こんなにも息苦しさを感じさせるのか。本記事では、この「息苦しさ」の正体をゲーム設計の観点から紐解いていく。
私はこのゲームを隅々まで楽しんだ。それは面白かったからだ。しかし、すべてが楽しい思い出ではなく、嫌な記憶もある。これは普遍的なものだが、本作においてはバランスが歪だ。
その歪さを可視化、言語化したい。ここが本質になる。
以下の内容は決してただ自分の不満、ヘイトをぶつけたいというものではないということを留意してほしい。シリーズのファンだからこその分析、それを行う。
「遊びの少ないゲーム」という印象
本作は「プレイヤーに遊んでもらうゲーム」から、「遊ばせるゲーム」へと関係性が変わってしまったという印象が非常に強い。
いわゆる、「開発の想定している範囲内での遊び」しか認められないような設計が強く全面に押し出されているように感じる。そこには猶予や、余白といった隙間が乏しい。
確かにできることは多くなった。しかし、それ以上に暗黙の制約みたいなものが強まり、「やれることが増えたのに窮屈な体感」という奇妙なプレイフィールが生まれている。
もちろん、従来のモンハンにも制約はあった。しかし、その中で「どう動くか」「何を選ぶか」はプレイヤーに委ねられていた傾向があったはずだ。
なんのクエストからやるのか、どの武器を担ぐのか、どのスキル構成にするのか、リスクを取って攻めるのか、それとも安全に立ち回るのか・・・・・・そうした意思決定の積み重ねが、そのまま狩猟体験の中核を形成していた。
つまりプレイヤーは、用意された遊び方をなぞるのではなく、自分なりの解を見つけていくこと自体を楽しんでいたと言える。

しかしワールドでは、その余地が明確に縮小している。
進行は丁寧に設計された導線に沿って行われ、ストーリーやイベントによって体験の順序が規定される。戦闘においても、新システムやバランス調整によって「取るべき行動」が事実上決められている場面が増えている。
これらはすべて合理的な改善にも見える。迷わず進める、理解しやすい、演出としての一体感。だがその裏で、プレイヤーの選択によって体験が変化する余地が確実に削られているのも事実だ。
その結果として起きているのは以下。
- 遊び方を考えるのではなく、提示された手順をなぞる
- 試すのではなく、正解に従う
- 自分で作る体験ではなく、与えられる体験を消化する
こういった構造への変化が発生している。
言い換えれば、プレイヤーに委ねるゲームではなく、開発が「こう遊んでほしい」と設計したものを追体験させるゲームへとシフトした。
そしてこの関係性の転換こそが、「遊んでいるのか、遊ばされているのか分からない」という感覚を生み出している。不便の撤廃と引き換えに、別種の不自由が生まれた。
つまり、違和感の根源は操作性や難易度ではなく、プレイヤーとゲームの立場そのものの変化にあるのだ。
モンハンはもともと不自由なゲームだった
ここでひとつ、よくある反論に触れておく必要がある。それは「そもそもモンハンは不自由なゲームではないか」という指摘だ。
これは本当にそのとおりだ。従来のモンハンには意図的に設けられた不便さが数多く存在していた。
- 回復薬を飲んだあとのガッツポーズ
- モンスターの位置を把握するためのペイントボール
- 寒暖差に対応するためのドリンク
- 採取に道具が必要で、しかも壊れる
モンスターの挙動なども同様で、クソモンスやクソ仕様というものは昔もあった。
これらはいずれも現代的なゲームデザインの観点から見れば「なくても成立する要素」であり、実際、ワールドではその多くが撤廃されている。
しかし、これら不自由は単なるストレスではなかった。不便ではあったが、意味のある不便だった。ゲーム性に寄与するストレスだったのだ。
こういった制約は、単に不愉快な思いをさせるだけの機能ではなく、ルールの構築でもあった。だからこそプレイヤーは状況を判断し、対策を講じる余地が同時に存在していた。
回復するかどうかの判断、どのタイミングで行動するか、事前にどこまで準備するか、リスクを取るか、安全を優先するか。そういった意思決定が常に求められ、そこがゲーム性として機能していた。
いわば、これらはプレイヤーの判断によって乗り越えることができる制約だった。
さらに言えば、旧システム群は単なる懐古ではなく「あっても成立する不合理」でもある。この制約はプレイヤーに「考える理由」を与えていたからだ。
なぜここで回復すべきなのか、なぜこの装備を選ぶのか、なぜこのルートを通るのか・・・・・・制約があるからこそ、選択が意味を持ち、その結果に納得が生まれる。この「ネタにできる不愉快」が確かにあった。
つまり、旧モンハンの不自由とは攻略可能であり、かつ選択を生むもの・・・・・・これらはゲーム性の中核として機能していた。
だからこそ、「不自由=悪」と単純に切り捨てることはできない。問題は不自由の有無ではなく、その不自由がプレイヤーの判断を促すものなのか、それとも奪うものなのかという点にある。
その点で言えばワールドの各種要素は、開発側の都合によって作られた制限の側面が大きい。ゲーム性に寄与する意味あるルールではなく、管理の手間を考えた通行止めのようなもの。
たとえば導きの地。
これはわかりやすい都合上の不自由だ。各種地帯レベルは同一でマックスにすることはできず、他を上げれば他が下がるということがシステムとして決まっている。
一見するとこれはトレードオフに思える。じゃあどれをあげようか、という試行錯誤を促すものとして成立している・・・・・・ように見える。
- 上げられる地帯数に制限がある
- どこかを上げるとどこかが下がる
- 全体最適は存在しない
しかし実際は違う。たしかにトレードオフだが、ゲーム性に寄与していない。だから「なぜ全部マックスに出来ないの?」という誰もが抱く疑問に対する、納得感のある答えが存在しないのだ。

本当に良いトレードオフは、戦術が変わり、試行錯誤が生まれるものだ。しかし地帯レベルはどうだろう。これで変わるのは作業内容だけだ。そこに頭を使う面白さはあるのか?
地帯選択によって戦闘の質は変わらない。変わるのは周回対象だけ。つまり、戦術ではなく作業分岐。
ぶっちゃけて言ってしまえば、この仕様はただの「延命措置」であり「運用目的」だ。
さっさとマックスになってしまったらみんなやらなくなってしまう。だから不都合、不自由を設定する。まさしく開発側の都合。少なくともポジティブなプレイヤー体験には影響していない。
なぜここまで導きの地が不評なのか。それは、開発側の都合に付き合わされることを強制されるからだ。そしてこの状況が、問いに立ち返るきっかけになる。
この不自由はプレイヤーのためになっている、ゲーム性に寄与しているのだろうか?
説明に困る、開発側の都合によって生まれた不自由・・・・・・こういったものが本作は異常に多いのだ。
モンハンのコア体験とはなにか?
ここまで、勝手な不自由さのせいで息苦しい、ということを述べてきた。ここでひとつ、定義、あるいは前提を確認しておきたい。
そもそも、モンハンの面白さとはなんだったのだろうか。
これが曖昧なままだと記事の主張がズレる。ということで共有しておきたい。
まず、これは個々人にとって評価軸があると思うので、以下はあくまで「本記事におけるモンハン観」として述べる。人によっては操作性やグラフィック、生態系を重視するかも知れない。以下は、いちプレイヤーによる仮説として認識してほしい。
私は、モンハンの面白さとは「主体性を考慮したアクション」だと思っている。
これは厳密に言うと、「結果を変えられる余地(制限における結果の可変さ)」のことを指す。
- 状況は制限されている
- しかし解法は複数ある
- しかも結果が変わる
自分の選択によって結果が変わるとき、プレイヤーはそこに「自分が介入している」という実感を得る。この感覚こそがゲーム体験の手応えを生む。いわば、自己効力感だ。
たとえば地形によって強力になるモンスターがいたとする(ケチャワチャなど)。そこで戦うのは不利。だから移動を強制させて自分に有利なフィールドで戦う。これこそが私の思う主体性だ。
仮に、そういう制限がある中で「絶対に移動しない」ような意図が存在するとそれは嫌がらせに近い制約となり、違うなと思ってしまう。たとえば極限化が許せないのは強制感の極地だと感じるからだ。
強制感への嫌悪の正体は単に「それやりたくない」という感覚の話ではない。「選択があっても結果が変わらないならば、選ぶ意味がない」という行動理由の消失・・・・・・学習性無気力に近い「萎え」だ。
では、ワールドの制限と過去作のそれは何が違うのだろうか。
| 観点 | 旧モンハン | ワールド |
|---|---|---|
| 制限の有無 | ある | ある |
| 制限への反応 | 考える | 解法固定、なぞる |
| プレイヤーの行動 | 工夫が通る | 工夫が通りにくい |
| 主体性への影響 | 主体性を生む | 主体性を潰す |
旧モンハンは制限が多いが、それらは創意工夫で突破可能なものが多かった。だから制限は「考える理由」として機能していた。一方でワールドは、制限そのものではなく「解法の固定」が問題となる。
だからこそ私は不自由や不便にそれ単体でネガティブ評価をしはしない。それらはルール設定であり、それによってプレイが面白くなる(幅が出る)からだ。
ルールのない状況は一見して楽しそうだが、その実、考えることが少なくて飽きる。区切りや制限というチャンクは、状況改善のために必要なスコープ設定のようなものなのだ。
繰り返すが、制限があることは問題ではない。問題は、その制限に対してプレイヤーが介入できるかどうかだ。本作にはそういった余剰、あるいは余白がほとんどないように思う。
余白が無くなったモンハン
ここで言う余白は、漠然とした自由度や曖昧な余裕を指しているわけではない。
そもそも、自由度を過度に推してほしいとは思っていない。それで改善するわけじゃないし、主体性とは自由ではなく、制限の中で結果を変えられることだからだ。
まず、ゲームにおける余白とは何かを整理しておく必要がある。これは、プレイヤーが「どうするか」を考えるために残された未確定領域のことだ。
どのルートを選ぶか、どのタイミングで仕掛けるか、どの手段を取るか。ゲームはあえて決めきらない部分を残すことで、プレイヤーに判断を委ねている。この「決めきらなさ」こそが余白であり、同時に主体性の源でもある。
ただし、この定義のままではまだ曖昧さが残る。そこで余白をより具体的に分解すると、以下の3つに整理できる。
- 分岐可能性(どの行動を取るかで展開が変わる余地)
- 失敗の意味(失敗が次の選択にフィードバックされる構造)
- 最適化余地(より良い解を探し続けられる余地)
これらが成立しているとき、プレイヤーの選択は結果に影響し、その結果は次の判断材料になる。つまり「選択→結果→改善」という循環が成立する。

たとえばモンスターのモーションで考えてみよう。
最初に唸り声を上げたあとの突進は最後に隙ができる。しかし、唸り声を上げない場合は次の行動に移行する。こういったものがあるとする。
まずは分岐可能性が「唸り声」だ。そこで逸って被弾するのが失敗の意味の認識。そして、予備動作を確認しよう、という最適化予知が生まれる。
これは、レイアのブレスが3連発かどうかを見極める場合でも同じ話になる。仮にこれがランダムモーションだとしたらどうだろうか。対応は被弾覚悟の運ゲーになってしまう。
言わばこの構造は「ターン制バトル」だ。行動には回避手段や対処方法、今はどうすればいいのかのメリハリが存在する。ここで、そのルールを無視した行動を連打されると、楽しくない。ルールの度外視。そこにあるのは理不尽に対する虚無感だ。
だがワールドの一部モンスターにはこの無法なモーションが割とある。アイスボーンになるとさらに強烈で、ゆえに「簡悔」という言葉が理由として使われるほどになった。

さて、ここで重要なのは、余白とは単に「考える余地がある状態」ではないという点だ。結果が変わり得るからこそ、考える必要が生まれる状態・・・・・・これが余白となる。
そして、前述した3つのいずれかが欠けたとき、余白は機能しなくなる。
分岐がなければ選ぶ意味がない。失敗に意味がなければ学習が発生しない。最適化の余地がなければ試す理由がなくなる。その結果、プレイヤーは考える必要を失い、行動は固定化される。
つまり、余白とは結果が変わる可能性の総量として捉えることができる。それはある意味で「選択に意味を与える装置」だ。この可能性が担保されている限り、プレイヤーは自らの意思で試行錯誤を行うことができる。
逆に言えば、この可能性が削られたとき、プレイヤーの行動は「考える」から「従う」へと変わる。ここで初めて、「余白の消失」と「主体性の消失」が論理的に接続される。
単に情報量が多い、要素が多いというだけであれば、それはむしろ体験の豊かさにもなり得る。問題は、それによって結果を変える余地そのものが削られていることだ。
進行は誘導され、やるべきことは提示され、最適解が事実上固定される。この状態では、プレイヤーは迷う必要がなくなり、「どうするか」を考える場面そのものが減っていく。
つまり、余白があるなら考える必要があるが、余白がないなら考える必要がない。
ここで起きているのは単なる快適化ではない。思考の省略だ。一見すると遊びやすくなっているように見えるが、その実態は「考えなくても進めるようになっている」という状態。
そして、考える必要がなくなったとき、プレイヤーの役割は大きく変わる。
自分で選び、結果を受け取り、次を考える存在から、用意された選択肢を処理する存在へ。
これが主体性の消失だ。
したがって、「余白が消える」というのは単なる設計上の変化ではない。それはプレイヤーの関与の仕方そのものが変わる転換点を意味する。
そしてこの転換こそが、本作における息苦しさの根本原因を支えている。
本作の違和感は、少なくとも攻略を楽しんでいたプレイヤーにおいて顕在化するのだ。
一本道ゲームとの違い
さて、ここでひとつ整理しておく事柄がある。それは「主体性がないゲームはおしなべてつまらないのか」という疑問だ。
もちろん、結論から言えばNOだ。そんなことはない。
たとえば一本道のゲームであっても、演出や物語の完成度によって高く評価される作品はいくらでも存在する。ただ、この差は主体性云々ではなく、コア体験をどう定義しているかだ。
たとえば映画的ゲーム、アトラクション的ゲームにおいては、プレイヤーが選択することよりも「どう感じるか」が体験の中心になる。だからそこにルールや制約、試行錯誤は重視されない。
つまり、主体性はゲームの面白さにおける必須条件ではないのだ。

では、なぜモンハンにおいては主体性が問題になるのか。
それは、このゲームの体験が攻略・・・・・・「プレイヤー主導の問題解決」によって成立しているからだ。
あらかじめ用意された展開を受け取るのではなく、「どうすればうまくいくのか」を考え、その精度を上げていく過程そのものが価値になっているからこそ、主体性が重視される。
この構造においては、プレイヤーの選択が結果に影響することが前提になる。もしその前提が崩れた場合、体験は成立しなくなるわけではないが、その性質は大きく変わる。
「どう攻略するか」を考えるゲームから、「どう進めるか」を処理するゲームへ。
この変化が起きたとき、モンハンというゲームの核は維持されない。だからこそ、主体性は面白さを増やす要素ではなく、このゲームにおいては成立させるための前提条件になるのだ。
実際に起きている問題点
ここまで、主体性の欠如、そして余白の消失こそがワールドを息苦しくしている原因だと述べてきた。
次は、それら諸問題がどのようにゲーム内で現れているのかを見ていく。まずはシステム面。扱うのはストーリーとクラッチクローについて。
ここで述べたいのは単純な好き嫌いなどではない。どういった仕様が主体性問題に関わっているかを分析していく。
ストーリーの強制体験

最も大きいのはストーリースキップが不可能という部分だろう。ひとまず、内容の善し悪しについては考慮しない。
本作では、ストーリー進行に紐づいたムービー、イベントが数多く用意されているが、これらは基本的にスキップすることができない。絶対に見る、体験する必要がある。
プレイヤーが見たいかどうかに関係なく、必ず見させられる。これは単にテンポが悪いという問題ではなく、致命的なのは「見ない」という選択肢が存在しないという点だ。
自分が時間を支配できないものが必ずしもダメということではない。だとしたら『アンチャーテッド』などは体験として成り立たない。論点は、その取り扱い方だ。
たとえば、過去作にあった生態ムービーに不愉快さはあっただろうか。私はアカムトルムがグラビモスと戦うあれを「強制感があるなあ」と思ったことはない。ムービーであることに不愉快さを感じたこともない。
つまり、ムービーやイベントそのものは不愉快さを生じさせるものではないはずなのだ。そこに印象の差が生まれるのは、結局は見せ方にある。
ワールドの問題点は、プレイヤーそれぞれの興味に問わず、ストーリーを「必ず通過する必要のある義務」として成立させてしまった部分だ。ここに主体性は一切考慮されない。
強制イベント、ムービーが進行条件に組み込まれた瞬間、体験は任意ではなく義務になる。私のようなストーリーに興味ない勢からすると、これはただひたすらに苦痛だった。
本来、ゲームにおける演出は「楽しむための要素」であるべきだ。そしてそのフォーカスは「プレイヤーの体験」に当たっているべきでもある。
しかし、本作の様々な仕様は「開発の見せたいものを見せる」という、ズレた意識を如実に感じる。それがつまり「遊ばせるゲーム」への変化だ。
義務になった痕跡集め
同様の構造は、ストーリー進行全体にも見られる。
従来のモンハンは「クエストを選び、クリアする」というシンプルなループで進行していたが、ワールドでは特定のイベントを消化しなければ先に進めない場面が増えている。
つまり、プレイヤーが「何をするか」を選ぶのではなく、「次に何をするかがあらかじめ決められている」状態になっている。荷車の移動と並走する、速度制限により景色を見させられるなど。
象徴的なのが痕跡集めだ。
本来、痕跡収集は探索や没入感を補助するための要素として設計されている。しかしワールドではこれがメイン進行の条件に組み込まれているため、「やりたいからやる」行為ではなく、「進めるためにやらされる作業」へと変質している。
強制的な痕跡集めは、私はモンハンに何を求めているのか、ということを改めて考えさせられる体験だった。
同じクエストを周回することは苦ではない。しかしそれは戦い、素材を集めるためであり、フィールドにあるよだれやら足跡やらを集めるためではない。
たびたび挿入されるこのパートは本当に何ひとつ楽しくないものであり、それが一度きりでないことにも驚いた。まさしく、「やらされるゲーム」だ。

さて、この痕跡集めについては会話のズレが生まれることがある。というのも、ストーリーのものと仕様とで意見が食い違うのだ。
まず、仕様としての痕跡集めを私は悪いと思わない。モンスターを探す過程で集め、それが蓄積し、過去作で言うペイントボールや千里眼の役割を果たす。面白い装置だと思う。
私が指摘する部分、問題点としてあげられる痕跡集めは、ストーリー進行上強制のものだ。これについて、私はただ面倒だなと感じる。
痕跡集めに限らず、これらは要素単体で問題なのではない。ムービーも、イベントも、痕跡も、それ自体はゲーム体験を豊かにする可能性を持っている。
問題は、それらに共通しているこの一点。プレイヤーが拒否できないということ。やるかやらないかを選べない。やらないという選択肢が用意されていない。
この構造によって、プレイヤーは自分の意思で行動しているのではなく、「進行のために必要な処理」を行うことになる。
この積み重ねが、選択肢を削り、主体性を奪い、最終的にはゲーム体験全体を息苦しいものへと変えていくのだ。
クラッチクロー前提の調整

本作を語るに当たってクラッチクローは外せない。ただ、私にとってこれは「諸悪の根源」というより「もっと良いものになった可能性のある惜しい存在」という印象が強い。
まず、前提としてクラッチクロー自体は悪いものではない。むしろ、システムそのものはかなり革新的で素晴らしいと考えている。
距離を詰められる、物理的に攻撃不能だった高所へのアクセスが可能、肉質の軟化、ぶっ飛ばしによる起点作り、クラッチ怯みによる有利時間の延長・・・・・・こう見るとダメな部分のほうが少ない。
しかし、実情としてクラッチクローの現実的な判定は、残念極まる。
ここでも影響しているのは主体性問題だ。
このシステムは「使うと楽しいもの」ではなく、「使わないと成立しないもの」として組み込まれている。ここが本当に残念。
本来、新要素とはプレイヤーの選択肢を広げるものであるべきだ。「使えば有利になる」「状況によって使い分ける」・・・・・・そうした形で既存の戦術に厚みを与え、プレイヤーごとの解を増やす役割を担う。
しかし、クラッチクローはその設計思想が根本から異なる。
肉質の調整やダメージ効率がクラッチ前提で設計されているため、使わないという選択は実質的に排除されている。結果としてプレイヤーは、自分の判断で使うのではなく、「使わされる」状態に置かれる。
ここで起きているのは新要素の追加ではない。遊び方の指定だ。
さらに問題を深刻にしているのが体験の質。ガワはいいが現実は・・・・・・というところだ。
クラッチクローは照準、射出、張り付き、行動という一連の操作に段差があり、戦闘の流れに明確な間を挟む。これがアクションとしての連続性を断ち切り、テンポを崩す要因になっている。
また、思い通りの場所に張り付けないという不愉快さも混在する。足を狙ったのに謎挙動で脇腹にくっつくのは誰もが経験したことだろう。
つまりプレイヤーは、使わなければ不利になるから使うが、使うと戦闘のリズムが崩れる。しかし、それでも使わざるを得ないというジレンマに置かれる。
- 新要素なのに自由度は増えない
- むしろ戦術が固定化される
- その上で操作体験は重くなる
強制によって、こういった歪んだ状態が発生する。
本来であれば「選択肢の追加」であるべきものが、前提条件として機能してしまっている。これは設計としての位置づけが逆転していると言っていい。
ここにあるのは、プレイヤーの判断を尊重する設計ではなく、開発側が想定した戦い方へと収束させる設計だ。
そしてその収束は戦術の幅だけでなく、思考の幅そのものを狭める。やがてプレイヤーは試す余地を失い、主体性はさらに削がれていく。
クラッチクローは便利な機能である以前に、主体性を前提としない設計がどのようにゲーム体験を歪めるかを示す象徴的な例なのだ。
モンスター設計の差異
この主体性の有無という軸は、モンスターの設計にもはっきりと現れている。
よく言われる「神モンス」と「クソモンス」の違いは、単なる強さや難易度の差ではない。本質的な違いはプレイヤーに主体性があるかどうかだ。「強いからクソ」は必ずしも成り立たず、一方で「強いけど楽しい」は珍しくない。
では、それらにはどういった違いがあるのだろうか?
まず、いわゆる神モンス。
特徴として、攻撃や行動には必ず対処の余地がある。初見ではもちろんボコられることは必至だが、攻略の糸口が存在する。つまり、自分のミスが自分のせいだと認識できる設計になっている。
攻撃の予備動作を見極める、位置取りを調整する、装備構成を見直す。これらひとつひとつの判断が結果に直結し、「どう動けばよかったのか」が後から理解できるのだ。
対処可能であり、改善できる設計になっていること。これが良いモンスターの性質となる。
論点は「強いかどうか」ではなく「プレイヤーの工夫が通用するかどうか」だ。
工夫が通用する限り、失敗には意味がある。だからこそ、負けても納得感があるし、「次はこうしてみよう」という発想が自然に生まれる。このループがあるから、難しさはそのまま面白さに転化される。
一方で、いわゆるクソモンスはどうか。
こちらは強いというより介入の余地が少ないことが問題になる。
理不尽な範囲攻撃、回避不能に近い連続行動、頻繁な逃走や長時間の拘束・・・・・・プレイヤーの入力に対して結果が返ってこない、あるいは返ってきても意味を持たない場面が多い。
どこで攻めるべきか、どう立ち回ればいいのか、何を変えれば改善できるのか・・・・・・こういった問いに対する答えが見えない。そこにあるのは対処不能な押しつけ行動だ。
たとえば判定の強い全方位攻撃をひたすら連打するモンスターがいたとする。これは「強い」のだろうか?私は全くそう思わない。強いのではなく、理不尽なだけだ。
モンスターがプレイヤーより強いのは当然だ。極論、プログラムなのだからいくらだって盛れる。隙消し、車庫入れ、設置物、ディレイ・・・・・・これらを盛ればいくらだって厄介になる。
しかし、それはプレイヤーの楽しさに転換されるのだろうか。プレイヤーに勝つことが目的になっていないか?
こういったモンスターが相手では、プレイヤーは「考えること」自体ができなくなる。選択肢がない以上、試行錯誤も成立しないのだから。
結果として感じるのは達成感ではなく、消耗やストレス。プレイがバカバカしくなることだってあるだろう。
つまり、良モンスはプレイヤーの主体性があり、クソモンスは主体性がないと(プレイヤーの介在性の大きさとも)言える。そしてこの違いは、そのままゲームとしての面白さの差に直結している。
どれだけ派手な演出や高い難易度が用意されていても、プレイヤーが介入できる余地がなければ、それは体験ではなく消化に近づく。
逆に言えば、主体性さえ確保されていれば、どれだけ強い相手であっても「戦う価値のある存在」になる。
モンスター設計は、そのままゲームの思想を反映する。そして本作における「神とクソの差」は、まさにこの主体性の有無によって説明できるのだ。
それでは以下に一部、代表的なモンスターを紹介する。
ネルギガンテ(神)

まともなモンスターとして真っ先に出てくるのがネルギガンテだ。
ネルギガンテとの戦闘は、一見するとシンプルな殴り合いに見える。しかし実際には、その内部に明確な因果が組み込まれている。
時間経過とともにトゲを成長させ、放置すれば危険な状態へと移行する一方で、それは破壊可能であり、破壊すればダウンや弱体化といった明確なリターンが発生する。肉質もかなり良心的だ。
つまり、「攻めるか、守るか」という判断が、そのままリスクとリターンの調整に直結している。
ここに、能動性の担保が存在する。トゲを放置してもいいし、積極的に破壊してもいい。安全に立ち回ることもできるし、リスクを取って短期決戦に持ち込むこともできる。
どの選択にも意味があり、その結果は戦況として明確に返ってくる。
さらに、攻撃の予備動作は分かりやすく、被弾の原因も理解しやすい。失敗は理不尽ではなく、「なぜそうなったか」が自分の中に残る。だからこそ、次の行動を変える理由が生まれる。
やるべき時にやるべきことをやり、それが明確なリスクとリターンとして反映される。まさにお手本のようなモンスターだ。
ネルギガンテとの戦闘は、行動を選ぶ、結果が返ってくる、次の行動を変える、という循環が途切れずに機能している。
だからこそプレイヤーは「攻略している」という感覚を持つことができる。やらされているのではなく、自分の判断で状況を変えているという実感がある。
結局のところ、ネルギガンテが評価されている理由は単純。制限があるにもかかわらず、その制限がプレイヤーの選択を生む形で設計されているからだ。
この構造が成立している限り、戦闘は単なる処理にはならない。常に試行錯誤の余地が残り続ける。
戦っていて楽しい・・・・・・この感情は、単に相手が弱いからではなく、やりがいがそこに存在するから生まれるものなのだ。
ナナ・テスカトリ(クソ)

一方で、どうしようもない個体も存在する。クシャルダオラと迷ったが、最も理不尽なモンスターとして彼女を推薦する。
ナナとの戦闘は、難易度が高いこと自体が問題なのではない。問題は、その難しさがプレイヤーの判断や工夫によって解消されにくい構造にある。
まず特徴的なのが、青い炎によるフィールド制圧だ。もはやナナの本体とも言えるこれが、強烈な不快感を発生させる。
戦闘エリアに継続的なダメージゾーンが広がることで、立ち位置や接近ルートが大きく制限される。さらには地面も爆発するので認知不可が非常に高い。
この制限はプレイヤーの行動によって積極的に取り除けるものではない。結果として、「どう動くか」を考える余地よりも、「どう避けるか」に終始しやすくなる。
もちろん、AoE強制というのは別に珍しくない。少ない足場でどうにかする、というのはある種、古典的でもある。
問題になるのは、その上で本体の行動や肉質が凶悪だということだ。隙消し尻尾やら装衣、ダウン対策、また、閃光対策やカウンターも積んでいるのが救いようがない。
最も意味がわからないのはスリップダメージの大量付与だ。アクションゲームの本質である、「当たらなければどうということはない」ということを真っ向から否定するのはおかしいと誰も思わなかったのだろうか?
つまり、これはモーションや仕様のトレードオフが機能していない「ぼくのかんがえたさいきょうのもんすたー」だ。生物というより、ハンターのデータを読み込ませた機械のような印象を受ける。
ここで起きているのは、「その場での工夫」が通りにくい構造だ。
- 行動しても状況が改善しない
- 失敗しても理由が蓄積されない
- 有効な対処が限られている
このときプレイヤーが感じるのは、「攻略している」という感覚ではなく、与えられた条件に従って対処しているだけの、受動的なプレイ感覚だ。
もちろん、これに対して風圧耐性や耐熱といった対策手段はある。しかしそれでも高速モーションや隙潰しはどうしようもないしスリップもキツい。これでは焼け石に水に近い。
だからこそ「対策があるから別に問題ない」とはならない。
本来、モンハンの戦闘は、行動と結果の往復によって組み立てられる。何をするかによって戦況が変わり、その変化をもとに次の判断が生まれる。この循環が成立している限り、たとえ難しくても納得感は生まれる。
しかしナナとの戦闘では、この循環が弱い。プレイヤーの選択が戦況に介入する余地が小さく、結果として試行錯誤が成立しにくい。
ゆえに、この戦闘は「難しい」のではなく、「不愉快」、あるいは「面倒くさい」に感じられるのだ。
なぜこうなったのか?
ここまで、本作における問題の構造を整理してきた。
次に、このような設計はなぜ生まれたのか・・・・・・これについてを考えていきたい。断定ではなく、ここまでの分析を踏まえた仮説として以下に述べる。
結論から言えば、原因は設計の過密化(詰め込み)によって、プレイヤーの介入余地が削られたことにあるのではないか。
本作は新世代機で展開されたシリーズ初の本格タイトルだ。従来と比べてハード性能は大きく向上し、表現力も処理能力も飛躍的に増した。
つまり、できることが一気に増えた。
グラフィックはよりリッチになり、演出はシームレスになり、マップは広大化し、システムも複雑化した。これまで技術的な制約によって実現できなかった要素が、ほぼすべて実装可能になった。
そして、その結果として起きたのが、できることをすべて取り込もうとする判断だった。
ストーリー演出も強化する。新しいシステムも前面に押し出す。探索要素も組み込む。導線も丁寧に整備する。どれも単体で見れば妥当であり、むしろ「あるべき改善」にすら見える。
しかし問題は、それらを同時に成立させようとしたことだ。
本来ゲーム設計は、何かを足すと同時に何かを引くことでバランスを取る。だがここでは「足す」判断が優先され、「引く」判断が後回しになっている。
その結果、設計の密度が過剰に高まる。
プレイヤーに委ねられるはずだった判断は、システムや演出、導線によってあらかじめ規定される。ひとつひとつの要素は正しくても、それらが積み重なることで、プレイヤーが介入する余地そのものが削られていく。
ここで起きているのは、単なる機能追加ではない。体験の構造そのものの変化だ。
本来であれば、プレイヤーが「どうするか」を考え、その選択が結果に影響することで体験が成立していた。しかし設計が過密化したことで、「何をするか」はあらかじめ決められ、「どう進めるか」を処理する構造へと変化している。
つまり、できることが増えたにもかかわらず、プレイヤーが関与できる範囲はむしろ狭まっている。
リソースの増加は、そのまま自由度の増加にはならない。むしろ「すべてを成立させようとする設計」が、結果としてプレイヤーの判断を不要にし、体験の窮屈さを生み出している。
それが本作における違和感の出発点ではないか。
体験の変化が起きた根本原因
この流れを踏まえると、問題の本質は明確だ。作品性がゲーム性を上回るという構造の発生。ここが最も大きい変化に見える。
これこそが、「遊ばせるゲーム」であり「強制的な体験」であり、そういったことを主是とする「モンスターハンター:ワールド」というゲームの姿勢を形作った根源なのではないか。
では、どうして作品性が強くなったのだろうか。かつてのモンハンも作品ではなかったのか、なぜワールドだけが特異なのか。
これについては、これまでのモンハンから脱する新たな挑戦としての背景が影響していると考えられる。
- 新規層を取り込みたい
- グローバル市場を意識
- AAA作品として成立させる必要
実際、ティザーや事前情報でも、ワールドは「これまでと違う」という感覚が如実にあった。「これが本当のモンハンだ」とまで思い、ワクワクしていたのは事実だ。
過去作のモンハンがまさしくゲームであったのに対し、ワールドはまるで映画のような、「世界を訪れる」という環境体験に近い印象を覚えた。
開発はここを裏切らないために、分かりやすい導線、見せ場の強化、体験の統制を重視し、それが「プレイヤーに考えさせるよりも、体験を保証する」・・・・・・いわば失敗させない設計を構成した。
つまり、当然のこととしてプレイヤーを大切に思ってのディレクションだったのだろう。しかし、過保護なレベルのそれらが、想定していない反発を生んでしまった。
「強制感が強すぎる」
ワールドの息苦しさは、単なるミスマッチだったのだ。
体験の保証を優先する・・・・・・それによりわかりやすくなるも、しかし選択の意味が減った。ゆえに、主体性が削られた。
まずそもそも、ゲームと作品では体験の設計思想が異なる。
ここで「ゲームも作品なのでは?」という反論があるだろう。これはそうなのだが、主張としては少し違う。私が言いたいのは体験の思想部分、「どちらを優先するか」ということだ。
- ゲーム:結果が変わる(可変体験)
- 作品(映画など):結果が固定されている(固定体験)
これはトレードオフだ。作品性を強くすると体験は安定するが、その分だけ可変性が減る。映像体験自体は素晴らしいがゲームとして窮屈・・・・・・これはまさに本作ではないだろうか。
ゲームとはプレイヤーの選択を許容するものだ。
どのルートを選ぶか、どの手段を取るか、その結果がどう変わるか。こうした分岐と試行錯誤が許されているからこそ、プレイヤーごとに異なる体験が生まれ、その過程そのものが面白さになる。
一方で、作品とは体験を統制するものだ。
作者が意図した順序で、意図した情報を提示し、意図した感情を引き出す。そこでは選択よりも演出が優先され、受け手は用意された流れを受容する立場になる。
問題は、本作がゲームでありながら、この作品的な振る舞いに強く寄っている点にある。
ストーリー進行の演出、イベントの配置、システムの導線。それらはすべて「体験を分かりやすくする」方向に設計されているが、同時に「体験の幅を狭める」方向にも働いている。
本来であればプレイヤーに委ねられるべき判断が、あらかじめ設計された体験として固定される。その結果、プレイヤーは「どう遊ぶか」を考えるのではなく、「どう進めるべきか」に従うことになる。
これは、自由度が下がるという単純な話ではない。より正確に言えば、選択の意味が薄れている状態だ。
どの選択をしても体験が大きく変わらない、あるいは選択そのものが許されていない場合、プレイヤーは意思決定を行う必要がなくなる。そのときゲームは、思考を伴う体験ではなく、指示を処理する行為へと変質する。
この「作品性の押しつけ」・・・・・・つまり「体験を保証する設計」こそが、主体性を奪い、結果としてゲーム体験を窮屈なものへと変えている。
問題は作品性そのものではない。体験を保証するために、結果の可変性が削られたことにある。
モンハンとしてのコア(主体性重視の可変体験)を維持したまま映画的なゲームにする・・・・・・これは、設計上不可能に近い。構想的トレードオフによる、成り立たない両立なのだ。
評価が割れる理由
ワールドの評価は極端だ。とことん嫌ってる人もいれば「普通に面白かったじゃん」と言う人もいる。この差はいったい何が関係しているのだろうか。
本作の評価が大きく分かれる理由は、シンプルに言えば加点法と減点法のズレにある。このゲームは、プレイ時間によって見え方が大きく変わる構造をしているのだ。
まず序盤。ここでは前述した通り、UXの改善が強く体感できる。
ダメージ表示による分かりやすさ。ショートカットによる操作の快適さ。シームレスなマップによる没入感・・・・・・これらはプレイ開始直後から実感できる「明確なプラス要素」だ。しかも、それらは従来作で感じていた不便さを直接的に解消するものでもあるため、プレイヤーの満足度に直結する。
その結果、評価は自然と加点方式になる。
「こんなに快適になったのか」「これなら誰でも遊べる」といったポジティブな印象が先に立ち、「めちゃくちゃ面白い」という初期評価が形成される。
しかし、プレイを続けていくと状況が変わる。
ストーリー進行の強制、痕跡集め、クラッチクロー前提の戦闘設計、介入不能なモンスター行動・・・・・・こうした要素が徐々に増え、しかも単発ではなく積み重なっていく。
これらひとつひとつは致命的ではない。単体で見れば「少し気になる」程度の違和感に留まる。しかし、それが長時間のプレイの中で繰り返されると、小さな違和感が蓄積し、無視できないストレスへと変わっていく。
この段階では評価の基準が切り替わる。
序盤のように「どれだけ良い点があるか」を見るのではなく、「どれだけ気になる点があるか」を基準に判断・・・・・・減点方式へと移行する。
その結果、「面白いけど、ここが引っかかる」「完成度は高いけど、ストレスがある」という評価に変わっていく。
つまり、短時間プレイでは加点が先に見える、長時間プレイでは減点が蓄積するという二重構造になっている。
このため、ライトに触れたプレイヤーほど高評価になりやすく、やり込んだプレイヤーほど細部の違和感を強く意識するようになるのだ。
これはまさに前述した体験設計の変化、新規へのリーチを考慮した影響などが出ている。
これまでのモンハンを知らない人にとって、ワールドはとても親切なゲームだ。指定されたレールに沿ってプレイするだけでいい。やることを決めてくれるのはスムーズで、楽で、快適だ。
しかし一方で、過去作の文法を意識しているプレイヤーにとっては息苦しい。私もこちら側で、モンハンにストーリーなんて一切求めていないのに強制されるのは苦痛でしかなかった。
初見の印象が爆裂によく、しかし逓減していくこの構造の根幹には、やはり主体性の欠如が横たわる。
勝手に進む道にいる際は不満がない。しかし、横道にそれようと思うと、システムがそれを抑制してくる。その繰り返しでプレイヤーは気づく。見かけに対して自由がない、ということに。
ゲームでありながら、遊びの制限がキツすぎるという違和感。この不満の堆積が、良い部分は良いけど(加点)それはそれとしてここはどうなんだ(減点)、という評価を招くのだ。
手を広げる。これにより不満の種類と質が変わったのは、まさしくワールドの特異な部分だろう。
どうすべきだったのか?
ここまで見てきた通り、本作は決して出来の悪いゲームではない。むしろアクションの手触り、狩猟ループ、装備構築といった基礎はシリーズの到達点にある。多くのプレイヤーが長時間没頭したのも当然の完成度だ。
しかし同時に、その体験には一貫した歪みがある。
プレイヤーの主体性が十分に確保されていないことだ。
本来であればプレイヤーに委ねられるべき選択が、システムや導線によってあらかじめ規定されている。その結果、試行錯誤の余地は徐々に削られ、体験は少しずつ「自分で組み立てるもの」から外れていく。
最初はそれが快適さや分かりやすさとして機能する。だがプレイを重ねるほどに、選ぶ余地がない、試す必要がない、考える意味がないという状態が蓄積していく。
そのときプレイヤーが行っているのは、「どう遊ぶか」を決めることではなく、「どう進めるか」を処理すること。そしてこの状態が続いたときに生まれるのが、「やらされている」という感覚だ。
だからこそ本作は、基礎は優れているのに評価が割れるという結果を生んでいる。面白くないのではない。面白さを支える構造が、別の設計によって阻害されているのだ。
では、この問題はどうすれば回避できたのか。
結論はシンプルで、プレイヤーに選択肢を残す設計にすべきだったという点に尽きる。
単に要素を削る必要はない。ストーリー、演出、新システム、探索・・・・・・いずれも体験を豊かにする可能性を持っている。問題は、それらが前提化されていることにある。
ゲームにおいて同じ要素でも、「任意」か「必須」かで意味はまったく変わる。任意であれば選択肢だが、必須になった瞬間、それは制約になる。
たとえばムービーはスキップ可能にする。探索やイベントも、寄り道として成立させる。新要素も、使えば有利だが使わなくても成立するバランスにする。
この設計であれば、ストーリーを楽しみたいプレイヤーも、テンポを優先したいプレイヤーも、それぞれの意思で体験を選ぶことができる。
ここにあるのは単なる自由度ではない。体験の優先順位をプレイヤー自身が決められる状態だ。
実際、防衛隊装備のように「使ってもいいし、使わなくてもいい」という設計は成立している。早く進めたいプレイヤーにも、従来の進行を楽しみたいプレイヤーにも対応できている。
このどちらもが正解として成立している・・・・・・これが重要だ。つまり、選択が許されている。
「選べる」という一点が、主体性を担保する。主体性があるからこそ、プレイヤーは「どうするか」を考え、その結果に責任を持ち、試行錯誤を繰り返すことができる。
逆に言えば、どれだけ要素を用意しても、それが前提化された瞬間、体験はひとつに収束してしまう。
だからこそ理想は明確だ。
使ってもいい、使わなくてもいい。
このシンプルな設計こそが、快適さと主体性を両立させる条件であり、同時にゲームとしての面白さを維持するための基盤でもある。
「選択肢を与える」ということは、体験を委ねるということ。そして、「すべてを見せること」と「選ばせること」は両立できる。
本作は、技術的な進化と新規層への配慮を優先する中で、このバランスを取りきれなかった。結果として、すべてを成立させようとした設計が、プレイヤーの介入余地を削り、独特の窮屈さを生み出した。
それが、この作品の評価を分断させた本質的な理由ではないだろうか。
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