山月記は「現実逃避をしないなろう系」だった:大人になってわかる李徴の現代人っぽさ

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

もはやミームでも使われるこの一節を知らない人は少ないと思う。中島敦による1942年の小説『山月記』におけるセリフの1つだ。

山月記と言えば、私の中では高校生という時代が密接に結びついている。当時の現代文の授業で、いかめしい顔をした先生が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心とは」「人間は誰でも猛獣使いである」なんてことを語っていたなと思い出せるぐらいだ。

かつて読んだ本をまた読み返すというのは結構楽しい。当時とは受ける印象が異なり、同じものなのに別の感想が出たりする。

そんなわけで、10年以上ぶりに山月記を再読した。思いのほか短く、あっさりと読み終えたそれへの感想はしかし、当時の「なんか奇妙な話だなあ」とは違ったものだった。

「これはなろう系じゃないのか?」

そんな俗っぽい読後感があった。

「才能があるなら努力しましょう」という教訓だけでは、どうにも収まりが悪い。李徴は自分の問題に気づき、なぜ失敗したのかも語れる。けれど、その理解を足場に人生を立て直す場面はない。虎のまま旧友と別れ、話は終わってしまう。

引っかかったのは、李徴が捨てられずにいる「本当の自分はもっとすごいはずだ」という感覚だ。現在の境遇が不満なのは、自分が望むものを得られなかったからだけではない。そこにいる自分を、本来の自分として受け入れられないから・・・・・・らしい。

これは古い時代の、ひときわ傲慢な男だけに起こること・・・・・・それを揶揄したフィクションだろうか。

そう考えながら読んでいると、ふと現代の「現実では評価されないが本当はすごい人物の物語」を思い出す。「うだつの上がらない人間が異世界転生して無双する」というジャンルの読み物・・・・・・なろう系だ(現在なろうでこういうジャンルは流行ってないそうだが)。

さて、本記事は、学者先生がたのようにちゃんと山月記を解説、紹介するものではまったくない。いろいろなコンテンツに触れてきたから思う、「俺はまだ本気出してないだけ」というフォーマットの普遍性を本作ベースに考察しようと思う。

山月記、それを現代的なタイトルにするなら「凡人にはなりたくない俺、詩人として成功できず虎になる」だったのではないか?

内容を軽く紹介

もう覚えていない人も多数いると思うので、本筋に入る前に軽く内容をまとめる。一応、青空文庫なら無料で読めるため、一読を推奨しておく。

山月記は、才能への自負が強く、役人を辞めて詩人を目指した李徴という男の物語だ。

すごい人間ではあった。しかし、詩人として思うような評価を得られず、生活のために再び官職へ戻った李徴は、やがて発狂し、山中で虎の姿になってしまう(なぜ虎になったのか、は主題じゃないので割愛)。

その後、かつての友人、袁傪と再会した李徴は、自分がなぜ虎になったのか、詩人として何を望んでいたのか、そういったことを語る。そこで「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という言葉で、自らの性質と破滅を振り返る・・・・・・だいたいこんな話だ。

李徴は「何もしなかった人」ではない

まず、李徴を「俺はまだ本気出していないだけ」と言い続けた怠け者だとして片づけると、この話の厄介さを取り落とす。というかこの認識は本編とかなり違う。

李徴は若くして出世し、官吏になっている。その職を辞めたあとも、詩人として名を残すために詩作に打ち込んだ。社会的な実績もあり、自分の望む生き方に向けて行動もしている。

つまり、何も試さず、何も作らず、頭の中だけで天才を名乗っていた人物ではない。そこには明確な実績が紐づいている。

ただ彼は、師事して学ぶことや、詩友と交わって切磋琢磨することを避けた。詩を書いてはいるが、その詩を通して他人と関わり、自分の力を見定めていく過程からは距離を取っていた。

いわば「これを公開したらランキング1位になって書籍化もされるぜ」と思いながら、ずっと下書きを書いている状態だ。

師に教わるには、自分に足りないものがあると認めなければならない。他人と競えば、自分より優れた人間が見える。力を尽くして評価を受ければ、望んだ結果が得られないこともある。

李徴が恐れたのは、失敗することに加えて、失敗によって自分の価値が見えてしまうことだったのではないか。

まだ十分に磨いていないなら、輝かない理由は才能以外にも求められる。しかし磨いたうえで輝かなければ、「自分は宝石ではなかったのかもしれない」という疑いを引き受けなければならない。

だから、努力がまったくなかったというより、自分の思い描く価値が試されるところで、その努力を止めてしまったと読める。詩作への執着と、才能を確かめることへの恐怖が同時に存在していた。

要は、李徴が守っていたのは才能そのものというより、「自分には才能があるかもしれない」という未確定の可能性だった。

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、このねじれを表している。

自分を高く見ているから、低い評価を受けることに耐えられない。低い評価を恐れるから、自分を高く見積もる根拠を確かめられない。可能性を傷つけずに残すための回避が、才能を育てる機会も奪っていく。

「そうであるはずの我が人生」

「何もない人」を李徴は避けたかった。そのための努力の形跡があった。

ただ、李徴の人生には、何も出来事がなかったわけではない。進士になり、官吏を辞め、詩人を志し、生活に困り、再び官吏として働く。経歴だけを並べれば、むしろ変化の多い人生だ。少なくとも「一般的」とは程遠い。

けれど、その出来事は、彼が期待した自分の人生にはつながらなかった。

官吏として働くことは、彼にとって望むべくことではなかった。だから辞めた。本来やりたかったこと・・・・・・詩人を目指したのも、ただ詩を書いて暮らすためではなく、後世に名を残すためだ。

しかし上手く行かない。仕方無しに復職すると、かつて見下していた同輩の下で働かなければならなくなった。生活を支える仕事に戻ったという事実が、李徴には、自分が彼らより下に置かれたという別の意味を持ってしまう。

そこには、現在の境遇と、そうであるはずの自分との比較がある。実際に何をしてきたか、何ができるかよりも、「自分なら本来この位置にいるはずだ」という像が、人生を測る基準になっている。

そう読むと、李徴が耐えられなかったのは失敗だけではないように思える。

失敗したまま暮らしが続き、その境遇が自分の人生として定着していくことにも耐えられなかったのではないか。「俺の人生はこの程度なのか」と認めることのほうが、個々の失敗より重かったのかもしれない。

本来いるべき場所がある。いつか才能が証明される。今はまだ、その途中にいるだけだ・・・・・・そう考えている限り、現在の自分は仮の姿にできる。目の前の生活が不本意でも、それを人生の結論として引き受けなくて済む。

アニメやゲームの主人公を見て(李徴的には高名な将軍や作家たち)、「そうであるはずの我が人生」を思い描き、その筋書きを捨てられなくなる。

李徴は、現在の不遇をそのまま人生の結果として受け取らず、いつか才能が証明されたときに意味の変わる「途中の場面」として扱っていたように見える。今の惨めさも、後から振り返れば「成功するまでの苦難だった」と説明できるからだ。

そう考えると、彼は現在を生きるというより、自分の人生がどんな筋書きになるかを見ていた・・・・・・李徴は、人生を物語として見すぎていたのかもしれない。

この比喩で見えてくるのは、理想(妄想)に影響されたから失敗する、という因果ではない。自分の人生にも、才能が報われる場面や、不遇の意味が明らかになる場面が用意されているはずだと思ってしまうことだ。

自分の人生にも、物語的な必然があると、そう信じてしまったのだ。実際、人生はそんなドラマチックではないのに。

だから、李徴にとって詩人としての成功は、望む職業に就くこと以上の意味を持っていたのだろう。それが実現すれば、これまでの不満や孤立も、特別な人間が認められるまでの過程として理解できる。成功しないままでは、それらを引き受けるための物語が完成しない。

彼が捨てられなかったのは、詩人になる夢とともに、その夢が自分の人生に与えるはずだった意味なのだと思う。

官吏として生きる現実の李徴と、詩人として成功するはずだった理想の自己像の隔たりを示したイメージ

現実逃避をしない「なろう系」

こういった欲望を、物語の中で満たしてくれる構造がある。いわゆる「なろう系」と呼ばれる作品のうち、現実で評価されなかった人物の価値が、別の環境で明らかになるようなタイプのものだ。

  • 現在の場所では認められない
  • しかし、それは本人に価値がないからではない
  • 周囲が見抜けなかったり、能力を発揮する条件が揃わなかったりしただけ
  • 環境が変わることで本来の力が現れる
  • 本人が信じていた価値が、他人にも認められるようになる

そこで回収されるのは、「自分はすごい」という願望だけではない。「これまで認められなかった自分は、間違っていなかった」という感覚でもある。不遇の過去が、価値のない時間ではなく、価値がまだ発見されていなかった時間へ転換される。

「本当の俺はすごい。今の俺は、まだ見つかっていないだけだ」

そういう前提があるから、自分が主人公になった時、現れるのは「やっぱりね」という充足感になる。自分の正当性を味わうものとして、こういったジャンルの楽しみ方は作られる。

李徴の願望も、この構造から遠くない。いまは詩人として名が揚がらない。それでも、自分には名を残せるだけの才能がある。その才能が世に認められれば、現在の不遇と本来の自分との隔たりは埋まる・・・・・・そう思ってやまない。

だから仮に、上記物語のフォーマットを組むなら、山月記は「実は才能のある人間だった俺、仕事で上司に揉まれるも裏では謎の天下の歌人で虎男だった!?」みたいなノリで進むだろう。

ただし、山月記では、その隔たりが埋まる方向に話が進まない。

李徴は自分の価値を証明したいのに、その価値が試されることを恐れる。環境が変われば力を発揮する、という転換の代わりに、力を発揮するために必要な関わりを避けてしまう。そして、詩人として生き直す機会を失った姿で、旧友の前に現れる。

特殊なのは、李徴に才能がまったくなかったと暴かれるわけでもないことだ。そもそも非凡ではあった。ゆえに、袁傪は託された詩の凄さを認める。

しかし、第一流の作品になるには何かが欠けているとも感じる。才能の存在をうかがわせるものはあっても、それが李徴の望んだ詩人としての成功に結びつくところまではないように、彼は思う。

「実は自分はすごかった」という回収がないうえに、「そもそも才能などなかった」という決着もない。育て、試していくはずだった可能性が、十分な形になる前に失われている。要は未確定のままなのだ。李徴が天才だったかどうか、それはわからないまま。

ここが「なろう系っぽいフォーマット」としては特殊だ。

現実で評価されない人物が、願望充足型では才能を認められ、『山月記』では才能が未確定のまま終わる構造を比較した図

さて、この比較は、願望充足型の作品を幼稚だと切り捨てるためのものではない。対立煽りをするつもりも、なろう系が低俗だと言うつもりもない。

そもそも「今の自分は仮の姿で、本当の自分にはもっと価値がある」と思いたい欲望は、その物語を楽しむ人にだけあるわけではない。李徴にもあり、そうした物語を必要としないと思っている人にもありうる、普遍的な感情だ。

願望充足型の物語は、その期待に答える。需要と供給がマッチしている。だから、それそのものをとやかく言われる筋合いはない。

山月記は期待を抱いた人間が、答えを得られないまま行き詰まるところを描く。同じ欲望を出発点にしているのに、読者が欲しくなる救済の方向が閉じている。ここに注目したい。

「現実逃避をしないなろう系」というのは、作品の分類というより、その逆向きの構造についての感想だ。李徴の身には虎になるという非現実的なことが起こる。それでも、特別な出来事が起きれば本当の自分が報われる、という期待に沿った救済は与えられない。

事件は、それだけで救済を意味しなかったのだ。

山月記は李徴を笑いものにしない

さて、願望が叶わない話なら、読者には別の楽しみ方もある。自分を特別だと思っていた人物が、そうではないと突きつけられるところを見て笑うことだ。

「痛いヤツ」「勘違いしていたね」「現実を見ろよ」という言い方には、相手の思い込みが崩れることを楽しむ余地がある。そういう露悪的なストレス解消の作品もまた、世の中には多い。物申す系などもそうだろう。

李徴の経歴も、切り取り方によってはそう読める。人を見下し、詩人として成功できず、復職にも不満を抱き、最後には虎になる。傲慢な人間が報いを受けた話として処理することはできるだろう。

けれど、山月記は、その読み方に気持ちよく乗らせてくれる作品には見えない。その滑稽さだけで李徴を処理できる材料を与えてはくれない。

李徴は自分を嘲り、笑ってくれとさえ言う。しかし袁傪は、その言葉を哀しく聞いている。

李徴の痛々しさは隠されていないのに、友人も読者も一緒になって彼を笑うような場面にはならない。妻子や友人を苦しめたことは語られるが、それによって彼の苦しみまで無価値になるわけではない。

同時に、最後に隠れた天才として持ち上げられることもない。自負の正しさを証明して救うことも、自負の誤りを証明して突き放すこともせず、李徴の言葉と、そのあとに残る姿を見せる。

このために、読者は李徴との距離を決めにくくなる。

彼が笑われるだけの人物なら、「こんな人間にはなりたくない」と眺められる。天才だったと認められれば、「才能があったのに不幸だった人」として特別扱いできる。どちらも、李徴を自分とは別の種類の人間にする方法だ。

しかし、そうした決着が与えられないと、残るのは不穏な感情移入に近い感覚だ。

自分もこうなるかもしれない・・・・・・そんな普遍性を感じてしまう。だから、哀れみでも、嘲笑でもない感情が生まれる。

評価されたいのに、評価されるのが怖い。いまの自分を受け入れられず、まだ明らかになっていない自分の価値にすがる・・・・・・その感覚には、李徴を見下すだけでは処理しきれない部分がある。

作品が彼を笑いものにしてくれないからこそ、「でも、この自意識の部品は自分にもないか」という問いが返ってくる。

そして山月記は、説教臭く「お前らだって虎になるかも知れないんだぞ」なんて無粋な態度をとらない。そこの冷徹さで、さらに感情移入が進むのだ。

自己分析できても、人は別に変わらない

李徴は、自分の弱さを知らない人物ではない。少なくとも袁傪と再会したときには、自尊心と羞恥心がどのように絡み合い、人との関わりを避け、才能を空費することになったかを、明晰に説明できる。

これほど自分の問題を言葉にできるなら、立ち直れそうにも思える。自分を苦しめていたものが分かれば、次には違う行動を選べる。物語であれば、その理解が成長のきっかけになることもある。

けれど、李徴の告白には、その「次」がない。

語っている時点で、彼はすでに虎になっている。問題が分かったからといって、人間としての生活に戻れるわけではない。自分の失敗を理解する言葉と、それを取り返す機会が、切り離されている。

さらに、理解したことで執着が消えたわけでもない。

李徴が袁傪にまず頼むのは、自分の詩を残すことだ。妻子の暮らしを託すのは、そのあとになる。そして、その順序こそ自分の問題を表していると、本人が指摘する。

私はこのシーンがとても好きだ。あれだけいろいろ諦めたふりをしておきながら、やっぱり自分の評価が気になるんだなという下らなさ。まるで、超然とした態度を取ろうとしていながら、エゴサに興じてしまうような醜さがある。

彼に妻子を案じる気持ちはある。それでも詩のことを先に頼んでしまう。自分の何が悪かったかを語りながら、しかしその自分のままでいる。この順序があるために、告白を「すべてを悟って別の人間になった場面」として読むことは難しい。

そう考えると、告白そのものにも、李徴らしさが残っているのかもしれない。

彼の説明は、単に詩人として成功できなかった人生を、自尊心によって破滅した人間の悲劇として語り直すものでもある。成功できなかった理由を厳しく見つめながら、その失敗に、ひとつの形と意味を与えているとも読める。

「頑張ったけどこうなったよ。こんな特殊な人生、どう思う?」

李徴が自分の弱さを理解していても行動は変わらず、自己分析と成長が一致しないことを示した図

もちろん、だからといって、後悔が演技だったということにはならない。悲惨だと思っているのはおそらく本心だろう。悔いていることと、その後悔を通じて自分を特別な人物として語ることは、両立しうる。

ただ、最後の告白にまで「自分はどんな人生を生きた人間なのか」という関心が残っていると考えると、そこにも李徴の執着が見えてくるのだ。

虎になってようやく、李徴の人生は「物語」になった

ここに、ひとつの皮肉がある。ここまで見てきた、「平凡な人生として終わりたくない」「自分の人生には特別な意味があるはずだ」という欲望を、物語という言葉に置き換えれば、ひとつ抽象化できる。

望んだ詩人の人生を得られなかった李徴は、虎になることで、ようやく誰かに語られる特別な人物になった、という解釈だ。

才能を自負した男が破滅し、人間ではない姿で旧友と再会する。残月の下で過去と後悔を語り、詩を託し、妻子を頼み、別れる・・・・・・詩人として名を残すことには届かなかった人生が、この再会によって、強い形を持つ物語になった。

李徴はこの展開を望んでいたわけではないだろう。彼にとって理想だったのは、詩人として名を成すことだったはずだ。だが、「自分の人生は平凡なまま終わるものではない」という期待との関係で見ると、破滅によってその人生に特別な輪郭が与えられてしまった、と読める。

これは、前の章で考えた告白の働きともつながる。李徴は自分の失敗を語ることで、ばらばらの出来事をひとつの悲劇にまとめる。そして虎になった姿が、その悲劇を、単なる自己評価では済まない出来事にしている。

「特別な物語の主人公になりたい」という願望が、最悪の形で叶ってしまった。

ただ、その物語の完成は、李徴の人生を救わない。自分の破滅がどれほど劇的でも、人間として生きる時間は戻らない。袁傪に苦しみを伝えられても、それによって詩人としての生活が始まることはない。

人生が物語になることと、その人生を生きる本人が報われることは、ここでは一致しない。李徴は他者に伝わる物語を残しながら、その先を人間としては、もう生きていけないのだ。

李徴にとって、袁傪との再会は、残された人間の心で自分の人生を誰かに渡せる最後の機会として描かれている。詩も、後悔も、家族への頼みも、この短い時間に託さなければならない。語る内容は、彼の人生そのものだ。

一方、袁傪は旅の途中で李徴に出会う。そこで足を止め、旧友の話を聞き、頼みを引き受ける。そして夜が明けるころ、再び出発する。

袁傪が冷淡だったということではない。彼は李徴のために涙を流している。それでも、旧友の苦しみを深く受け止めることと、その苦しみを自分の人生として生きることは違う。李徴との別れのあとにも、袁傪には続いていく旅がある。

同じ再会でも、李徴にとっては人生を託す出来事であり、袁傪にとっては自分の人生の途中で出会った出来事でしかない。

それは、ただのワンシーンだ。

この大きさの違いが、結末の短さをいっそう寂しいものにしている。

極論、嫌な話だが、袁傪がのちに酒場で「なんか昔の友達が虎になっててさw」なんて肴にする可能性だってあるだろう。この非対称性は残酷だが、しかし人生とは得てしてそういうものでもある。

本人にとっては一生を費やした願望や後悔でも、他者に渡すときには、ひとつの話になる。そこに重さがないのではない。相手がどれだけ真剣に聞いても、人生の全体をそのまま引き渡すことはできないのだ。

李徴はようやく、苦しみを言葉で伝えられる相手に会えた。けれど、理解してくれる人が現れても、その人の時間が李徴のために止まり続けるわけではない。話は聞かれ、別れは訪れ、世界はその先へ進んでいく。

李徴は主人公になりたかった。

けれど、誰もが主人公と思っている主観の世界では、誰かの独白は話のネタにしかならない。

誰にとっても、自分の人生だけは全体として経験される一方で、他人の人生はどれだけ深く関わっても、自分の時間の中に現れる一部分としてしか受け取れないのだ。

李徴にとって人生の集大成だった再会が、袁傪にとっては旅の途中の一場面にすぎない非対称性を示した図

話は短いのに忘れにくい理由

山月記はどういう話か。

エリートぶっている人が虎になって出てくる変な話・・・・・・これはまあ、間違いではない。しかし、変な話というだけなら記憶には残りづらいだろう。

これがやたら覚えられるのは、そこに時代を越えた普通さが横たわっているからだと私は思う。虎になるような大事件があっても、人生が決定的に動き直すことのなかった話・・・・・・この読後感にモヤモヤが残る。

李徴は人間に戻らない。詩は旧友に託されるが、それによって望んだ成功を得たところまでは描かれない。家族とも再会しない。自分が何を誤ったかを語り、短い時間を旧友と過ごし、別れる。告白は人生を理解する形を与えても、やり直す入口にはならない。

そんな話が忘れにくいのは、李徴が虎になるほど特殊な人物だから、というだけではない。彼をそこまで追い込んだ自意識の部品が、あまりにも普通だからだ。

自分はもっとできるはずだと思う。評価されないときには、本当の自分がまだ伝わっていないと考えたくなる。

その一方で、力を尽くしても届かないと分かることは怖い。現在の生活を人生の答えとして受け入れるより、まだ本当の人生は始まっていないと思っていたい。

そして、苦しい時間にも、自分にふさわしい特別な意味があると信じたくなる。

これは、自意識の高い変な人間だろうか?私には、李徴がどこにでもいる平凡な男にしか思えない(それ自体が彼にとっては不愉快なのだろうが)。

李徴のように人を見下したり、周囲を苦しめたりするところまでは行かなくても、誰しもそうした感覚の一部を持つことはある。それがどの程度まで膨らむか、自分の行動とどう結びつくかによって、違う人生になっているだけかもしれない。

山月記は、その願望が正しかったと証明してくれない。かといって、願望を抱いた人間を笑って終わらせてもくれない。李徴の後悔を聞きながら、読者は、彼と自分のあいだにあるものを考えることになる。

山月記が怖いのは、「こういう馬鹿な男がいた」という話ではないところだ。「これは自分ではない」と、最後まで言い切らせてくれない。

ただ淡々と鏡のような存在を見せられることにより、そこに自己を無意識に映す。

その嫌悪、同情、共感・・・・・・それによって、山月記は思い出に残る短編へ昇華されるのだろう。


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