それは、「無料」の前提を大きく超えていた。
2024年7月4日、『崩壊3rd』や『原神』、『崩壊スターレイル』を手掛けるmiHoYoから新たなスマホゲームがリリースされた。その名は『ゼンレスゾーンゼロ』だ。
私はこれまで、いわゆるスマホゲームをほとんど好んでこなかった。
話題作として名前が挙がるものを触ったことはあるが、長く続いたものはほとんどない。原神なども例外ではなく、とりあえずはやってみたものの、面白さを感じる前に離れてしまった。
ところが、ゼンゼロだけは違った。
気がつけば毎日プレイするようになり、最終的にトロコンまで遊び込んでしまうほどハマった。少なくとも私にとっては、これまで触れてきたスマホゲームとは明らかに質が違う体験だったと言える。
そもそも、私はスマホゲームというジャンルにあまり良い印象を持っていない。
世間で「面白い」と言われている作品であっても、遊んでみると「スマホゲームとしてはよく出来ている」という評価に落ち着くことが多い。普段プレイしているPCやCSのゲームと比べると、どうしても体験の密度が薄く感じてしまうのだ。
私の中でのスマホゲームのイメージは、だいたい次のようなものだ。
- 操作の簡略化によるゲーム性の薄さ
- 目的の場所にたどり着きにくいUIの煩雑さ
- プレイというより作業になりがちなシステム
- UXを阻害する課金導線や広告導線
- 総じて「基本無料」という枠組みから出ない設計
つまり、ゲームとしての体験よりもサービスとしての都合が前面に出ている印象を受ける。
しかし。
ゼンゼロはそんな自分の認識を揺さぶる作品だった。スマホゲームという枠組みの中にありながら、確かに「ゲームとして面白い」と感じる瞬間が多々あったのだ。
では、この差はどこから生まれているのだろうか。
本記事では、ゼンゼロの良し悪しを単なるレビューとして語るのではなく、「なぜこのゲームは面白く感じられるのか」という点を中心に整理していく。スマホゲームに対して多くのゲーマーが抱いている違和感と、その構造的な理由。そして、ゼンゼロが何を変えたのかを見ていきたい。

なお、本記事の内容は初期バージョンを前提としている。
執筆時点はVer.1.1「ネズミ色のブルース」以前の段階だ。記載内容の是非については、今後のアップデートによって変わる可能性があることをあらかじめ断っておきたい。
なぜスマホゲームはつまらないのか
まずは、私がスマホゲームに対して抱いていた偏見から話しておこう。
前述した通り、それなりにゲームを遊んできた身だが、スマホゲームだけはどうしても受け入れられなかった。触れはしても長く続いたものはほとんどない。
私がスマホゲームを好まない理由は、設計の不整合にある。これは単なる好みの問題ではなく、ゲーマーとして遊んできた経験からくる違和感に近い。
一言で言えば、ゲームが浅いのだ。
ここで言う「浅い」とは、難易度が低いとか、遊びやすいという意味ではない。プレイヤーが没頭できる核となる要素が弱い、あるいはかなり薄く設計されているという意味だ。
ゲームというものは本来、遊べば遊ぶほど理解が深まり、操作や判断の精度が上がり、プレイヤー自身の上達によって体験の質が変わっていくものだ。いわば「噛めば噛むほど味が出る」構造を持っている。
たとえば『デビルメイクライ』を考えてみよう。
このゲームの面白さは、クリアやアイテム収集そのものではない。できなかったことができるようになる達成感や、思い通りにキャラクターを動かせるようになる自己効力感にある。
言ってしまえば、プレイ時間の多くは修行とフラストレーションの繰り返しだ。しかし、それを乗り越えると敵を翻弄し、思い通りのコンボでなぎ倒せる瞬間が訪れる。そこにあるのは、プレイヤー自身の上達が生み出す快感だ。
私にとってゲームとは、こういった「自分の向上そのもの」が報酬になる体験だった。
RPGならビルドや戦略の組み立てがあり、探索型のゲームなら世界を理解するほど新しい発見が生まれる。そこで必要なのは努力であり、対価として得られるのは体験だ。
最初は出来なかったことが経験を積むことで出来るようになる・・・・・・こうした積み重ねがゲーム体験の深さを形作り、忘れられない楽しさにつながっていく。これが私のゲーム観だ。
しかし、多くのスマホゲームではこの「深さ」を感じにくい。
操作は簡略化され、戦闘は単調になり、探索やシステムの幅も限定される。プレイヤーの熟練が体験を大きく変える余地が少なく、長く遊んでもゲームそのものの理解が深まっていく感覚が薄いのだ。
もちろん、その代わりに強い要素は存在する。キャラクターデザイン、声優、派手な演出、イベントストーリーなどだ。これらは確かに魅力的で、多くのユーザーを引きつける力を持っている。
しかし、少なくとも私にとってそれらはゲームの核心ではない。
キャラクターが魅力的であることと、ゲームが面白いことは必ずしも同じではないからだ。ゲームの楽しさはプレイヤーの行為そのものから生まれる。操作し、考え、試行錯誤する過程の中にこそあると、私は考えている。
だからこそ、キャラクターや演出がどれほど優れていてもゲームの構造自体が浅ければ長く遊び続けたいとは思えない。むしろそれは「ゲーム」というより、「コンテンツ消費」に近い体験に感じられてしまう。

私がスマホゲームを好まないのは、突き詰めるとこういう疑問を抱いてしまうからだ。
プレイヤーがほしいものと、ゲーム側が与えてくれるものがずれている。
そもそも、これは本当にゲームである必要があるのだろうか、と。
スマホゲームの制約、構造的問題
とはいえ、ここで誤解してほしくないのは、多くのスマホゲームが浅い構造になっているのは開発者が怠けているからでも、意地悪をしているからでもないということだ。
そういった個人的な不満は必然的な歪みに近い。現在のスマホゲームを支えているビジネスモデルを前提にすると、ある程度はしかたがない・・・・・・生まれてしまう構造でもあるのだ。
まず大前提として認識しておくべきなのは、スマホゲームは「ゲーム」であると同時に「サービス」でもあるという点だ。これを理解しないまま議論すると永遠にすれ違いが生まれる。
私自身も、これに気づくまではスマホゲームを純粋なゲーム論の文脈で批判していた。だから腑に落ちない感覚がずっとあった。
しかし実際には、スマホゲームはサービスとして継続運営されることを前提に設計されている。その中心にあるのが、いわゆる「基本無料(F2P)」というビジネスモデルだ。
プレイヤーは無料でゲームを始めることができる。その代わりにキャラクターや装備、あるいは便利な要素などは課金する必要があり、それによって収益が発生する仕組みだ。
このモデルでは、ゲームの完成度そのものよりも「どこで課金が発生するか」という設計が極めて重要になる。
一般的な買い切りゲームの場合、プレイヤーはソフトを購入した時点で売上が成立する。つまり、ゲームの価値そのものが商品になる。ゲームが面白ければ面白いほど評価は高まり、それが次の作品の売上にもつながる。
しかし、基本無料のゲームでは事情が少し異なる。
プレイヤーがどれだけゲームを楽しんでいても、それだけでは売上は生まれない。収益が発生するのは、あくまでプレイヤーが課金をしたときだけだ。そのため、設計の中心は自然と「ゲームの深さ」ではなく、「課金に接続する導線」に置かれることになる。
よく「集金体制がエグい」といった批判を見かけるが、これ自体は責められるべきことではない。運営は慈善事業ではなくビジネスとしてゲームを運営している以上、収益を最大化する設計を選ぶのは当然のことだからだ。
ここで生まれるのが、ユーザーと運営の視点の違いだ。
たとえば、ユーザー側から「ゲーム性が浅い」という不満が出たとしよう。しかし運営側から見れば「それの何が問題なのか?」という話になる。
ゲームが成立し、ユーザーが遊び、サービスとして収益が上がっているなら、それは「成功している」と言えるのだ(少なくともビジネスとしては)。
つまり、この問題はどちらが正しいかではなく、立場の違いに過ぎない。極端な話、運営体制がひどく、ゲームの質が低くても、ユーザーが一定数いて収益が上がっているなら「何の問題もない」となるのだ。
ここで争点になるのがゲームの深さと課金構造の関係だ。
多くのゲーマーが好む「深いゲーム」とは、プレイヤー自身の上達によって体験が豊かになっていくタイプのものだ。操作の精度を磨き、戦略を研究し、限られた条件の中で最適なプレイを追求していく。いわば、プレイヤーの技能そのものがゲームの価値になる。
しかし、このタイプの設計は必ずしも課金と相性が良いとは限らない。
プレイヤーの上達によって問題を解決できてしまう場合、キャラクターや装備の性能に依存する必要が小さくなるからだ。つまり、「うまくなればどうにかなる」ゲームでは、課金によって解決する余地が少なくなってしまう。
もちろん、だからといって開発側が意図的にゲームを浅くしているわけではない。ただ、ビジネスとして成立させる以上、収益につながる部分に開発リソースが集中するのは自然なことでもある。
ゲーム性をどれだけ改善しても課金の可能性が高まらないのであれば、先に課金と結びつく要素を強化する。これは合理的な判断だ。
結果として、多くのスマホゲームではプレイヤーの技能よりも「キャラクター」や「収集要素」に価値が置かれやすくなる。だからゲームの進行はプレイヤーの腕前ではなく、手に入れたキャラクターや装備によって大きく左右される。
なぜか?
儲かるからだ。
こうした設計は課金との接続が明確であり、サービスとして安定した運営を可能にする。
つまり、スマホゲームの浅さというのは単なる設計の失敗ではない。むしろ現在のビジネスモデルを前提にしたとき、ある程度は合理的に導かれる帰結でもあるのだ。
ただ・・・・・・そんな構造の中で、ひとつ異様な存在があった。それがゼンレスゾーンゼロだ。
ゼンゼロのゲーム設計の巧みさ
こうした構造を前提にすると、ゼンゼロは少し異質に見えてくる。
本作は単に「よく出来たスマホゲーム」という言葉では収まらない。そのサービス構造の中にありながら、ゲームとしての体験をどう成立させるかという設計に強い意識が向けられている・・・・・・と感じる。
重要なのは、CSのような複雑なシステムをそのまま持ち込んでいるわけではないという点だ。
スマートフォンという環境には、操作系統、画面サイズ、プレイ時間など、どうしても避けられない制約がある。
ゼンゼロはそれらの制約を無理に克服しようとはしていない。むしろ前提として受け入れたうえで、プレイヤーが触れている瞬間の体験・・・・・・操作の気持ちよさ、迷わず遊べる導線設計、画面内の情報整理、そして物語との接続といった部分を徹底的に磨き込んでいる。
結果として生まれているのは、複雑さによる深さではなく、体験密度の高さによる満足感だ。
触れた瞬間に「これは違う」と感じ、遊び続けるほどその設計の意図が見えてくる。その導線の作り方が、この作品を単なるスマホゲーム以上の存在にしている。
以下では、とりわけ印象的だった4つの要素・・・・・・アクション、UI、モーション(モデリング)、そして物語の構造について整理していく。

爽快感あふれるアクション
このゲームにおいて圧倒的に優れている部分といえばこれであり、私がハマった理由も同じ。とにかくバトルが楽しい。本当にこれに尽きる。
システムがよく出来ているとか細かい部分の仕様もそうなのだが、まずもって「動かしていて非常に楽しい」という点を強く推したい。
初見でも何をすればよいのか直感的に分かり、そして確かな手応えと気持ちよさを得られる。そして、一見、そうやってわかりやすさと同居する「浅さ」が無く、やればやるほど奥深さが分かってくるシステムに驚く。
つまり、初心者には「なんとなく自分がめっちゃ上手いと錯覚させる効用」がありながら、ある程度やっていくと「ただボタン連打するだけではない戦略性や立ち回りの柔軟さ」を上級者に提供してくれるバトルデザインになっている。
本来、相反する「簡単さ」と「奥深さ」が奇跡的に共存しているのだ。
入りが易しいゲームというのは得てして底が浅いと捉えられがちだ。「結局、ボタン連打で終わりじゃん」と言われてしまう。
逆に、ゲーム性に富んだシステムにしようものなら、複雑化してしまい、理解するまでのハードルが高いために「これ上手くいってんのか?」と手応えが感じられず、確かな実感が得られる前にユーザーはリタイアしてしまう。
本当はとても戦略性があるし奥深いんだけど、それがユーザーに伝わらなかった・・・・・・あるいは、伝わりにくかったために誤ったイメージが付いてしまったというゲームは珍しくない。『ファイナルファンタジーXIII』などはその最たる例だろう。
基本的に「バトルの戦略性」と「初手の手触り」というのはどうしてもトレードオフになりがちだ。
たとえば『エンド オブ エタニティ』は非常に洗練されたゲームだが、初見でシステムを容易に理解した人はおそらく殆どいないだろう。事実、「つまらない」ではなく「よくわからない」という評価は数多い。
しかし、ゼンゼロはその問題を要素で打破する。
エフェクト、SEによって「なんとなく分かる」「なんとなく気持ち良い」部分を向上(間口がかなり大きい)。そして、単調にならないように様々な工夫が凝らされている(奥まった要素へのアクセスが自然)。この導線が優良だ。
なんとなく動かしてるだけで「自分、ゲーム上手いんじゃね!?」となる感覚は大切だ。インディーゲームだと『HADES』や『Sifu』がそれに強く当てはまる。
難しい操作は要求されず、直感的に動かせて、なおかつ視覚的、聴覚的なレスポンスがとてもリッチだと、仕組みが単純だとしても飽きづらくなる。ゼンゼロのバトルの魅力の根幹はそれらに近い。
たとえばSEやヒットストップ、意図的なフレームのブレ、部分的なブラーなどはそれらが重なることで無意識の「気持ちよさ」を誘発している。
本作は相手への攻撃の対処としてパリィが大切なのだが、これが特に気持ちよく、戦術的に価値がある。
そして、上記の要素は「パリィをしたい」という心理的誘導を果たしているのだ(気持ち良いからもっとやる、が戦略として正しい結果をもたらす)。

本作に「スマホゲームならではの安っぽさ」は皆無だった。
従来、スマホアクションは操作系統の簡略化ゆえに薄味の手触りになりがちであり、実際「動かしていても楽しくない」という作品は多い。まずもって、ボタンをフルに使う骨太なアクションには物理的な問題があると思っていた。
端末性能の差、熱での入力遅延、指で画面の視認性が奪われる物理制約・・・・・・これらをゲームデザインで補正している点が価値の根拠になる。
ゼンゼロは、入力の簡便さを保ったまま、CSに近い重みと切れ味を実現している。安さ、軽さではなく、快感を最短距離で届けるための簡潔さがそこにある。
では、何が優れているのだろう?
その根源は「価値観の最大化」にある。
ゼンゼロは単に操作を簡略化したのではなく、プレイヤーが入力した行為の価値を最大化するように出力側を徹底的に作り込んだ。
一撃ごとの演出、当たり判定の強弱、敵のリアクションの設計に至るまで、「押した1回」を何倍にも膨らませる思想で統一されている。そのため、操作が簡単でも体験は薄くならず、むしろ1アクション=1快感という関係が強く成立しているのだ。
入力と出力の設計思想は根本から異なる。
従来のスマホアクションは「複雑な操作を削る」方向で最適化されてきた。その結果、難しさが減る=体験の密度も薄まるというトレードオフが避けられなかった。
しかしゼンゼロは、物理的な限界はそのままに、数少ない選択肢で得られる快感を増幅した。無いからこそ、それぞれに注力したのだ。
CSではボタン数とアクションの多様性が快感の源泉となるが、スマホではその構造を物理的に再現できない。ならば、それは求めない。
そこでゼンゼロは、選択肢の多さではなく1つのアクションが生む手応えそのものを最大化する設計に振り切った。結果として、操作の簡略さが「快感の貧しさ」につながらず、むしろ「簡単でも濃い体験」が成立している。
ゼンゼロのアクションの方程式は非常に単純で、しかし強力なものだ。
少ない入力 × 高い快楽密度=濃いゲーム体験
押すボタンが少ないからつまらない・・・・・・それは結局、デザインの問題だった。制約を前提に磨き上げたのが、ゼンゼロのゲームフィール設計だ。
徹底して作り込まれたUI
UI設計において最も重要なのは、美しさよりも機能性だ。
もちろん、美しくて使いやすいUIが理想。しかし現実には「美しいけれど死ぬほど使いにくい」というUIが非常に多い。逆に「美しくないけれど使いやすい」というものもそれほど多くない。
特にスマホゲームでは、UIが「後付け」になりがちだ。
開発の優先度はどうしてもバトルやガチャといった主役の要素に集中する。その結果、画面設計は後回しになり、ユーザーは謎の画面遷移を経由して目的の機能にたどり着くことになる。
悲しいことに、現実問題として「UIは最後に整えるもの」という風潮は事実だ。
さて、私が強烈に記憶しているUIと言えば『ペルソナ5』だ。あの作品は、直感的な分かりやすさと視覚的な美しさ、そして作品世界との調和が極めて高いレベルで成立していた。機能性と演出が完全に一体化した、いわば機能美の極致と言っていい。

ゼンゼロのUIは方向性としてそれにかなり近い。
見た目の派手さだけではなく、触っていて迷わない機能性も担保されている・・・・・・情報は多いのに、何をすればいいか自然に分かる。このバランスが非常に優れている。

特に印象的なのは、階層設計の明瞭さだ。
つまり、「あれはどこにあるんだっけ?」という迷いがほとんど発生しない。慣れてからではなく、初期段階から迷わない。これはUI設計としてかなり難しいことだ。
また、画面は全体的にリッチな表現になっているが、情報の優先順位が明確なので操作を見失わない点も強く評価したい。
派手なUIは情報量が増えがちだが、全体が同じ強度で主張すると逆に何も見えなくなる。これが「美しいけれど使いにくいUI」の正体だ。
しかしゼンゼロでは、自分が操作できる部分や現在の行動に関係する情報が自然に強調されている。そのため、画面が賑やかでも迷いが生まれない。
| UI観点 | 一般スマホゲーム | ゼンゼロ |
|---|---|---|
| 階層設計 | 情報を詰め込む | 行動動線を最短化 |
| 情報提示 | ゴチャつきやすい | 優先情報を明確化 |
| 視覚設計 | 賑やかさ重視 | 視線誘導を設計 |
| 世界観 | UIだけ浮く | UIが世界の一部 |
さらに重要なのは、このUIが全体として統一されていることだ。ここは専門領域でもあるので少し説明したい。
大規模なゲーム開発では、基本的に要素は「浮く」。なぜなら、各担当がそれぞれの最適化を進めるからだ。
- UI担当は「操作しやすさ」を重視する
- 演出担当は「画面の盛り」を重視する
- バトル担当は「気持ちよさ」を重視する
それぞれは正しい。しかし、それらが合わさると方向性がズレる。これがプロダクトにおいて要素が浮く原因になる。
原因は単純で、開発規模の拡大と専門分化だ。人数が増えるほど、意思統一と品質管理の難易度は指数的に上がる。
この規模感はゼンゼロも例外ではない。初期は十数人だったチームが、現在では400人以上の規模で開発されていると言われている以上、齟齬が発生してもおかしくないだろう。
だからこそ、UIがここまで統一されているのは驚異的なのだ。
- UIからバトルへの動線が自然に繋がる
- 視線誘導と世界観表現が一致している
- インタラクトが常にゲーム体験の延長になっている
つまり、単なるパーツの集合ではなく、1つの思想で設計されたプロダクトになっている。
部分最適ではなく全体最適。それを成立させるには、各領域の完成度だけでなく設計思想の共有が必要になる。そして、ゼンゼロのUIはその条件が高いレベルで満たされている。
整理すると、このゲームのUIには次の特徴がある。
- 起点となる操作が常に明確→行動導線が散らない
- 情報の階層が崩れない→優先順位が明確
- UIが主張しすぎない→体験の主役はあくまでプレイそのもの
つまりゼンゼロのUIは「機能」ではなく、ゲーム体験の一部として設計されているのだ。
躍動感のあるモーション

モデリングの良さだけなら最近のゲームでは珍しくない。ゼンゼロで特に印象的なのは、モーションだ。
これも前述したアクションの気持ちよさにつながる部分なのだが、とにかくキャラクターの動きが細かく、そしてよく動く。待機中の仕草や探索エリアでの立ち振る舞いもそうだが、ここでは特にイベントシーン(ムービーシーン)に注目したい。
ゼンゼロのムービーは、ディズニー作品のように大げさなほどキャラクターが動く。のけぞり、身を乗り出し、カメラアングルと合わせて画面を縦横無尽に動き回る。これが非常に気持ちいい。
ここ数十年、ゲーム表現は「リアルさ」を追求してきた。
それ自体はもちろん素晴らしいことで、『アンチャーテッド』の映画的体験や、『バトルフィールド1』における戦場の臨場感、『The Last of Us』のドラマ性など、リアル表現がもたらした成果は計り知れない。
ただ、それ一辺倒になると少し息苦しくもある。
現実ではありえない誇張された動きや、アニメ的な表現もまたゲームの魅力だ。空想の世界なのだから、現実ではありえない動きをしてもいい。むしろ、その自由さこそがゲームの強みでもある。
ゼンゼロはその点を非常にうまく理解している。
キャラクターは画面の中で大きく動き、時にコミカルなほどのリアクションを見せる。その様子を見ていると、「こういうのでいいんだよ」と思わず感じてしまう。
しかしこのモーションの良さは、単にアニメーションが豪華という話ではない。
重要なのは、動かすべき瞬間を選んでいることだ。
ムービー制作は基本的にコストが高い。そのため多くのスマホゲームでは、紙芝居形式や簡易的な演出で処理されることが多い。しかしそれでは「好きなキャラクターがかっこよく動くところを見たい」という欲求には応えられない。
ゼンゼロはこの問題を、量ではなく密度で解決している。
本作のムービーは、すべての場面を豪華にするわけではない。その代わり「動かす価値のある瞬間」だけを選び、そこに演出とモーションを集中させている。
つまり、動きそのものが情報になっている。
動きを見せるためのカメラワークやカットの切り替えも、「気持ちいい瞬間」に合わせて設計されている。これは単なる映像演出ではなく、プレイヤー体験の一部として組み込まれたモーション設計と言える。
- 一般的なスマホゲーム
-
- ムービーは量で価値を示そうとする
- あるいはそもそも演出が少ない
- 結果として印象が薄くなる
- ゼンゼロ
-
- 動かす瞬間を厳選する
- そこに演技密度を集中投資
- 短尺でも強い印象を残す
なぜ密度が高いとUXが良くなるのか。
理由は単純で、人間は「視覚情報量」ではなく「変化量」を記憶するからだ。
刀の血を払う指先の動き、構えた瞬間の目線、走り出すときの姿勢・・・・・・こうした小さな動きは強く記憶に残る。
事実、バトルにおいてもキャラの情緒あふれるモーションは印象深い。フィニッシュでの硬直を前提とした、アンビーの強化昇竜拳における姿勢は美しさすらある。

スマホという環境では、長いイベントシーンを集中して見る状況はあまり多くない。だからこそ短い時間でも理解でき、印象に残る演出が重要になる。
ゼンゼロはこの制約を弱点として扱うのではなく、演出思想として再定義している。
制約を受け入れたうえで、最も効果の高い瞬間にリソースを集中する・・・・・・その結果、映像の量ではなく「印象の強さ」で勝つ構造が成立しているのだ。
| 比較点 | 一般スマホゲーム | ゼンゼロ |
|---|---|---|
| 演出思想 | 量で補う | 密度で勝つ |
| 投資対象 | 時間と尺 | 瞬間と重要動作 |
| UIとの整合 | 別要素 | 体験として連続 |
| 記憶効果 | 薄く拡散 | 点で刺さる |
映像を量ではなく密度で成立させる。その結果、工数制約がクオリティの足枷になるどころか、「ここぞ」の瞬間が強烈に刻まれる。
これはスマホゲームにありがちな「安っぽい演出」という印象を真正面から覆す設計と言ってもいいだろう。
ゲームと連動した物語
ゲームにおけるストーリーは、私にとって「始める理由」ではなく「続ける理由」だ。これまでプレイしてきたゲームの中で、「ストーリーが面白そうだから始めた」という経験はほとんどない(ADVは別として)。
なぜなら、私はゲームがしたいからだ。見せ場がストーリーだけならそれは別にゲームである必要はない。
仮に、ストーリーが電波じみた構成でも、ゲーム部分が抜群に面白ければ私はその作品を高く評価すると思う。もちろん感想として「ストーリーは意味不明」と書くかもしれないが、それは評価の中心にはならない。
フロム・ソフトウェアの作品はまさにそのタイプだ。
たとえば『Bloodborne』。私は本作が大好きで、トロコンまで遊び、血晶も掘り、本編を何周もしている。しかしストーリーは正直ほとんど理解していないし、特に調べようとも思わなかった。
それを求めて遊んでいるわけではないからだ。どうでもいいまである。
そして、ゼンゼロも最初はストーリーに期待していなかった。むしろ印象はマイナススタートで、かなり悪かったと言っていい。
というのも、原神が合わず、崩壊スターレイルに至っては開始数分で眠くなったという前例があるからだ。そういう経験があると、「どうせ今回も同じだろう」と思うのは自然なことだろう。
しかし結果として、その印象は大きく裏切られた。
1章は正直なところ可もなく不可もなく、いわゆる「普通の導入」という印象だった。だが2章以降は一気に引き込まれ、特にラストでは思わず涙ぐみそうになるほど物語に入り込んでいた。
各エージェントのサブストーリーも面白く、もともと好きだったキャラクターはさらに好きになり、あまり興味のなかったキャラクターにも愛着が湧いてくる。
そして3章。本編で張られていた伏線の回収や、今後の展開を示唆する要素が次々と現れ、ひとつの区切りとして満足できる終わり方をしながら、同時に「この先が気になる」という状態で締めくくられる。私は特にカリン・ウィクスが好きなので、活躍の場が多かった3章はとても満足。

さて、続けられた理由はもちろんゲームとしての面白さが寄与している。ただ、その体験を支えていたのは間違いなく物語でもあった。
では、miHoYoの他作品と何が違ったのか。
一番大きいのは「入り込みやすさ」だ。
もちろん本作にも専門用語や独自の世界観は存在する。しかし、それらは完全に理解できなくても雰囲気で把握できる程度に整理されている。そして何より、物語の導入が普遍的な感情から始まっている。
プレイヤーは最初から世界観の外側に立たされるのではなく、自然とその中に巻き込まれていく。
崩壊スターレイルの場合、どうしても「外野感」が強かった(少なくとも序盤は)。物語の中心で何かが起きていても、それが自分の問題として感じられない。緊迫した状況でも、どこか他人事のように見えてしまう。
ゼンゼロはそこが違う。
キャラクターとプレイヤーの感情の距離が近く、物語の状況に自然と共感できる構造になっている。
| 体験構造 | 崩壊スターレイル | ゼンゼロ |
|---|---|---|
| 主人公の立場 | 異世界からの来訪者 | 街の住民としての当事者 |
| 課題との距離 | 物語の外側 | 日常の延長で巻き込まれる |
| 感情設計 | 説明中心 | 共感から始まる |
ただし、ここで言いたいのは、「ゼンゼロはストーリーが良いからすごい」という話ではない。主旨は、ストーリー「も」機能しているという点にある。
多くのスマホゲームでは、ゲームと物語が分離している。
- ストーリー=主役
- ゲームパート=物語を進めるための義務時間
- 戦闘=作業
そのため、イベントは鑑賞コンテンツになり、プレイヤーは受動的にならざるを得ない。
そもそも「ストーリーが良い」というだけでは、ゲームとしての差別化にはならない。ゲームはあくまでプレイ体験が主体であり、物語はその没入を補助する役割に過ぎないからだ。
しかしスマホゲームという条件下では技術的制約や運営構造の関係もあり、自由には振る舞えない。それによってゲーム部分が古典的なコマンドバトルや自動戦闘に留まり、物語やキャラクターが中心になるケースが多い。
私がスマホゲームに抱いていた偏見も、まさにそこにあった。
ところがゼンゼロでは、ゲームと物語の関係が逆転している。
バトルの手応えがキャラクターへの愛着を生み、キャラクターの物語が感情を強め、その結果またバトルをしたくなる。
体験は次のような循環を作る。
- バトル:手応え→キャラクターへの愛着
- 物語:感情の増幅→操作意欲
- そして次のバトルへ
つまり、ゲームが良いから物語が刺さる、という双方向の循環が成立している。
ゲームか物語か、ではない。その両方が連動しているのだ。

打破できないお約束
ここまで優れた点を見てきたが、本作はあくまでスマホゲームだ。つまり、どれだけゲーム体験を磨き込んでもこのジャンル特有の構造から完全に自由になることはできない。
ゼンゼロはその枠組みの中で可能な限りゲーム体験を高めている作品だが、それでもなお業界共通の「お約束」からは完全には逃れられていないのが実情。
本作は基本無料というサービスモデルの上に成立している。そのため、ゲームデザインよりも運営設計が優先される場面がどうしても存在する。
重要なのは、これを単なる不満として語ることではない。むしろスマホゲームという構造の中では、なぜこうした要素が生まれてしまうのかを整理することに意味がある。
以下では、ゲーム体験を制約している代表的なポイントを構造的な観点から見ていく。
基本的に盆栽ゲー
ゼンゼロをプレイしていて、最も強く感じたスマホゲーム特有の制約が「スタミナ制」だ。
普段こういったものを遊んでいる人にとっては当たり前の仕様だろう。しかし私のように、基本的にCSやPCを中心に遊んできたプレイヤーにとってこの仕組みはかなり強い違和感を伴う。
理由は単純で、プレイを続けたくてもできないからだ。
たとえば、普通の買い切りゲームでは、素材集めでも育成でもプレイヤーが望む限りプレイを続けることができる。ゲームを中断する理由も、基本的にはプレイヤー自身の疲労や都合だ。
しかしスマホゲームでは事情が異なる。スタミナというリソースが尽きた瞬間、プレイヤーの意思とは関係なくプレイが終了する。
やりたいことがあり、コンテンツも存在する・・・・・・それでもシステムがそれを許さない。それ以上遊ぶことができない。
この「やりたいのに出来ない」という状態は、ゲーム体験としてかなり強いストレスになる。
もちろん、この仕組みが存在する理由は理解できる。
もしスタミナ制が存在しなければ、熱量の高いプレイヤーは短期間でゲームを遊び尽くしてしまう。運営型ゲームとして長期運営を考えるなら、プレイペースをコントロールする仕組みが必要だ。
つまりスタミナ制は、ある意味でサービス運営のための安全装置でもある。
しかしそれでも、プレイヤー視点では問題が残る。
たとえばディスク厳選を進めようとしても、その前提となるディスク収集にスタミナが必要なわけで。しかもこれは数回で終わるような作業ではなく、何度も周回することでようやく成果が見えてくるタイプのコンテンツだ。
つまり「周回を前提にした設計なのに周回できない」という矛盾が生まれている。
零号ホロウのように、スタミナを消費せず何度でも遊べるコンテンツも存在する。しかしこれも報酬効率の良い期間を過ぎると急激に価値が下がり、実質的にはスタミナ回復を待つしかない状態になってしまう。
この仕組みはプレイヤーのタイプによって受け取り方が大きく変わる。
| 区分 | 周回勢(ヘビープレイヤー) | 日課勢(ライトプレイヤー) |
|---|---|---|
| プレイ動機 | 育成や厳選を進めたい | 毎日のタスクを消化したい |
| 欲しい体験 | 長時間プレイ | 短時間の満足 |
| ボトルネック | スタミナで強制終了 | コンテンツ枯渇 |
| 不満 | 意欲が遮断される | 単調化 |
つまりこの構造では、やり込み層は「遊べないストレス」を感じ、ライト層は「日課化による飽き」を感じやすく、プレイヤー人口の両極が異なる理由で減速してしまう。
これは単純な調整不足というより、スマホゲームの運営モデルそのものが抱えるジレンマと言える。
いわゆる「盆栽ゲー」と呼ばれる構造だ。毎日少しずつ手入れをして育てていくゲームであり、一気に遊び尽くすことは想定されていない。
ただ、個人的にはもう少し余地があってもいいとは感じた。
たとえばバッテリーの入手機会を増やす、あるいは長時間プレイを望むプレイヤーに対して「努力でプレイ時間を延ばせる仕組み」を用意するなどだ。
例としては、零号ホロウの週ポイントとは別に無限ポイントを用意し、一定量集めることでバッテリーと交換できるようにする、といった形でもよいだろう。
対人要素が存在しない以上、プレイ時間の差がゲームバランスを崩す可能性は比較的小さい。「やりたい人はもっと遊べる」という選択肢があってもいいのではないか。
あるいは単純に、周回前提のコンテンツのスタミナ消費量を調整する方法もある。
模擬実践が100なのはまだ納得できるが、ディスク厳選の消費量はやや重く感じる。最大スタミナ300という前提を考えると、全体的に要求量が少し高い印象がある。
周回コンテンツである以上、もう少しプレイヤーの試行回数を許容する設計でもよかったのではないだろうか。
探索ミッションというズレた要素

ゼンゼロの数少ない不満点として挙げたいのが探索ミッションの存在だ。これは明確にゲーム全体の体験設計とズレていると感じた。
ゼンゼロの魅力の中心は、間違いなくバトルにある。操作の気持ちよさ、テンポの良さ、キャラクターのアクション性。プレイヤーがこのゲームに期待している体験は基本的にそこに集中している。
しかし探索ミッションはその体験の流れをしばしば遮断してしまう。
UXの観点から整理すると、これは期待体験と実装体験のミスマッチだ。
| 観点 | 理想 | 現実 |
|---|---|---|
| 役割 | バトル体験へ繋ぐブリッジ | バトル体験を一時停止する |
| 変化量 | 次の戦闘への期待を高める | 待たされる印象が蓄積する |
| プレイヤー状態 | 能動→継続意欲 | 受動→離脱衝動 |
| 介入量 | 最小手数 | 過剰手数 |
良い探索はバトルへの前進を作る。しかし現状のゼンゼロでは、探索がバトルへの停滞になっている。
特に問題なのはテンポだ。
探索中には細かなイベントやギミックが頻繁に挟まる。だが、それらの多くはゲーム的な判断を要求するものではなく、単に進行を遅らせる要素として機能してしまっている。
たとえば3章の電気を点けるギミックや幽霊から逃げるイベントなどは、少なくとも私にとっては「面倒な作業」という印象が強かった。やがて、探索ミッションというだけで構えてしまうほど、だんだんと負担感が増していった。
ただし、最初から否定的だったわけではない。むしろ最初は好意的だった。
広大なフィールドを歩き回る探索よりも、デフォルメされたボード形式の探索はコンパクトで、バトルの合間の休憩として機能するのではないかと思っていたからだ。
しかしプレイを重ねるにつれ、この仕組みは徐々にストレスへと変わっていった。結果としてアンケートで改善要望を書くほどに不満を感じるようになった。
ここでしたいのは、「私が嫌いだから消してほしい」という話ではない。
問題は、ゲームの強みをこの要素が自ら削ってしまっている点だ。
バトルが圧倒的に面白いゲームなのに、その体験に到達するまでの導線が遠回りになってしまっている。これは純粋にもったいない。
似た事例として思い出すのが、『ディシディア ファイナルファンタジー』だ。

本作のストーリーモードは非常にシンプルな探索構造をしていた。チェスのようなボード上にキャラクターや敵、アイテムが配置されているだけで、プレイヤーは移動して戦うだけ。
探索としてはほとんど何もしていないに等しいが、それでも評価は高かった。理由は単純で、ゲームの主役であるバトルを邪魔しなかったからだ。
しかし続編では探索要素が強化され、広いフィールドを移動する形式に変わった。結果として「余計な要素が増えた」という評価になり、初代のシンプルな構造の方が好まれていた。
これはつまり、力を入れるべき場所が違ったという話だ。
ゼンゼロの探索ミッションも、同じ問題を抱えているように感じる。探索を充実させること自体が悪いわけではない。しかしプレイヤーがこのゲームに求めている体験は、おそらくそこではない。
このゲームの中心はバトルだ。ならば探索は、その体験を支える最小限の役割で十分ではないだろうか。
おそらくゼンゼロが好きなプレイヤーの多くは、「もっとすごろくを遊びたい」と思っているわけではない。それよりも、バトルの比重を高めた方が満足度は高くなるはずだ。
探索を凝るよりも、むしろシンプルにする。その方が、このゲームの強みはより際立つのではないかと思う。
挑戦機会の閉じたガチャ
これもスタミナ制と同様、スマホゲームに慣れているかどうかで評価が大きく分かれる部分だと思う。
私は以前から、スマホゲームのガチャ依存型バランスには疑問を感じていた。そしてゼンゼロをやり込んでみて、その歪さをあらためて実感することになった。
ただしここで言いたいのは、「お金がかかるから問題だ」という話ではない。問題は、プレイ開始のタイミングによって挑戦機会に大きな差が生まれてしまうことだ。
私はサービス開始当初からプレイしていたため、運よく限定キャラクターであるエレンや朱鳶を入手できた。しかし今からゲームを始めるプレイヤーは、これらのキャラクターを当面入手する手段がほとんどない。
復刻が来るとしてもおそらく半年から1年後。つまり、たった数日の差で、重要な戦力へのアクセスが長期間閉ざされる可能性がある。これはゲーム体験としてどうなのだろうか、と感じる。
こういったゲームはキャラクター性能の影響がかなり大きく、単純に「他のキャラで代用する」という形で解決できるケースが少ない。強いキャラは強いだけでなく、使う楽しさも段違いだ。
ここで違和感が生まれる。ゼンゼロのアクション部分はCSに近い品質を持っている。しかし進行設計の部分だけは、典型的なスマホゲームの構造をそのまま引き継いでいる。
つまり、体験レイヤーの断絶が起きているのだ。
| 観点 | PC、CSモデル | スマホ標準ガチャ |
|---|---|---|
| 戦力獲得 | 実力、進行 | 期間限定 |
| 追いつき設計 | プレイで補完可能 | 基本的に不可 |
| 体験の公平性 | 開始時期の差が小さい | 開始時期で固定 |
勘違いしてほしくないのだが、課金によって強いキャラクターを手に入れる構造自体を否定するつもりはない。ビジネスである以上、妥当だとすら思う。
お金を出した人が有利になるのは、ある意味で自然なことだ。開発にも運営にもコストがかかる以上、魅力的なキャラクターで収益を上げる仕組みは合理的と言える。
論点はそこではない。「挑戦機会そのものが閉じてしまうこと」こそ本質的な問題だ。
たとえば、限定キャラクターを逃した場合でも膨大な時間や労力をかければ入手できる道がある、あるいは低確率で恒常ガチャに追加される・・・・・・そういった「非常に遠回りな救済の道」が存在するだけでも、プレイヤー体験の印象はかなり変わるはずだ。
確かに「限定」である以上、入手機会が限られること自体は納得できる。しかし一定の期間を逃したら次のタイミングが長期間訪れないという設計は、やはり少し極端に感じる。
ただ、これは文化的な慣れの問題でもあるのだろう。
スマホゲームに慣れているプレイヤーには、この仕組みは当然のものとして受け入れられている。しかし私のような立場からすると、どうしても違和感が残ってしまうのだ。
再三言うが私はガチャという仕組み自体を完全に否定するつもりはない。ただ、それがゲーム体験の入口を狭めてしまうなら、本来の魅力を損なう可能性もあるのでは、ということだ。
言いたいのはこれだけだ。必要なのは強いキャラクターではなく、公平な挑戦機会の設計だったのではないだろうか、と。
要求事項の歪な高難度

バトルを評価しているものの、エンドコンテンツに近づくにつれて、その印象は少し変わってくる。
通常のバトルは非常にテンポが良く、操作の気持ちよさと判断の速さがそのまま手応えにつながる設計になっている。しかし高難度バトルになると、その構造がやや崩れてしまうのだ。
特に激変ノードの後半(激変7など)では敵の耐久力が極端に高くなる。そもそもレベル差が20近くあるため、プレイヤー側は様々なバフや最適な編成を前提に戦うことになる。ただ、これ自体は高難度コンテンツとして自然な設計だ。
問題は、突破に必要なのがプレイヤースキルではなく育成状況になりやすいことにある。
一般的なアクションゲームでは、高難度に挑む場合、プレイヤーの操作精度、敵行動の理解、戦術の習熟といった要素が攻略の鍵になる。
つまり「うまくなればクリアできる」という構造、前提がある。自分が回避できなかったから、コンボをミスったから・・・・・・そういう「プレイヤーの責任としての敗北」が存在する。
しかしゼンゼロの高難度は、どちらかと言えば「必要なリソースを投入すればクリアできる」という傾向が強い。
つまりこれはスキルチェックではなく、ギアチェックだ。そこにプレイヤーの腕前というのはそこまで大きく考慮されない。
これはある意味で、下手でもどうにかなるという救済措置だろう。しかし逆を言えば、プレイヤーが上手くてもギアが足りてないなら門前払いされる虚無だ。課金が戦術の幅ではなく、クリアの条件になっているとまで考えられる。
また、敵の強さがパターンの複雑さや攻撃の読み合いによって生まれているわけではなく、単純にHPや耐性が高いなどの数値面オンリーで、長時間戦う必要があるケースが多い。
たとえば多くのエンドボスはブレイク耐性が非常に高く、ブレイク状態の持続時間も短い。これまでの戦闘で有効だった「撃破によるブレイク戦術」が成立しにくくなり、結果として長時間の削り合いになりやすい。
戦術の変化としては面白い試みではある。しかしその一方で、中途半端な育成状況ではダメージが通らず、戦闘がただ長引くだけだ。
そのため、まずキャラクターの育成、ディスク厳選、音動機などのリソースを十分に揃える必要がある。言い換えれば、戦うための「入場券」を用意することが先に求められる。
打破に必要なのは最低限の戦術と膨大なリソース。これは私の嗜好とは真逆を行くものだ。レベルを上げなくては勝てないという、創意工夫を排除した攻略のの何が楽しいのだろう。
さらに歪な部分が重なる。
前述の通り、このゲームではスタミナ制限によって育成の速度も制御されている。そのため、プレイヤーが努力したいと思っても、思うように準備を進められない。この構造は非常にチグハグだ。
| 要素 | ゼンゼロの強み | 高難度で起きていること |
|---|---|---|
| アクション体験 | 素早い判断と強い手応え | 長時間の消耗戦 |
| 戦術設計 | 編成と操作で突破 | 育成差による突破 |
| 成功体験 | 「やれた!」という達成感 | 「やっと終わった」という疲労感 |
戦術を磨く楽しさがあるゲームなのに、高難度になるほど「数値差を耐えるゲーム」に戻ってしまう。ここに体験上の断絶がある。
実際、激変ノードの後半をSクリアしたときの印象は、達成感よりも「ようやく終わった」という疲労感の方が強かった。
敵が強いこと自体に文句があるわけではない。理不尽な挙動が多いわけでもないし、基本的なバトル設計はしっかりしている。
ただ、敵の強さ(提示される課題)に対してプレイヤー側が取れる手段が限られているのが違和感の根源だ。
より良いディスクや音動機があれば楽になるのは分かる。しかし、そのための周回すら思うようにできない。
結局のところ、感じている不満は「必要な準備は分かっている。ならば、それをやらせてほしい」という当たり前の構造に由来する。
今の高難度コンテンツは、プレイヤーの熟練ではなく育成状況のチェックとして機能してしまっている。これを「仕方ない」と流すには難しい。
あるもので戦う設計倫理

ここまで様々な点を見てきたが、結論としてゼンレスゾーンゼロは非常に優れたゲームだと思う。
もちろん、スタミナ制やガチャ構造、高難度設計など、スマホゲーム特有の問題を完全に解決しているわけではない。しかしそれでも本作が特別に感じられるのは、スマホゲームという環境に付きまとう制約をそのまま受け入れてしまわなかった点にある。
「できないこと」を嘆かなかった。これがゼンゼロの魅力だろう。
多くのスマホゲームは、CSに比べて出来ることが少ない。操作体系、プレイ時間、端末性能、運営構造。あらゆる面で制約が存在する。
その結果、ゲーム体験はどうしても「簡略化されたもの」になりがちだった。
しかしゼンゼロは反逆に意思を見せる。「スマホゲーなんだからこの程度でもしょうがない」と、その発想を取らなかった。
できないことをやらない代わりに、できることの価値を最大化するという設計を徹底。それが強みとして明確化した。
| 認識(偏見) | 一般的なスマホゲーム | ゼンゼロ |
|---|---|---|
| アクションは浅い | 操作簡略化→体験希薄 | 少入力 × 高快感密度 |
| UIは雑 | 部署単位の部分最適 | 体験単位の統合設計 |
| 演出は弱い | 量で補う | 瞬間密度で印象最大化 |
| ストーリー頼み | 「読むゲーム」化 | ゲーム→物語の循環 |
本作はスマホゲームに付きまとう制約を回避しようとはしていない。むしろその制約を前提にしたうえで、最も効果の高い部分にリソースを集中している。
操作は増やさない。要素もむやみに増やさない。その代わり、プレイヤーが触れている瞬間の体験だけを徹底的に磨く。
これは単なる品質向上ではなく、設計思想の転換と言っていい。
Amazon創業者ジェフ・ベゾスは「発明とは既存の常識を疑うことから始まる」と語っている。技術的な進歩ではなく、設計の前提を疑うことが価値を生むという考え方だ。
ゼンゼロが行ったのも、まさにそれに近い。
スマホゲームだからできないのではない。スマホゲームだからこそ、最短距離で快感を届ける設計を選ぶ。制約を前提に設計を突き詰めた。
できないことを減らすのではなく、できることの価値を最大化する。この思想が、ゼンゼロというゲームを際立たせている。
これは同時に、「スマホゲームとはこういうものだ」という長年の思い込みを揺さぶるものでもある。
ゼンゼロはスマホゲームの限界を押し広げたわけではない。それはある意味単純で、「限界だと思われていたもの」の見方を変えただけだ。
この設計思想がどこまで広がるのか。その答えは、これからのゲームが示していくことになるだろう。
基本無料が有料を食う世界

このゲームに出会えてよかった。
この記事で言いたいことは、結局この一言に尽きる。いろいろと理屈を並べてきたが、総括すれば「面白かった」「最高だった」「このゲームを遊べてよかった」という感想になる。
趣味として長くゲームを遊んでいると、だんだん新鮮味というものが薄れてくる。「これ、どこかで見たな」「あのゲームを意識してそうだ」・・・・・・そんなふうに、既存の体験の延長線上でゲームを見るようになる。
それでも、どこかで期待してしまう。これまで出会ってきた「神ゲー」の体験をもう一度味わえるのではないかと。
そして、ゼンレスゾーンゼロはまさしくその感覚を思い出させてくれたゲームだった。
しかし本作が私に与えた影響は、単に「面白いゲームだった」という感想だけではない。それ以上に大きかったのは、自分の偏見に気づかされたことだ。
私はこれまで、「所詮スマホゲームだし」という意識をどこかで持っていた。スマホゲームという看板そのものが、ある種の品質の下限を示しているように感じていたのだ。
しかしゼンゼロをプレイしたことで、その認識は完全に崩れた。
スマホゲームでもここまでできる・・・・・・そう思えたことは、私にとってかなり大きな発見だった。今後、少なくとも「スマホゲーム」という言葉だけで作品を判断することはなくなるだろう。
偏見というものは、たいてい自覚の外側にある。知らないうちに世界を狭め、選択肢を減らしている。
さらに厄介なのは、偏見を壊そうとして手に取ったものさえ、結局その偏見の枠組みの中で評価してしまうことがある点だ。
その一段上の理解に進むにはどうすればいいのか。
結局のところ、まったく異なる質の体験に出会うしかないのだと思う。
本当に求めているものは、事前には言語化できない。しかし触れた瞬間、「これだったのか」と理解する。そういう衝撃が、人の認識を更新する。
ゼンゼロをプレイしたのは、単に無料だったからだ。期待値も高くなかった。「無料なら試してみるか」という程度だった。
だが、その軽いきっかけが、自分の偏見を更新する体験につながった。なんとなく手に取ったものが、新しい世界の扉になることがある。ゼンゼロは、まさにその扉だった。
これはいわば、CSは完成品市場で、F2Pは実験市場でもあるという示唆を生む。
もう今では私の中で、「スマホゲーム」という言葉はもう「低品質」の同義語ではない。可能性の塊、そう見ても良いぐらいだ。
進化は止まらない。「こういうものだろう」という思い込みは、挑戦によって何度でも書き換えられる。
かつて「基本無料」は廉価版の象徴だった。しかし今は違う。基本無料は、未来のゲームを試す場所になりつつある。
スマホゲームの世界は、疑う段階から更新を信じる段階に入っているのかもしれない。
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