高校時代と言えばひどいもので、模試と試験のときにしか出席せず、点数がいいから見逃されてたエリート不登校だった。そんなわけで出席日数稼ぎの授業中もただただ暇で、あれこれ妄想していたのを覚えている。
そんなある日、「終わりのないWebサイトは存在し得るか」というものが頭をよぎった。
終わりがないという事象は設計できないのか?
当時行っていたこの思考実験が、実はこのサイトの原型になっている。
さて今回は、どういう経緯で回遊型UXが生まれたのか、そしてどういう風に設計されたのか、その思想と実務をまとめる。
AIと共同して成すWebの思想建築・・・・・・その始まりとこれまで、そして「これから」の考察をエンタメとして楽しんでいただければと思う。
終わらない暇つぶしはあるか?
暇つぶしというものに飢えていた。
学生というのは、時間はあるけどお金がなく、やりたいことがあるのにお金の問題で制限がかかるという存在だと思う。そんなわけでもっぱら中古屋で本やゲームを買って楽しんでいた。
だがやはり、今も同じく無料で無限に楽しめるものと言えばネットだ。
本やゲームには終わりがあるし、そして何より「人の作った庭」という行き詰まりを感じてしまう。もちろんネットにも「檻」はあるが、それでも自由だ。桁違いの自由度がそこにある(非同期性、双方向性などの構造差)。
私が特に好きだったのはウィキペディアだ。
単語から単語がつながるハイパーリンク構造で、今もこれだけで1日を潰せる。もともと百科事典とか図鑑が大好きだったのだが、それらには情報の連続性がないという不満があった。そこをある程度解消したウィキペディアを初めて触ったとき、随分と感動したものだ。
くわえて人のブログなども読むのが好きだったのだが、結局、同じ不満にたどり着く。それは、Webという構造が避けられない終焉。記事の末尾という線形構造の終点だった。
いくら膨大な記事があっても、どこかで途切れる。
記事が記事に自然につながるものは存在しないのか?ずっと読んでいられる構造のWebはないのか?
そんな不満がすべての発端だったと思う。
なぜWebは終わるのか?
実は、この問いはかなり本質的なものになる。というのも、本来HTMLやUIは「完結を単位とする構造で生まれた」のだ。ゆえに私の疑問は「なぜ人は死ぬの?」というものに近い。根本ルールへの疑義になる。
たとえばHTMLには <head> や <body> というタグが存在する。
これはハコだ。屋根だけが浮いている家など存在しない。必ず柱があり、壁があり、そして基礎がある。「囲う」ことでWebはつくられてきた。
これは原初から続く基本構造であり「1ページ=1物語」というのは疑いようのない前提。
なぜWebは終わるのかと問われたら「線を引く設計が基礎にあるから」が最もな答えになるのだと思う。
そしてこれは人間心理にも適応した形ではある。
ゲシュタルト心理学で言う「完結の原理(Law of Closure)」。人は、不完全な形を補って閉じようとする傾向があるのだ。Webを読むときも完結した物語の構造を好む。そのため、設計者も「読み切りページ」型を自然に採用した。
ただこれ、厳密には「形の補完」の話であり、「終わりを求める」心理とは少し異なる。完結性の心理傾向が「区切りを求める設計」に転用されたという話だ。細かいが一応補足。
つまり、人間の脳は「開いたまま」では落ち着かない。読み切ることで快感を得るようにできている。だから設計者も、無意識に「終わりのあるWeb」を作ってきた。それが何の疑いようもない「正しさ」だったから。
・・・・・・のだが、当時の私にとってそんなことはどうでもよく「終わらない暇つぶし(Web)は不可能なの?」ということが引っかかった。「こうしたほうがいい」ではなく、「できるかできないのか」の実現可能性だけを考えていた。
さて、この「終わる構造」は、Web以外の体験設計ではどう現れているのか。次はそれを見ていこう。
なぜメニューは線形なのか?
以下はUI史の話ではなく、「なぜ人は線でしか動けなくなったか」の説明だ。
私はよくテレビゲームをやっていた人間なのだが、そこでも疑問を感じることが多々あった。それは、一方通行のメニューについてだ。
メニューを開き、アイテムを覗き、そして誰に使うかを決める・・・・・・これらはWebの線形構造と全く同じだ。使いやすさも、そして違和感も。
想像しやすい例として『ドラゴンクエスト』をあげる。これは、典型的なウィンドウ階層構造のメニューで、選択と同時に新たなタブが表示される。非常に感覚的で使いやすく素晴らしい、先見性のある表現だ。

人間は空間を階層化して理解する(例:部屋→棚→引き出し→アイテム)。
メニュー階層はこのスキーマ構造を模倣しており、だからこそ非線形より記憶に残りやすい。これをゲームに適応したのは本当にすごいと言わざるを得ない。
しかし、それでもかかえる問題はあった。それは、階層が深くなった時の融通の効かなさだ。
これはドラクエに限らずの話なのだが、階層が深くなると戻る進むが億劫になり、「こうしたいのにできない」煩雑さにつながる。実は、これはブラウザUIと全く同じ話でして。
1993年、Mosaic(初期ブラウザ)が登場。ここで「Back」「Forward」という概念が実装された。これにより「前後」という時間的な線形移動がUIとして定着。
その後、リンク構造が非線形でも、操作体系が線形であったため、人は「1本道」としてWebを認識するようになった。
もしかしたら、ゲームをやる人は「ここからこのメニュー(操作)に行けないのはなぜ?」という疑問を抱いたことが1回はあるはずだ。Aで操作し、Bを経由してCにいかないとダメ・・・・・・なぜA→Cができないの?という感じに。

しかし、これは意地悪ではなく「脳と入力デバイスと歴史の都合」でそうなったのだ。
人間の視覚、記憶、操作系が直列処理に最適化されており、さらに初期UI設計の物理的制約(キーボード、カーソル)が「上から下」「左から右」という順序を前提にしていたため、「線で辿る」構造が最も安定したUIの原型となった。
1983年に任天堂が発売したファミリーコンピュータから、現代のSwitchまでこれは全く同じままだ。プレイヤーは十字キーの上下でしか移動できない。つまり、身体レベルで縦や横に並んだ選択肢を覚えさせられている。
UIの黄金律でも「一貫性と予測可能性」は最上位に置かれている。線形は退屈だが、最も壊れにくい設計でもある。
なぜこうなのか?
「そういうものだから」だ。
線分ABから始点と終点をなくすには?
答えを求め、記事を開く。そして閉じる。
この一方通行さをあらゆるサイトで感じた。ウィキペディアですら、際限無いように広がるハイパーリンクに終わりが来る。中心部から広がるネットワークニューロンには端がある。どれだけ複雑でも、構造がある限り「外側」が生まれる。
じゃあ、これをなくすには?
線分ABには始まりと終わりがあり、それを無限にも近い距離感で引き伸ばしたとしても、必ず端は存在する。そこで無限の回遊を行うにはどうしたらいいだろうか?
そもそも、終始の無い図形とは?
始点と終点を重ねてしまえばいいのでは?
それが、円だった。時間にして10分の思いつき。これが、回遊型UXの始まりだ。
ただし、ここでいう「円」は、最初から唯一の答えだったわけではない。他と、成立しなかった理由を紹介しよう。
まず考えられるのは無限に伸びる直線だ。
始点から終点を限りなく遠ざければ、理論上は「終わらない体験」を作れるように思える。
しかしこれは本質的な解決にならない。距離をどれだけ引き延ばしても、直線である限り「進行方向」は1つしかなく、体験は消費されていく。
いずれ疲れ、いずれ飽き、そして「もういいか」という終点が主観的に発生する。無限直線は、終わらないのではなく、終わるまでが長いだけだ。
次に考えられるのは完全なランダム構造。
リンクを無秩序に張り巡らせ、どこに飛ぶか分からないWeb。これは一見、自由で終わりがないように見える。
しかし、人間の認知はそこまで強くない。関係性が把握できない情報空間は「探索」ではなく「混乱」になる。意味の接続が断たれた状態では人は回遊せず、離脱する。ランダムは自由だが、記憶されない。
つまり、必要だったのは1本道でもなく無秩序でもない。「戻れて、つながっていて、全体が把握できる構造」だった。
始点と終点が重なり、どこから入っても、必ず帰着できる。
探索しているのに、迷子にならない。
意味が循環し、体験が消費されない。
その条件を最もシンプルに満たす形が「円」だった。
現代理論とのつながり
私は今でこそUXアーキテクト・・・・・・いわゆる専門家として仕事をしているが、実は専門教育を受けたことは無い。ほとんど無いのではなく、無い。つまり、独学で医者をやっているのに近い。
そのため、専門用語は知らないことのほうが多い。ただ、ポイントは「知らずとも実務としてこなせている」というところにある。逆に、理論や言葉は知っていても活かせない・・・・・・そういう存在とは正反対だ。
そもそも、高校生の頃の私はUXという言葉すら知らなかった。けれど、現代理論のあらゆる構想と重なる思想は多かった。
回遊型UXは単に美しいだけでなく「情報、空間、行動、意味、価値の接続理論」に近く、故に興味深い。
ここでは、何も知らない高校生の発想が、どれだけ専門領域に深く踏み込んでいたのかを紹介したい。個人的発想(円のUX)と現代理論の交点を、後付けで照らしてみよう(膨大なので主要なものだけ抜粋)。
・・・・・・と、その前に、命名について補足しておく。
非線形UXではなく「回遊型UX」という名前にしたのは、そのほうが楽しげだからだ。最初は回廊型UXというのが候補にあった。しかし、「回遊型」のほうがなんか楽しそうだな、と思い決定。
「遊」という字が良い。UXを遊戯構造(Ludic Structure)として捉える視点は大切だと思う。究極的に言えば、UXってのは人のためにあるものなんだから。
そして何より、「非線形」というのはどうも攻撃性を感じてしまう。まるで「今までのWebはダメ!」のような、イヤな印象を感じる。あえて否定するためのネーミングを想像するのだ。
「非線形」は正しい概念だが、命名が批評として機能しすぎるときがある。私は「遊ぶための構造」を選びたかった。
これは本当に主張しておきたいことなのだが、私は「線形は間違っていて円形こそが正しい」なんて言うつもりは一切ない。「今後全てのWebは円形であるべき」とかも絶対にない。
あくまで回遊型UXは、「こういうの面白いんじゃね?」というアイデアでしかない。
回遊型UXについてまとめた記事も、挑発的な内容ではなく、「こういう風に考えたよ~」というものでしかない。ここを勘違いしないよう、私は適宜姿勢を正していくつもりだ。
非線形ユーザージャーニー(Non-linear User Journey)
さて、少し話はそれたが、「非線形ユーザージャーニー」というものについて紹介しよう。
これは「ユーザーの行動は直線ではなく、ノード(要素)間を行き来する『網』構造が良いのでは」という仮説だ。

ユーザーは目的地を目指しておらず、意味を漂いながら、自分の流れを見つけている・・・・・・回遊型UXはこの「漂い」を「構造」として設計している。
近いものに偶発的回遊(Serendipitous Navigation)というものもあるのだが、いずれも抽象論にとどまり、実装例は限定的だ。
構想の発端になった「終わらない暇つぶしはあるか?」というのはまさにこれで、読者は記事を好きに移動し、好きに離脱する・・・・・・まさしく、非線形ユーザージャーニーの心理版だ。
位相的導線(Topological Navigation)
次はトポロジカルナビゲーションについて。これは数学的見地からなるUXの理論で、ページやリンクを「位置と接続」で捉え、距離ではなく関係性でナビゲートする情報設計のことだ。
要は「距離のない地図を作ること」みたいなもんだと思ってもらえれば成立する。
情報の集合はツリーではなくトーラス(円環構造)では成り立たないのか?というのはまさしくこれで、ここから派生して情報回遊理論に行く。
つまり、「円にすればいいのでは?」という高校生の思いつきは複数の理論を一気通貫していた。

「円にすれば終わらない」というのは発想こそ単純だが、Web上でと考えると全く異なる。言ってしまえばこれはまさに情報設計の次元変換。階層という1次元を、回遊という2.5次元に拡張したとも考えられる。
不思議なもので、円形というのはあらゆる美を内包している結果ということだ。形を定義したのではなく、形が定義された。
円は数学的に言えば、与えられた周長で最大の面積を持つ形であり、自然界ではエネルギーを最も効率的に閉じ込める構造。つまり「美しさ=エネルギー効率=機能性」という一致を体現している。
私が感じた「キレイさ」は、単なる形態的感情ではなく、機能が完全に調和していることへの審美眼だったのだ。すごい偶然・・・・・・いや、必然なのかもしれない。
UX界隈の重鎮とされるドン・ノーマンは「美しさと使いやすさは分離しない。美は機能として働く」と述べる。美しいだけで使えないものもあるが、しかし、使いやすいものはえてして美しい。
「中心部を通る直径は常に同じ長さである」
「始点と終点がつながるから終わらない」
これ、実は両方とも「対称性」の思想だ。「回遊型UX」や「終わらないWeb」は、すべて「中心と周縁の距離が等しい」=「どの入口から入っても同じ体験品質が得られる」という設計思想に繋がっている。
つまり、私のデザイン哲学は円の思想が情報構造化したものとも言える。
UIでいうと「中心的導線を持つネットワーク構造」、UXでいうと「どの経路からでも帰着できる体験」。円は私にとって秩序の最小単位であり、UXの理想形そのもの。
けれど当時の私はこれらを感覚で理解していた。UXのことなど、何も知らなかったのに。
情報回遊理論(Information Loop Theory)
次は情報回遊理論。これはまさしくこの回遊型UXそのものだ。
「ユーザーが行き止まりを感じず、思考が常に回帰と再発見を繰り返す」・・・・・・本当にそのままの思想。
私が現行のWebへの忌避感があるのは「誘導されている感」が強すぎるからだ。たとえば「あなたへのおすすめ」。私はこれがものすごく気持ち悪いなと思う。人間性の欠落、まるで操られているような、そんな感覚になる。
この探索性を象徴する例としてひとつ。ナマコを初めて食べたのはどういう人だったと思うだろうか?
私は、「人間としての本質を見失わなかった人」だと思う。
人間というのは知的好奇心を抑えきれず、何でも試し、何でもやってみて、何でも身につける生物だ。だからこそ、彼らは地球を支配するまでの猿になった。試行錯誤の果てが猿を支配者へ押し上げた。
人は与えられるだけじゃ生きていけない。
私達は本質的に、何かを求めるようになっている。その原初の気持ちを後押しするサイトにしたい・・・・・・これが回遊型UXの根幹だ。
人は情報を狩る動物ではなく、回る動物だ。探索しては戻り、再び繋げ、知識を円環化していく。Webの構造がその行動に追いついていないだけ。だから私は、このサイトを作った。
・・・・・・で、このあとにも、連続的インタラクション設計(Continuous Interaction Design)、循環型ナビゲーション(Loop UX / Circular Navigation)、空間的情報設計(Spatial Information Architecture)などを紹介しようと思ったのだが、もういよいよUXの本を1冊書けるぐらいの密度になるので割愛。
ざっくりUXの歴史
では最後に、歴史と私の比較表を貼っておこう。
勘違いしないでほしいのは、これまでの論理はイキリを目的としているわけではないということだ。シンプルに偶然性をそれっぽくまとめただけにすぎない。
| 時代 | UXの主軸 | 私の状況 |
|---|---|---|
| 2000年代 | 静的WebのUI設計 | 授業中に退屈してた |
| 2010年代 | サービス体験としてのUX | 「終わらない体験」概念に到達した |
| 2020年代 | 循環型、持続型UX(Loop UX) | 思想が理論化された |
| 2030年代(予測) | 位相的UX:認知、時間、空間の融合 | 理論が感覚へ還元される |
回遊型UXの完成、その後
というわけでひとまず回遊型UXそのものは形をなしたのだが、重要なのはこのあとだ。私は理論として「こうなるだろう」という予測を立てられているが、それは予測の範疇を出ない。
たしかに統計や理論は仮想の結果を裏付ける要因になる。しかし、それはあくまで「予想」だ。実際は、やってみないとわからない部分もある。データは足跡だが、人はデータと違う。行動データは現象を示すが、意味までは語らない。
回遊型UXは人が歩きたくなる設計になっている。だが「実情はどうなのか」は分からない。これからのデータで分かる。
だから現時点での完成度は9割を越えない。残り1割は、実地調査による改修で埋められるからだ。
ゆえに、一番面白いのはここからだ。思い通りになったとしても、じゃなかったとしても面白い。
理論や仮説は、それが証明されるときが一番楽しいものなのだ。
ここは2.5次元の美術館
回遊型UXはあなたの好奇心の邪魔をしない。
展示をし、通路を掃除し、照明を整え、人を待つ。読む環境を作り、あとは来る人の自主性にすべてを任せている。
係員を用意し、誘導経路を配備し、そこから逸脱することを許さないような設計とは正反対を行くこれを、私は今後末永く運営していくつもりだ。
作品を眺める時、そこにあるのは1対1の対話だ。そこには誰かの感想も、自分はこういうのを嗜んでいるという見栄も、何も無い。私はただ、あなたと話している。あなたに話している。
意図的に排除されたシェアボタンやコメント欄はそういう意図がある。美術館に必要なのは集中できる環境だけ。そこには、「思想に触れる」という永久の自由、上質な暇つぶしがある。
私はユーザーに何も求めない。ここを好きに歩き、好きに探索してくれるだけでいい。
来ました、どうも。読みました、どうも。帰ります、どうも。
そこにはお互いの束縛も、主張のぶつかり合いもない。ただそれぞれが好きにして、好きにやる。回遊型UXは、ずっとそういう形であなたのためにある。
好きに歩いて、好きに帰ればいい。
ここは、そういうふうに出来ている。
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