Steamで『メタルギア ライジング リベンジェンス』を買おうと思うと、「このアイテムはお住まいの地域では現在ご利用いただけません」という表示が出る。

これは本作に限った話ではなく、『ドラゴンクエストヒーローズII 双子の王と予言の終わり』などでも同様だ。日本のゲームが、日本に住んでいる人には買えない、という奇妙な現象にブチ当たる。
いわゆる、おま国(お前の国には売らない)問題だ。
これはプレイ権利だけでなく、中身を変えられていたりもする。たとえば、本来日本語のテキストや音声が収録されているのに、日本語版だけ内包されていないなど。それによって、日本のゲームなのに日本語MODを導入して遊ばなくてはならなかったりもするから意味不明だ。
海外のゲームが海外限定で販売されることならば何も珍しくはない。国ごとに法律や契約が異なる以上、販売地域が限定されることは理解できる。
しかし、おま国が不満を集めるのはそれ以前の問題だ。
ここにあるのは、「日本のゲームなのになんで日本人が遊べないの?」という、シンプルな疑問。
値段が高いならまだいい。あるいは、発売が遅れるのも理解できる。しかし、「存在するのに買えない」「わざわざ日本語だけ抜く」という状況は、ユーザー視点では非常に理解しづらい。
なぜ企業は、わざわざユーザーから反感を買うようなことをするのだろうか。
売りたいなら、売れる場所を増やせばいい。Steamで遊びたい人がいるなら、Steamでも売ればいい。そもそも、日本のユーザーに遊ばせないのはなぜか?
誰もが違和感を抱いている。それなのに現実には、おま国は今でもなくなっていない。真っ当な説明もせず、「おま国ってこういうものだ」という謎ルールをユーザー間で理解しているだけだ。
一般論として、おま国を行う企業側の意見は以下になる。
| 理由 | 企業側の理屈 |
|---|---|
| 権利関係 | その地域で売る権利がない、または契約が複雑 |
| 代理店保護 | 国内販売会社や既存流通を守る必要がある |
| 価格管理 | 地域価格の抜け道を防ぎたい |
| サポート負担 | 売るなら言語、問い合わせ、返金対応が必要 |
| 法規制 | レーティングや表現規制への対応が必要 |
| 市場優先度 | 対応コストに対して売上が読みにくい |
| 販売戦略 | 発売日、宣伝、国内展開を調整したい |
| 競合回避 | 他機種版、国内版、リマスター版と衝突させたくない |
| 古い契約 | デジタル時代以前の商流が残っている |
つまり、おま国は嫌がらせではなく、販売の最適化にあたるとされる。しかし、ユーザーからすれば選択権を奪われた不愉快な状況になっているのは事実で、都合を言われたとて納得はしにくい。
だが、本記事ではその恨みつらみを述べることは主是としない。扱うのは、なぜこうなっているのか、という構造の分析だ。
企業は本当にユーザーの不便を無視しているのだろうか。
あるいは、おま国にはユーザーから見えにくい別の合理性が存在するのだろうか。
本記事では、おま国という現象を入口にしながら、なぜ企業はユーザーの望む場所でゲームを売らないのか、その裏側を考えてみたいと思う。
先に仮説を置いておく。おま国とは「ユーザーの選択権」と「企業の販売コントロール」が衝突した結果として起きる現象ではないか、というのが私の見立てだ。
Steamでプレイすることが目的なのか?
まず、プラットフォームの是非について語りたい。おま国問題に対し、本音では何を求めているのか、何に憤っているのか、ということを考える。
おま国への不満はひとつではない。「日本のゲームなのに日本で買えない」という地域的な理不尽さもあれば、「自分が使っている環境で遊べない」という選択権の問題もある。
ここでは後者、つまりユーザーがなぜ特定の販売場所にこだわるのかを整理したい。
この問題、表層上は「Steamで販売しろ」という運動につながる。しかし本質は少し異なるように思う。はたして私たちは、Steamでのプレイそのものを求めているのか?
私はこう思う。多くのユーザーが求めているのはSteamでプレイすることではなく、プラットフォームの集約なのではないだろうか。
少なくとも私はそうだ。Steamでやりたいのが目的・・・・・・というと、なんだか違う感じがする。統一がしたい、のならば納得がある。
そもそも、なぜSteamは今やPCゲーマーのデファクトスタンダードになっているのかを考えてみる。
もしSteamと同じように便利で、同じようにゲームを管理できるプラットフォームがあったなら、多くの人はそちらを利用していただろう。しかし現在、他のランチャーはあまり人気ではなく、ほぼSteam一強の状態だ。
なぜSteamが最大勢力になり得たかと言えば、その最大要因として管理コストなどを大幅に改善したからに他ならない。これでいいやという利便性が他とは圧倒的に違ったのだ。
つまり、ユーザーが求めているのはSteamそのものではなく、Steamが提供している利便性なのではないだろうか。他のプラットフォームへの移行がうまく行かないのも、ここに関連している現象に見える。
この利便性の正体はいくつかある。
まず、管理コストの削減。
ゲームを購入した場所が増えれば増えるほど、ユーザーは複数のアカウントやランチャーを管理しなければならない。どこで買ったかを覚え、どこにインストールしたかを確認し、パスワードを管理する必要もある。
これらひとつひとつは些細な手間だが、積み重なると確実に負担になるものだ。ゆえに、ここを解消したのは大きい。
次に、ライブラリの統合。
長く使っている人のライブラリには、数百本、多ければ数千本のゲームが並んでいる。それらは単なる商品一覧ではなく、プレイ時間、実績、フレンドとの履歴、購入履歴など、自分のゲーム体験そのものが蓄積された場所だ。
そこに1本だけ別のランチャー限定のゲームが現れると、多くの人は違和感を覚える。
これは整理整頓とは少し違う。外れ値そのものが嫌なのではなく、管理する場所が増えることが嫌なのだ。ユーザーはゲームを遊びたいのであって、新しいサービスに登録したいわけではない。
たとえば私は『アサシンクリード』シリーズはPS5でしかやらないと決めている。これは、PCでやろうものなら強制的にUbisoft Connectの加入、導入を促されるからだ。なぜ1作やるだけで邪魔くさいこれをインストールせねばならないのか。
プラットフォームが増えると、そのたびに新しいアカウント作成や認証作業が発生する。ユーザーから見れば、これらは本来不要なコストだ。
実際、私は1つのプラットフォームで全部できたら良いと思っている。そして、その対象として最も適切なのがPCだ。となると、Steamでまとめてほしい、まとめたいという思考は、当然のオチになる。

さらに重要なのが、プレイ環境の維持だ。
わかりやすい例として、メタルギアライジングを挙げよう。この作品を今遊ぼうとすると、PS3やXbox 360が必要になる。
しかし、この1本のゲームのためだけに10年以上前のハードを保管し、動作確認し、接続環境を維持することは合理的とは言えない。『アーマード・コア フォーアンサー』なども同様に、このハードがないと遊べない、というゲームは割とある。
だからこそ、リマスターや移植・・・・・・Steam対応のこれらが歓迎される。
実際、多くの場合、ユーザーは画質向上などを求めているわけではない。プレイアビリティの拡充はもちろん、今の環境で遊べるようにしてほしいという要求がメインだ。
つまりリマスター需要の本質は、映像の進化ではなくプレイ環境の維持にある。
考えてみれば、私たちの生活はどんどんデジタル化している。音楽はストリーミングになり、映像は配信サービスになり、本は電子化されつつある現状・・・・・・必要なものを探し回るのではなく、ひとつの場所に集約することで管理コストを下げる方向へ社会全体が進んでいる。
そうした流れの中で、ゲームだけが特定ハードや特定ストアに強く依存し続けていることに違和感を覚えるのは、ある意味では自然なことだろう。
となると、特定のプラットフォームでしかできないという制限に忌避感を覚えるのも自然なはずだ。これこそがおま国に思う本質的な違和感ではないだろうか。
「おま国問題とはつまりSteamでプレイできないこと」というオチは少し違う。
ユーザーが求めているのはSteamでのプレイそのものではない。
求めているのは、自分の好きな環境で遊べること、管理しやすいこと、余計な手間を増やさないこと・・・・・・つまり、ユーザー主導の選択権と利便性なんじゃなかろうか。

おま国が企業側合理の戦略である理由
「Steamで全部出せばいいじゃん」
これは変な話でも、さして難しい話でもない。非常に真っ当な意見だ。前述した通り、いろいろな場所で売る、買うより、1つに集約させたほうがいいよね、というのは至極当然の感想。
あるいは「人口の多い、ユーザーが望む場所で売ればいいじゃないか」と思った人もいるかもしれない。それこそがSteamで、実際、ユーザー視点(かつパブリッシャー視点)で考えれば自然な帰結となる。
Steamで遊びたい人がいるならSteamで売ればいい。Epicで遊びたい人がいるならEpicでも売ればいい。できるだけ多くの場所で販売したほうが、多くの人に届くようにも見える。
この論理に間違いはないように思える。
しかし、企業は必ずしもそう考えていない。
なぜなら、企業の目的は販路拡大そのものではないからだ。企業が求めているのは利益の最大化であり、販路はそのための手段に過ぎない。
ユーザーからすると、「売れる場所を増やせば売上も増える」ように見える。だが企業から見ると、「どこで売るか」も同じくらい重要になる。ここは意外と単純でもない。
たとえばSteamは非常に巨大なプラットフォームだ。圧倒的なユーザー数を抱えており、多くのPCゲーマーにとって事実上の標準環境になっている。だからこそSteamに出すメリットは大きい。
一方で、巨大なプラットフォームに依存することには別のリスクもある。手数料の問題、規約変更の影響などだ。
まず、Steamの手数料は原則30%になっているが、売上が一定を超えると減額される。
| Steam上の累計売上 | Valveの取り分 | 開発、販売元の取り分 |
|---|---|---|
| 1000万ドルまで | 30% | 70% |
| 1000万ドル超〜5000万ドルまでの部分 | 25% | 75% |
| 5000万ドル超の部分 | 20% | 80% |
こういったものは、タイトルが大規模か小規模かで痛みの種類が異なる。AAA級大規模の場合、シンプルに損失が大きい。仮に100億円の売上なら手数料だけで30億だ。
となると、巨大企業にとっては「どこにでも出せばいい」とはならないお金の問題が明確にある。小規模の場合は、それでさえ露出に価値があるから手数料の痛みは軽減されるのだが・・・・・・。
また、プラットフォーム側の方針ひとつで販売条件が変わる可能性も忘れてはならない。これについては、少しゲーム業界から離れた例を以て考えてみたい。
対象となるのはAI産業だ。

AIや機械学習の分野では、NVIDIAのCUDAという技術基盤が広く使われている。
CUDAは非常に便利だ。性能も高く、開発環境も整っている。だから多くの企業や開発者が利用する。しかし、昨今ではここから脱することを多くの企業が画策している。
なぜか。一度CUDAに深く依存してしまうと、そこから離脱することが非常に難しくなるからだ。開発環境も、ノウハウも、ソフトウェア資産も、すべてCUDAを前提として構築されてしまう。
便利だから選んだはずなのに、気づけば他の選択肢を取れなくなっている。エコシステムからの脱出が不可能になってしまう。だから、なんとかして依存を避ける。
この構造はSteamにもある程度当てはまる。
Steamが便利だから使う。ユーザーも集まる。企業も集まる。すると、Steamを無視できなくなる。
すると、将来的に規約が変わったり、手数料体系が変わったりしても、簡単には離脱できなくなる。それなしでは成り立たなくなってしまってからでは遅い。
もちろん、現時点でSteamがそうした問題を引き起こしているという話ではない。重要なのは、企業はその可能性を考える立場にあるということだ。
企業にとってのリスクは、今起きている問題だけではなく、将来起こり得る問題も含まれる。依存関係のよくない未来・・・・・・だから販路を分散させようとする。
つまり、ユーザーにとっての「便利」は、企業にとっての「依存」と表裏一体なのだ。
ゆえに企業はSteamだけに頼りたくない・・・・・・というより安易な販売設計を行いたくはない。そしていろいろを画策し、その1つがおま国に当たる。
- 自社ストアで売る
- Epicなどの独占契約を受ける
- 家庭用ゲーム機版を優先する
- Steam版を後発にする
- 地域価格を絞る
- 国内販売会社との調整を優先する
ユーザーから見ると、「またランチャーが増えた」「なんで別の場所で売るんだ」と感じる。しかしこれは単なる嫌がらせではない。
企業がひとつのプラットフォームへの依存を避け、自分たちの交渉力や販売戦略を維持するための判断だ。
では、もしすべてのゲームがSteamに集約されたとしたらどうなるか。
確かに、ユーザー側は便利になるかもしれない。しかし企業はSteamの条件に従うしかなくなり、価格設定、セール方針、手数料体系など、多くの部分で主導権を失うことになる。
利益率はまず間違いなく減るだろう(粗利の圧迫)。それにより、開発そのものが厳しくなる。また、Steam最適化によって、冒険するゲームは消失する。プラットフォームに合わせたものだけが生まれる。
つまり最悪の形は、「似通ったものしか生まれなくなる」という状態だ。売上減以上に、企画の多様性と販売戦略の自由が失われることが予想できる。
もちろんSteamに多様な作品が存在すること自体は否定しない。しかし企業側から見れば、単一の販路に依存するほど、その販路で勝ちやすい企画を優先せざるを得なくなるのだ。
これは別にSteamだけの話ではない。Switchのみになったら、PSのみになったら・・・・・・これらも結局は同じ結末をたどる。分散はユーザーにとって不愉快だが、市場にとっては生存戦略として成立する。
だから企業は販売先を分散させようとするのだ。
Steam、Epic、自社ストア、コンソール市場・・・・・・それぞれの販路には長所と短所があり、それらを組み合わせることで利益の最大化を目指している。
けれど、それはそれとしておま国はムカつく。
・・・・・・これは大いにわかる。私も、これを書きながら「でも昔のゲームなんだからライジングなんかもういいだろ」みたいに思うことはある。
だが一方で、自分にとっての都合だけで語るのは違う、とも思う。
私が述べたいのはおま国の擁護ではない。向こうには向こうなりの論理がある、という主張だ。たとえそれがユーザーから非難されようとも、生存戦略としては妥当なりえる。
企業はユーザーを困らせることを目的にしているわけではない。ユーザーが不便になることは理解していても、それ以上に守りたいものがある。販売先の選択は、ユーザーへの嫌がらせではなく、企業なりの合理的な経営判断なのだ。
だからこそ、この問題は単純な善悪では語れない。
ユーザーには合理性がある。企業にも合理性がある。
この2つの合理性がぶつかる場所に、おま国や独占販売のような現象が生まれるのだ。
ただし、これだけで「日本だけ売らない」理由がすべて説明できるわけではない。Steam依存の回避は、あくまで企業が販路を自分たちで制御したい理由のひとつだ。
おま国の場合はそこに、国内代理店との契約、家庭用ゲーム機版との競合、国内価格の維持、日本語サポート範囲、過去の販売契約といった地域固有の事情が重なる。
つまり問題の芯は、Steamそのものではなく、企業が販売地域と言語と販路をどこまで自分たちで制御したいかにある。
ユーザーと企業は何を争っているのか
ここまでの話を整理すると、この問題は「統合と分散の対立」に見える。
- ユーザーはSteamに集約してほしい
- 企業はSteam以外にも販路を残したい
- だから衝突する
たしかに、この見方は間違っていない。しかし、どうもそれだけでは説明しきれないことがある。
ユーザーは必ずしもSteamだけを望んでいるわけではないはずだ。たとえばマルチプラットフォームの場合、それだって多くのユーザーは歓迎するだろう。つまり、Steamだけでしか遊べない世界を理想としているわけではない。
では、ユーザーは本質的に何を求めているのか。
これが、前述した「選択権」ではないか。
- 自分の好きな環境で遊びたい
- 普段使っているライブラリを維持したい
- 新しいハードやランチャーを強制されたくない
- どこで買うかを自分で決めたい
ユーザーが求めているのは統合そのものではなく、こういった「自分で選べる状態」だ。
Epicが嫌なのではない。Epicじゃないとダメだという強制が嫌なのだ。Switchが嫌なのではない。Switchじゃないと遊べないのが嫌なのだ。
しかし一方で、企業が求めているものが単純な販路拡大ではないことも述べた。
当然のこととして、企業はゲームをできるだけ多くの人に届けたいと思っている。だが同時に、自分たちで販売戦略をコントロールしたいとも考えている。
- 価格をどう設定するのか
- どのプラットフォームを優先するのか
- どこまでセールを行うのか
- どの販路と関係を維持するのか
そうした決定権をできるだけ自分たちの手元に残しておきたい・・・・・・つまり、企業が守ろうとしているのは販売コントロールだ。
となると、もはやユーザーと企業が争っているのは、SteamかEpicか、PCかコンソールか、といった話ではない。
本当に衝突しているのは「主導権」だ。
ユーザーは「どこで買うかを自分で決めたい」と考える。企業は「どこで売るかを自分で決めたい」と考える。
どちらも合理的で、どちらも自分にとって最適な選択をしようとしている。
しかし、その合理性は必ずしも一致しない。
ユーザーにとって理想的な状況は、すべてのゲームがあらゆる場所で販売され、自分が好きな環境を選べること。一方で、企業にとって理想的な状況は、自社にとって最も利益が出る販売経路を選べること。
この2つは似ているようで、決定的に違う。
ユーザーは選択する自由を求める。企業は選択させる権利を手放したくない。
だから、おま国が生まれる。
だから、独占販売が生まれる。
だから、ランチャーが増える。
つまり、これまで見てきた様々な現象は個別の問題ではない。すべて同じ構造から生まれている。それを一言で表すなら、こうなる。
ユーザーは選択権を求めている。しかし企業は販売コントロールを求めている。おま国や独占販売は、その2つの合理性が衝突した結果として生まれる。
ここに善悪はない。あるのは、それぞれの立場から見た合理性だけなのだ。

おま国が特に嫌われる理由
ここで、記事の出発点だった「おま国」に話を戻してみる。
かつてこれを「嫌がらせ」と認識していた人も、ここまで読んだ今なら、ある程度の合理性を理解できるはずだ。もちろん、それはそれとしてムカつくのは別だが。
企業は販売をコントロールしたいが、ユーザーは選択権を求めている・・・・・・その衝突が様々な形で現れる、その1つがおま国。
では、なぜその中でもおま国は特に嫌われるのだろうか。ここまで嫌われる理由は単純な不便さだけでは説明できない。
たとえば、PS独占やSwitch独占に不満を持つ人はいる。しかし、多くの場合、その理由は理解可能だ。
- 任天堂のゲームだからSwitchで出る
- ソニーが資金を出したからPlayStation独占になる
納得するかどうかは別として、少なくとも理由は想像できる。だからある意味で「しょうがねえなあ」という気持ちになる。
ところが、おま国は違う。
- 日本のゲームなのに、日本で買えない
- 日本語データが存在するのに、わざわざ抜いて販売する
- 海外では普通に販売されているのに、日本だけ除外されている
意味がわからない。ユーザーから見ると、この状況は極めて理解しづらいものだ。
繰り返すが、もちろん、企業側には理由がある。
- 販売契約の問題
- 流通の都合
- 価格維持のため
しかし、その合理性はユーザーからは見えない。ユーザーが目にするのは、「存在するのに買えない」「手間をかけてまで買わせないようにする」という結果だけだ。
結局のところ、おま国は不便だから嫌われるのではない。期待を裏切るから嫌われるのだ。
日本のゲームなら日本で買えるだろう、日本語があるなら日本語版もあるだろう・・・・・・普通はこう考える。まさか「日本のゲームだし日本じゃ買えないよな」なんて思う人はいないはずだ。
だが現実は、「日本のゲームなのに日本で買えない」という意味不明な状況に陥る。その瞬間、ユーザーの中では理解のための前提が崩れる。
すると、企業側の合理性は見えなくなり、理不尽だけを目の当たりにする。
なぜ売らないのか。なぜ買わせてくれないのか。なぜ自分だけ除外されているのか。
理由が理解できないとき、人は不利益そのものよりも強い不満を抱く。その結果、おま国は「販売戦略」ではなく「嫌がらせ」のように感じられてしまうのだ。
言わずもがな、企業がユーザーを困らせるためにおま国を行っているわけではない。ひとりでも多くのユーザーがプレイ、売れたら結構なのは、否定しようのない事実だろう。売りたくないが作る、なんてことはありえない。
以上で見てきたように、そこには企業なりの合理性がある。しかし、その合理性はユーザーの合理性とは噛み合わない。
だから理解されない。
だから反感を買う。
だから何年経っても嫌われ続ける。
そう考えると、おま国は単なる販売制限ではない。企業合理性とユーザー合理性の衝突が最も露骨な形で表面化した現象のように見える。
独占販売や時限独占にも同じ構造はあるものの、おま国ほど「なぜそうなるのか」が見えにくい現象は多くない。だからこそ、おま国は単なる不便さ以上の感情を呼び起こし続けているのだろう。
おま国は失敗なのか
結局のところ、おま国は失敗なのだろうか。それとも合理的な判断なのだろうか。
おそらく答えは、そのどちらか一方ではない。
少なくとも、おま国を単純な失敗だと切り捨てることはできない。なぜなら、そこには実際に企業側の合理性が存在するからだ。
- 販売契約の維持
- 価格戦略
- プラットフォームとの関係
- 交渉力の確保
- 将来的な依存リスクの回避
こうした要素を考えれば、企業が特定の販路を選んだり、逆に特定の販路を避けたりする理由は十分に理解できる。
失敗とは、目的を達成できず、不必要な負債を背負うことだと私は思う。
たとえば「わざわざ人気の少ないところで販売し、売れず、その姿勢を叩かれてアンチが増える」。こういうものは「失敗」だろう。
では、おま国はどうなのか。
おま国はたしかにユーザーからの強烈な不満を背負う羽目になる。しかし企業側はその負債を承知したうえで、販売契約の維持、価格戦略、既存販路との関係、プラットフォーム依存の回避といった別の利益を優先している。
もちろん、外部からその成果を実証することは難しい。また、継続しているからといって必ず成功しているとも限らない。古い契約や組織上の惰性が残っている場合もあるだろう。
ただ少なくとも企業側では、ユーザーからの反感を受けてもなお、契約、価格、販路、交渉力を維持する利益があると判断されている可能性がある。
つまり、痛みを伴う方策として機能している。おま国は「ユーザーに嫌われながら売上を上げる施策」というより、「ユーザー体験を犠牲にしてでも販売構造を守る施策」と見るべきだ。
ならば、一概に失敗とは言えない。
「でも、ユーザーが喜んで売上も上がるのがベストじゃないの?」
これは本当にそのとおりだ。なぜわざわざヘイトを買う真似をするのか、ヘイトを買わずに売上を上げればベストではないか。この意見はもっともだ。否定できる人はいないだろう。
だが、実際はそう上手く行かない。その背景は前述した通りで、根底にあるトレードオフの原理が影響する。理想をいつでも選べるわけじゃないのだ。
「ユーザーに好かれる売り方」と、「自社の販売構造を守る売り方」のどちらかを選ばなければならない状況が存在する。そして、後者を泣く泣く選び、生まれるのが「おま国」だ。
企業は利益を増やしたいからこういうことをする。しかしユーザーは自分の思うように遊べるかを見る。
つまり、企業とユーザーはそもそも見ているものが違う。そして、この2つの最適化は必ずしも一致しない。
企業にとって合理的な判断が、ユーザーにとって快適とは限らない。逆に、ユーザーにとって理想的な環境が、企業にとって利益最大化につながるとも限らない。
そう考えると、おま国という言葉の裏には、ゲーム業界に限らない普遍的な問いが見えてくる。
それは、「誰の合理性を優先するのか」という問いだ。
そして、その問いに簡単な正解はない。
だからこそ、おま国は今もなお不満を集めながら存在し続けている。そしてこれは、今後も解決することなく、生まれ続けるのだろう。
おま国はコンフリクトだ
おま国の話になると、つい「企業がユーザーを軽視している」「ユーザーに不便を強いている」といった善悪の話になりがちだ。
しかし本記事を通して見てきたように、実際の構図は少し複雑になっている。
ユーザーは単にSteamそのものを崇拝しているわけではなく、本当に求めているのは、自分の好きな環境を選べること。
普段使っているライブラリを維持したい、余計な管理コストを増やしたくない、新しいハードやランチャーを強制されたくない・・・・・・こういった選択権を渇望している。
一方で、企業もユーザーを困らせたいわけではない。販売先を限定するのも、独占販売を行うのも、嫌がらせが目的ではなく、販売コントロールを守ろうとしているが故だ。
ユーザーは選択権を求め、企業は販売コントロールを求める。
どちらも合理的で、どちらも各自の立場から見れば正しい判断だ。しかし、その合理性が衝突した場所に、おま国のようなものが生まれる。
おま国は嫌われる。しかし、だからといって簡単にはなくならない。
不評であることと、企業にとって合理的であることは別だからだ。
おま国とは、企業の失敗でも、ユーザーのわがままでもない。それは、異なる合理性同士がぶつかり合ったときに生まれる対立・・・・・・ひとつのトレードオフの形なのだ。
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