好きなものがあるのに満たされない理由:趣味はいつから消費になったのかを考える

ここしばらく、オタクの熱量に関する変化を感じる。

ゲームを遊ぶ。映画やアニメを見る。気になっていた漫画を読む。でも、見終わった瞬間に次を探している。あるいは、感想を考える前にSNSを開いてしまう。

みんなはどう思ったのか・・・・・・そうやって評価を確認しているうちに、自分がその作品をどう感じたのかが、よくわからなくなる。そして、こんな不思議な感覚を抱く。

「好きなものがあるのに、なぜか満たされない」

本当に不思議だ。じゃあ今さっき体験したコンテンツはなんだったのか、と思う。これは私個人の話ではなく、かなり見聞きする現象だ。「オタク疲れ」なんて表現する人もいる。

そもそも、好きという感情はもっと単純だった気がする。良いものを見たら良いと思う、そんな程度。

誰に認められなくても自分が好きならそれで成立していた。そこに理由とかを考える余地はあまりなかったはずだ。

特に、昔のオタク文化にはそういう空気があった。自分の好きを大切にする・・・・・・それを意識した「自立したオタク」がそこら中にいた。

なぜそれが好きなのか。何が面白いのか。なぜ自分はこれに惹かれるのか。そういうことを自分の中で考え、納得し、守る必要があったからこそ生まれた文化人。それが自立したオタクだ。

しかし現在、状況は大きく変わった。

オタク文化は市民権を得た。そしてSNSによって同じ趣味の人とも簡単につながれるようになった。

これは間違いなく良い変化である一方で、弱体化を促す作用もあった。「自分がどう思ったか」より先に、「みんながどう思っているか」が入ってくる時代になり、自己主張が弱まってしまったのだ。

そしてその結果、「好きなのに満たされない」という、少し奇妙な状態が増えたのではないか。

いつから趣味は満足を失ったのだろう。いつから「30代の恥ずかしくない趣味」といった、外部の目を気にした、与えられる趣味を求めるようになったのだろう。

この記事は、「昔のオタクは偉かった」という話ではない。また、「SNSが悪い」という単純な話でもない。そういった狭い話をするつもりは特に無い。

「なぜ現代では、好きが満足につながりにくくなったのか」について。なぜ共有は満足を低下させる一旦になりえるのかの考察・・・・・・以降ではこれを行っていく。

かつて、オタクは強かった

まず最初に言ってきたいのは、これは懐古論ではないということだ。

私は何も、今のオタクは弱くて昔のオタクは強かったとか、SNSが軟弱オタクを発生させた、といったような対立煽りがしたいわけではない。なんならそれは美化だし、いずれにせよ私の主張とは大幅にズレる。

ここではあくまで比較対象として扱う。趣味を取り巻くあれこれは、今と昔でどう変わったのかと。

さて、過去のオタク文化を語る際、「昔のオタクは濃かった」「昔のほうが熱量があった」といった言葉はこの記事に限らずよく出てくる。ここから短絡的に結論を出すなら「昔の人は強かった(愛があった)」のようなものだが、もちろんこれは違う。

ファクターとしては環境・・・・・・当時のオタクが特別に主体的だったというより、「まず自分で判断するしかなかった」という環境差が大きい。

まず、今でこそアニメやゲームは一般的な娯楽だ。ゲーム実況や配信文化も広がり、「オタク」という言葉自体もかなりカジュアルなものになっていて、もはや自称する人も珍しくはない。

しかし、かつてはそうではなかった。

  • アニメやゲームが好きだと言うだけで変な目で見られる
  • 「大人なのにそんなものを?」という空気がある
  • 趣味そのものに社会的な正当性がない

この話題で決して避けられないのが宮崎勤事件だろう。

端的に説明する。これは東京および埼玉での連続幼女誘拐殺人事件のことだ。この事件は一般社会だけでなく、オタク社会へ強烈な打撃を与えたものとして記憶される。

というのも、犯人である宮崎勤の部屋に大量のビデオテープや漫画があったことを、当時のテレビや週刊誌がセンセーショナルに取り上げたのだ。

それらはいわゆるアニメや特撮、美少女作品などだった。つまり「オタク的趣味を持つ人は犯罪者の傾向がある」という社会イメージを大々的に報道、拡散させた。

もちろん、今現在「アニメが好きだから犯罪者だ」なんていう論を振りかざす人は間違いなく白い目で見られるだろう。しかしそれは現在の感覚であり、80年代、90年代などはそういうわけでもなかった。

ただ好きなものを愛しているだけなのに、犯罪者、あるいは狂人のレッテルを貼られる・・・・・・そんな時代もあったのだ。

だから当時のオタクは、自分の好きなものを自分で肯定する必要があった。じゃないなら、押しつぶされてしまうような環境だった。

昔のオタクは強かったのではない。強くならざるを得なかったのだ。

誰かが認めてくれるわけでも、世間が後押ししてくれるわけでもない。むしろ放っておけば否定される。そんな状況だからこそ、「それでも自分はこれが好きなんだ」と言えるだけの理由や納得が必要だった。

なぜ面白いのか。どこに魅力を感じるのか。なぜ自分は惹かれるのか。そういうことを自分の中で考え続ける必要があった。そして、自立したオタクが生まれた。

結果として、昔のオタクは自己完結型になりやすくもあった。ただ、ここで言う自己完結とは、「他人を必要としない」という意味ではない。そうではなく、「最終的に好きかどうかを決めるのは自分」という感覚だ。

他人に否定されても好き。流行っていなくても好き。誰も知らなくても好き。この感覚が、当時のオタク文化には強く存在していた。

もちろん、昔にも承認欲求はあったし、コミュニティもあった。オタク間のヒエラルキーもあっただろう。しかし作品について語り合う楽しさや、共有する喜びは当然としてあった。

そして何より、順番は「自分」が先だった。ここが明確な違いだ。

まず自分が好きになる。そのあとで、誰かと共有する。だから、たとえ周囲に理解されなくても、好きという感情そのものが成立していた。

繰り返すが、これは「昔は良かった」という話ではない。

実際、当時のオタク文化には閉鎖性もあったし、排他的な空気も確かに存在していた。ジャンルによって肩身が狭いこと、扱いが雑なことは良いことではないし、認める気もない。

ただ少なくとも、誰かに言われたから折れる(感情の方向性を変える)のではなく、好きを肯定させる強さは広く存在していた。

「自分の好きは、自分で成立させるしかない」という環境が、結果として「自己完結型の好きを育てていた」のは確かだったように思う。

SNSは好きの順番を変えた

しかし現代、こういった強いオタクは珍しい。

今のオタクの嫁はバズりで更新される、と誰かが述べた。これは言いえて妙で、たしかに「◯◯を一生愛する」みたいなレベルの濃いオタクは見かけなくなった。いるにはいるのだろうが、可視化されない。

すべてをなんとなく愛し、平等で、だからこそ満たされない。言い換えれば、全部を均等に消費し続けると好きが定着しづらいという飽和感だ。

現代特有の病だと思う。では、これはなぜ起きるようになったのか。

その大きな理由のひとつがSNSだ。これによって「好きの順番そのものが変わった」ことが影響として大きいと考えられる。

前述したが、昔のオタクは基本的に「自分」が先だった。

作品を見る。遊ぶ。読む。そして、自分の中で感想が生まれる。

「面白かった」「ここが好きだった」「なんかよくわからないけど惹かれた」・・・・・・形式や内容はどうあれ、まず自分の感情が存在する。そのあとで友人と話したり、掲示板を見たり、雑誌のレビューを読んだりしていた。

これは、他人の解釈を通過しないということではない。

他人の評価に影響されることは昔からあった。だが少なくとも、一度は「自分がどう思ったか」を経由していた。つまり、スタートが自分だった。自分はどう思って、そして誰かはどう思った、この順番だった。

しかし、現代はそもそも状況が違う。SNSを開けば、作品に触れる前から感想が流れてくる。

  • 「神作」
  • 「鬱展開」
  • 「作画崩壊」
  • 「今年最高」
  • 「ポリコレ配慮」
  • 「考察がヤバい」

評価が最初から空間に漂っているのだ。

作品を楽しむ前から大量の評価情報に囲まれている人物のイメージ

そして現代では、アルゴリズムやCTRのため、「【悲報】◯◯死亡」のようなもの(ネタバレサムネ含む)が盛り上がり、それらの存在を認知しないことの方が難しい。

結果として、今は「共有空間→自分」という順番になりやすく、つまり、「自分がどう感じたか」より先に「みんながどう感じているか」が入ってくる。

かつては共有する空間自体がそこまでインスタントではなかった。だから会う時、話す時のためにしっかりと事前武装(自分の感想、考察)をし、そしてぶつけあった。

だが今はそうじゃない。話題の作品に対する話題の感想が誰でも即時閲覧できることにより、考えることを放棄するオタクすら生まれた。コンテンツだけじゃなく、感想すらも与えられるようになった。

これはかなり大きな変化だと思う。

たとえば映画を見終わったあと、本来なら「自分はどう感じたか」を考える時間があったはずだ。でも今は、感想を考える前にSNSを開いて答え合わせを行う人なんて珍しくもない。

  • 「あのシーン、みんなどう思ったんだろう」
  • 「この解釈で合ってる?」
  • 「評価低いけど、自分がおかしいのかな」

そして、そうやって他人の感想を先に見ているうちに、自分の感情そのものが曖昧になっていく。

SNSは感想形成そのものを外部化しやすい。なぜなら、そこには常に「正解っぽい感想」が存在するからだ。

  • 論理的な考察
  • 共感されている意見
  • バズっている解釈
  • インフルエンサーのレビュー

これらは数字で評価される。となると、正しいかどうかはわからないけどバズってるし、これが主流の考え方なのだろう・・・・・・だから、自分もそう思おう。こんな感じに「多数派の正しい感想」という謎の共通事項が生まれる。

自分の感想より「社会的に正しい感想」の方が強くなっていく。

結果として、「自分はこれが好きだ」よりも、「これは好きと言っていい作品なのか」が先に来る。

「自分は好きだけど検索してみたらクソゲー扱いされてた。なんだかクソゲーに思えてきた」

私はこれがとても異質に思える。自分がどう思ったのかではなく、誰がどう思ったのかが優先される言論社会。間違っている、ではない。奇妙だなと思うのだ。

私はSNSそのものが悪だと言いたいわけではない。ここまでの論調だと「SNSは多数派を優先する歪みを生んでいる」みたいなものに思えるが、主旨は異なる。

SNSはシステム的に良いものだ。昔なら孤立していた趣味でも、今は簡単につながれる。語れる場がすぐそこにある。こういったものを踏まえれば、間違いなく良いサービスだと思う。

ただ、その一方で、SNSは「自分の感情を形成する前に他人の評価を受け取れてしまう環境」でもあるのは否定できない。

そして、その構造そのものが、過去のオタクとの別離および変化を促している・・・・・・好きの自己完結性を弱めているのではないかと私は見ている。

なぜ自己完結性が満足に関係するのか。それは、感情形成を外部委託すると「自分の体験だった感覚」が弱くなるからだ。

人は、自分で感じ、自分で納得したものに対して強い実感を持つ。逆に、「みんなが良いと言っているから良い」と感じたものは、満足より追従感として残りやすい。

それが、ただ与えられ続ける環境としてのSNS・・・・・・その構造が与える虚無感なのではないか。

オタクが弱くなったのではない。オタクが自立しなくても楽しめる環境が成熟しつつある。

「自分だけの感想を持つ」という行為そのものが、昔より難しくなっている。その理由の一端としてSNSが作用していることを、ここでは述べたい。

好きなのに満たされないということ

こうした変化の結果として、現代の趣味には少し奇妙な現象が起きている。

「好きなものはたくさんある。でも、なぜか満たされない」

これは単純に「作品の質が下がった」という話ではないと思う。むしろ逆で、今は質も量も圧倒的に豊富だ。見るものがないなんて状況、起こり得ない。VHSに録画したガンダムを何度も繰り返し見るなんていうのはもはやファンタジーだ。

そんな中、「ずっと何かを摂取しているのに満たされない」という感覚を抱えている人がいる。それはまるで、趣味と満足の接続が欠落したような感覚。

その理由のひとつとして、現代の趣味環境が「終われない構造」になっていることが影響しているのではないかと思う。

SNSを開けば常に新しい話題が流れてきて、それらは止まらない。そして現代では「知らないこと」がそのまま不安になりやすい世情になっているのも拍車をかける。

流行に乗り遅れていないか。みんなが見ている作品を知らなくて大丈夫か。話題についていけなくならないか。

いわゆるFOMO・・・・・・取り残されることへの不安が、趣味の中に入り込んでいる。だから、本来は楽しいはずの趣味(寄り道という無駄を肯定する行為)が「追いつくための消費」になっていく。

「基礎教養が多すぎるんだよ」という映画オタクの叫びがある。「映画好きなのに◯◯見てないの?」というのはもはや呪いだ。

これはどのジャンルにも共通していて、オタクはもはや追われている。だからひとつの作品をじっくり味わう前に、次の話題が来る。考える前に、タイムラインが更新される。満足する前に、「次」が要求される。

次々と流れるおすすめコンテンツを見続けて疲弊する人物のイメージ

結果として、コンテンツとの関係がどんどん短期化していく。

作品を見ている時間より、次の作品を探している時間の方が長い。見終わった瞬間にレビューを検索している。感想を書く前にランキングを確認している。

そうやって、趣味そのものが「常時接続状態」になっていく。

映画を10秒飛ばしで見るとか、ゲームのストーリーをまとめた動画などが人気なのも結局は「効率良く摂取したいから」に他ならない。かつての楽しみをリプレイという人もいるだろうが、むしろそういう人たちは急がずにゆっくり見るだろう。

つまり、こういったものは鑑賞や体験ではなく「消費」だ。

そして、自分の意志の介在しない消費は記憶に残らない。なんとなくで選んだだけのものの存在を忘れるのは当然なのだ。そこに意思がないから。

現代人の趣味は「閉じられない」のが特徴だと思う。

かつての趣味は、ある程度そこで完結できた。ゲームのクリア、漫画の読了、映画の視聴区切り。そして、「面白かったな」で終われた。

しかし今は、作品体験のあとにSNSが接続されている。なんなら、SNS(あるいは掲示板)で実況しながらじゃないと満たされない人もいるだろう。

感想、考察、評価、炎上、他人の解釈・・・・・・作品体験が終わっても、趣味そのものが終わらない。

だから、好きが自己完結しない。

自分が面白いと思ったかどうかより、他人がどう評価しているかが気になる。

自分が満足したかどうかより、もっと面白いものがある気がしてしまう。

結果として、「好き」がいつまでも外側に開き続ける。

そして、人は本来、終わらないものでは満足しにくい。

外部評価には上限がなく、話題にも終わりがなく、比較対象も無限に存在する。だから、常に「もっと」が発生する。もっと話題の作品、もっと評価の高い作品、もっと流行っている作品・・・・・・。

この状態では、「自分はこれが好きだから満足」という地点に到達しづらいのも無理はない。

好きなものは増えているし、触れているコンテンツも増えている。それなのに、満足感だけが薄くなっていく。

もし現代の趣味に問題があるとすれば、それは「好きなものが減った」ことではない。

終わらない構造に身を置き、好きがいつまでも自分の中で完結できなくなったこと・・・・・・そこに、今の時代特有の苦しさがあるように思う。

知識量は愛の証明なのか?

「知識を通じて自分の感情を深める」という行為が、現在では他者比較に変質しやすい。特異なのは、知識量マウントの変化だ。

まず、これについては古からあった。なんならはるか昔の狩猟採集の時代からあったものだろう。ここで述べたいのは、「じゃあ俺は好きじゃないんだ」となる構造のことだ。

かつての知識量マウントは、大前提として自分がそれを好きで、そして自分が満足して、自己完結しているうえでの戦いだった。仮にそこで相手のほうが詳しくても、まさか「自分は大してこのコンテンツは好きじゃなかったんだな」なんて着地することはなかった。

だが今は「自分より詳しい人がいる」という当たり前の事実を敗北に直結させてしまう人がいる。

そして、自己主張が消える。バズっている考察に迎合するだけになる。

私はここで、「昔のオタクのように詳しくあるべきだ」と言いたいわけではない。知識量でマウントを取れとか、古参が偉いとか、そういう話ではない。

そうじゃない。問題は「どれだけ知っているか」ではなく、「自分の好きに、自分で納得できているか」なのだと思う。

昔のオタク文化には、前述した知識量マウント・・・・・・「深さ」がひとつの価値として存在していた。ただ、これは、本来そこまで攻撃的なものではなかったはずだ。

好きだから調べる。好きだから考える。好きだから繰り返し触れる。その結果として、知識や理解が積み重なっていく。これは、本来かなり自然な行為だった。

そして多分、人はこの「深く知っていく過程」の中で、自分の感情を形成している。

なぜ好きなのか。どこが面白いのか。何に惹かれたのか。そういうことを考え続けることで、「自分はこれが好きなんだ」という感覚が固まっていく。

つまり、深さとは、作品のデータベースになることではない。

自分の感情を、自分の中で育てていくことに近いのではないか。

だから、本来の深さは他人との比較ではなく、自分との対話だった。しかし今は、この深さが少し違うものとして扱われやすい。

  • 知識量
  • 履修数
  • 視聴数
  • 消費速度

こういったものの複合、つまり「どれだけ触れたか」が価値になりやすい状況ではある。その結果、「深く知る」が「大量に知る」に置き換わってしまう。

しかし、本来の深さは多分そこではない。

たとえば、本当に好きな作品について考えている時間は、案外静かなものだ。

  • 設定を読み返す
  • 演出の意味を考える
  • なぜあのシーンが好きだったのか整理してみる

そういう時間の中で、人は少しずつ「自分だけの感想」を持っていく。

そして、この「自分だけの感想」こそが、満足感につながるのではないか。

逆に言えば、どれだけ大量のコンテンツに触れても、自分の感想が形成されなければ満足は蓄積しにくい。

見た。消費した。話題についていった。でも、「自分はどう思ったのか」が残っていない。

だから、深さとは知識量ではなく「自分で納得できるところまで考えたか」なのだと思う。

他人に説明できなくてもいい。SNSで評価されなくてもいい。ただ、「自分はこれが好きだ」と、自分の中でちゃんと着地できる。

その状態が本当の意味での「深い好き」であり、こういった自己完結性が満足を生むのではないか。

おまえのオールをまかせるな

ここまで、「好きなのに満たされない」という感覚について考えてきた。

いろいろ述べてきた通り、現代の趣味環境はとにかく「外」に開かれている。誰かのなにか、が常に見られるような状況だ。

では、そこで趣味を楽しむために必要なのはSNS断ちやデジタルデトックスなのか。違うと思う。その効果は限定的で、本質じゃない。

今、改めて重要になるのは「趣味は自己完結でいい」という、ある種開き直りのような感覚ではないか。

ここで言う自己完結とは、孤立することではない。誰とも語るなとか、共有するなという意味でもない。そうではなく、「最終的に、自分が好きかどうかは自分で決めていい」という姿勢のことだ。

他人に認められなくても成立する。流行っていなくても成立する。評価が低くても成立する。

なぜなら、本来「好き」とは証明するものではなく、納得するものだからだ。

もちろん、人に共感されるのは嬉しい。同じ作品を好きな人と語り合うのも楽しい。でも、それは本来「あとから来るもの」だったはずだ。

まず、自分が好きになる。

まず、自分が面白いと思う。

まず、自分が惹かれる。

そのあとで共有する。

この順番が逆転すると、「好き」がどんどん不安定になっていく。

評価が高いから好き。みんなが褒めているから安心。話題になっているから見る。

それ自体は悪いことではない。私だって話題だからという理由、きっかけとして見た作品なんていっぱいある。ただ、それだけになると、最終的に「自分がどう思ったのか」が残らなくなる。自分に着地するか、そこが問題なのだ。

重要なのは、「正しい趣味」を持つことではなく、「自分の好きに、自分で理由を持てるか」なのだと思う。

何が好きで、何が良かったのか。こういう感覚を自分の中にちゃんと持てること。それが、趣味を消費ではなく、体験に変えていく。そして多分、人が本当に満足するのは、その瞬間なのだと思う。

誰かに認められた瞬間ではなく、ランキングに入った瞬間でもなく、「自分はこれが好きなんだ」と、自分で納得できた瞬間。

そこではじめて、好きは自分のものになる。

外部評価から離れ、自分の感想と向き合う静かな時間のイメージ

最後に、私が普段からやっていることを紹介したい。これは別にブログを書かずとも、ずっと昔からやっていたことだ。

それはシンプルで「自分の感想を先に持つこと」。ここまでの文章からすると「またか」と思うだろう。だが改めて言いたい。私はこれを意識してオタク活動を数十年と満喫している。

コンテンツを楽しんだ後、あるいは鑑賞中、感想は検索しない。スマホなんかいらない。タイマンでコンテンツとぶつかる。

そして、「自分はどう思ったのか」を考え、覚えておく。

どこが好きだったのか。なぜ印象に残ったのか。逆に、何が合わなかったのか。

うまく言語化できなくてもいい。ただ1回、自分の中に閉じる。そのあとで他人の感想を見る。開かれた世界に身を投じる。

すると不思議なことに、他人の意見に飲み込まれにくくなり、変な対立意識も生まれない。「自分はこう思ったけど、なるほどそういう見方もあるか」という形で素直に受け取れる。

たとえ大好きなものが酷評されてても「たしかにこういう見方をするとそう思えるな」という発見の気分で楽しめる。感想は人それぞれであり、自己完結しているという前提があれば、すべては等価値で平等だと思えるのだ。

これも、「感想を見るか見ないか」「SNSをやるかやらないか」ではなく、ただ順序の問題であることがわかる。孤高もよいだろう。共有も素晴らしい。しかし、まずそこではない。

最初から他人の感想を見てしまうと、「自分がどう思ったのか」より先に、正解っぽい感想が入ってきてしまう。そして自分が消える。だから、まずは自分の中に「閉じる」。

趣味はもっと自己完結でいい。

好きなようにすればいい。

もっと自由に、傲慢であればいい。たかが趣味で他人の正解に合わせ続ける必要はないと、私は心から思う。

その船を漕いでゆけ

おまえの手で漕いでゆけ

おまえが消えて喜ぶ者に

おまえのオールをまかせるな

(『宙船』/TOKIO)


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