PlayStationのディスク生産終了で何が変わるのか:パッケージ版の価値を再考する

ソニー・インタラクティブエンタテインメントが、PlayStation向け新作ゲームのディスク版生産を終了する方針を発表した。

お客様の購買トレンドや、エンタテインメント業界全体が物理ディスクからデジタルへと移行している状況を踏まえ、2028年1月以降にPlayStation®コンソール向けに発売されるすべての新作ゲームについて、ディスク版の生産を終了いたします。2028年1月以降に発売される新作ゲームは、PlayStation®Storeおよび販売店において、ダウンロード版のみの提供となります。すでに発売済みのタイトルや、2028年1月より前にディスク版として発売されるタイトルには影響はありません。

つまり、今後のPlayStationでは、ゲームを買うときの標準が物理ディスクではなく、ダウンロード版へ移っていくことになる。

もちろん、すでに持っているディスクが突然使えなくなるという話ではない。けれど、新作ゲームをパッケージで買うという選択肢がなくなっていくのだとすれば、これは単なる販売形式の変更では済まない。

実際、ネット上ではかなり反発も出ている。

  • 「もうゲームを所有できないのか」
  • 「中古で買えなくなるのは困る」
  • 「貸し借りできなくなる」
  • 「コレクションとして残せない」
  • 「パッケージを棚に並べる楽しみがなくなる」

正直、怒っている人の言いたいことは分かる。

こうした、パッケージ版がなくなることに寂しさを覚える人、怒りをぶつける人たちを、単に「時代遅れ」「面倒な人」だとか言って片づける気にはならない。

思えばパッケージ版の価値は、ディスクそのものだけではなかった。店で見つける、選ぶ、買って帰る、友達に貸す、中古で売る、棚に並べる・・・・・・そうした一連の体験が、「ゲームを買う」という行為にくっついていた。

とすると、今回の話は「ディスクがあるかないか」だけの話ではない。ゲームを買う体験、所有する感覚、誰かと貸し借りする文化、店頭で偶然出会う導線、コレクションとして残す楽しみ・・・・・・そういうものがまとめて揺さぶられているように思う。

だからこそ、反発が出るのは自然だ。

ただ、それをソニーがわかっていないとするのは少し性急に思う。

今回の判断を単に「ソニーがアホなことをした」と片づけるのは、少し違う気がするのだ。

企業がここまで大きな変更をする以上、そこには何らかの判断があるはずだ。ユーザーの反応を読めていないというより、反発が出ることを分かったうえで、それでもディスク版を標準として維持する必要はないと見たのではないか。

では、ソニーは何を見て、何を残し、何を切ったのか。

本記事ではこの施策の是非を否定肯定派閥のポジショントークとしてだけ語るのではなく、事情と、今後起きうることなどを考察していきたいと思う。

これはパッケージ派とダウンロード派の勝ち負けではない。「ゲームにおける価値の中心がどこへ移っていくのか」という話なのではないか?

扱うのは、パッケージの価値が消えたかどうかではない。パッケージが担っていた価値のうち、何がデジタルに置き換わり、何が置き換わらずに失われ、何が別の商品や体験として残っていくのか、という点だ。

パッケージによるゲーム以外の体験

まず、物理媒体ということにこだわる人の意見を、私のかつての経験を踏まえて考えたい。

そもそも、パッケージ版の価値は単にディスクが入っていることだけではない。プレイするまでの様々な流れが、ゲームの思い出を作っていた。あるいは、接触機会の関係もある。

私も、昔はゲームを買うといえばパッケージ版だった。というより、それ以外の選択肢がほとんどなかったのだ。

たとえば、学生時代はフルプライスで新作を買う余裕なんてあまりなかった。だからこそ中古ショップにはかなり助けられ、新品では手が出ないゲームでも、中古ならなんとか買えた。

これは当時、ゲームが4800円ぐらいの時代でさえそうだった。ならば、もはや新作が9800円もする今の時代、なおさら中古ショップのありがたみは大きいだろう。仮に自分が現在高校生だとして、なんとなく9800円のゲームを買おうなんて、とてもじゃないが思えない。

これを「貧乏人」「バイトしろ」と言うことは簡単だ。しかし、それで解決できるならこの体験は広く共有されない。エンタメを決められた予算から捻出することに際し、中古ショップを使うのは妥当だろう。

かつては、そうやって店の棚を眺めながら限られたお金で何を買うかを考える時間があった。

目当てのゲームを探すこともあれば、知らないゲームをパッケージだけ見て気になってしまうこともある。裏面のスクリーンショットや説明文を読んで、面白そうかどうかを想像する。今ほどレビューも動画も簡単に見られなかったから、パッケージはかなり重要な判断材料だったのだ。

ワゴンからなんとなく選んだ格安ゲームが傑作なこともあった。当時、『ドラゴンズドグマ』が500円で買ったら最高のオープンワールドゲームだった、というのは今も記憶に残っている。

ドラゴンズドグマのサムネイル

そして、ゲームを買ったあと、家に帰るまでの時間もどこか特別だった。これは親が運転する車内での記憶だ。

早く遊びたいけれど、まだ遊べない。その間に説明書を読む。操作方法だけでなく、キャラクター紹介や世界観の説明、ちょっとした設定資料のようなものまで載っていることもあった。ゲームを始める前に、紙の説明書を補助資料のように読む時間があった。

私がよく覚えているのは『ICO』の説明書だ。絵本のようなデザインになっていて、それそのものがゲームの導入として機能していた。パッケージに関する全てが、ゲームという作品を形作っていた。

ICOのサムネイル

友達と貸し借りしたゲームも、今でも妙に覚えている。内容の細かい部分は忘れていても、パッケージデザインだけは覚えていたりする。あれ借りたなとか、あれを返し忘れそうになったなとか、そういう記憶がゲーム本編とは別に残っている。

つまり、パッケージは単なる保存媒体ではなかった。

ゲームに触れる前後の時間を含めて、体験を支えていたのだ。店頭で出会い、買うかどうか迷い、家に持ち帰り、説明書を読み、友達に貸し、棚に並べる・・・・・・その全部が、ゲームを買うという行為の中に含まれていた。

中古ゲーム店の棚からパッケージソフトを選ぶ学生と、紙の説明書やゲームケースを描いたイメージ

だから、パッケージ版がなくなることに喪失感を抱くのは自然だと思う。

それは単に「箱が好き」とか「物として持ちたい」というだけではない。自分の手元に残ること。誰かに貸せること。中古として次の誰かに渡ること。店の棚で偶然見つけること。そういう物理媒体ならではの体験が、ゲーム文化の一部として存在していたからだ。

ゲームはプレイしている時間だけでできているわけではない。

その意味で、パッケージ版は「思い出の入れ物」でもあった。

今回のディスク生産終了に対して「寂しい」「困る」「納得できない」という声が出るのは当然だ。少なくとも、それを単なる懐古やアナログ信仰として雑に処理するのは違う。

パッケージには、ゲーム以外の体験が確かにあった。そして、その体験によって作られた記憶も、確かにあったのだ。

物理媒体は遊ぶための必需品ではなくなった

パッケージにはゲーム以外の体験があった。それは間違いないと思う。

ただし、そこに価値があったことと、今後もそれが標準であるべきかどうかは別の話だ。

  • 文化的価値はある
  • 個人的、体験的価値もある
  • しかし、標準的な流通形式として維持するには、別の条件が必要
  • その条件とは、利用者数、売上比率、維持コスト、企業側の運用合理性など

パッケージが「思い出や文化として価値を持つこと」と、「新作ゲームを届けるための標準的な流通形式として維持されること」は、同じではない。

前者はユーザーの体験の話であり、後者は市場全体の利用実態や維持コスト、メーカー側の運用設計の話になる。だから、パッケージの価値を認めることはそのまま「今後も標準であるべきだ」という結論には直結しない。

そもそも、ゲームの面白さとは、最終的にはゲームそのものに依存する。

実際に遊んで面白いかどうか、操作して気持ちいいか、物語に引き込まれるか、システムに夢中になれるか、何時間も遊び続けたくなるか・・・・・・そこがゲーム体験の中心だ。

だから、極端に言えば、「ものすごく面白いゲームだけどパッケージ版がないからダメ」というのは、少し不自然に感じる。

もちろん、パッケージがあることで嬉しい人はいる。限定版として箱や資料集が欲しい人もいる。コレクションとして棚に並べたい人もいる。そこには確かに価値がある。けれど、ゲームを遊ぶという中心体験だけを見れば、ダウンロード版でも十分に成立する。

まず、今のゲームはすでにかなり前からデジタル前提になっている。

ソニー自身の決算補足資料を見ると、PS4、PS5向けフルゲームソフトのデジタルダウンロード比率は2025年度通年で78%、第4四半期では85%に達している。少なくともソニーが見ている購買データ上では、パッケージ版はすでに主流ではない。

また、ソニーの会計上の区分でも、物理ソフト由来の収益はデジタルソフトや追加コンテンツに比べてかなり小さい。これは「物理媒体を標準として維持する意味が薄くなった」とソニーが判断しても不自然ではない材料になる。

数字だけでなく、利便性の面も昔とは違う。

現在、後発的なアプデやDLCは大前提だ。それによるオンライン接続、アカウントとの紐づけなどもあり、もはや「ディスクを入れればそれですべて完結する」という時代ではなくなっている。

そう考えると、物理媒体はもうゲーム体験の中心ではなく、「周辺にあるもの」になっているのだと思う。

ゲーム体験の中心にあるコントローラーと、周囲のディスクやダウンロード要素を対比した概念図

ちなみに私も、かつてはパッケージで買っていたと述べたが、ここ10年ほどはダウンロードオンリーだ。

  • 省スペース化
  • ディスク交換の撤廃
  • ディスク読み込み不良の打破

こういう便利を体験した結果、今やもう、自分はダウンロード版で十分になった。

学生だった頃の私は新作を買うかどうか迷い、そして中古でやりきったソフトを売って、そのお金で別のソフトを買う・・・・・・なんてこともやっていたが、大人になったらそんなことはしなくても問題ない財力が得られる。

ゆえに、中古ショップも縁遠い場所になった。

確かに、パッケージは思い出を作ってきた。けれど、ゲームを遊ぶためにパッケージが必要かと言われると、もうそういう時代ではない。

ここを分けて考える必要がある。

パッケージの価値を認めることと、パッケージを今後も標準として維持すべきだと考えることは同じではない。前者は思い出や文化の話であり、後者は現在のゲーム流通やユーザー体験の話だ。

物理媒体には、確かに価値があった。ただ、その価値はゲーム体験の中心から、少しずつ外側へ移っていった。

そして今回の発表は、その変化をはっきり見える形にしただけなのかもしれない。

ソニーは何を切ったのか

では、ソニーは今回の判断で何を切ったのか。

ここを雑に考えると、「ソニーはパッケージ派を切り捨てた」とか、「ゲーマーの気持ちを分かっていない」といった話になりやすい。そう感じる人がいるのは分かる。パッケージで買うことに価値を感じていた人からすれば、自分の遊び方が否定されたように見えるかもしれない。

ただ、もう少し引いて見ると、ソニーが切ったのは「ゲーマー」そのものではないと思う。

切ったのは「物理媒体をPlayStationの標準にするという設計思想」ではないか。

まず、企業は善意で動いているわけではない。

もちろん、ユーザーに楽しんでもらうことは大事だろうし、ブランドイメージも重要だろう。ゆえに大前提ではある。

けれど最終的には、利益、管理、効率化、継続性を見て判断する。企業にとって都合が悪く、維持コストも高く、今後の成長にもつながりにくい仕組みを、ただ思い出のためだけに残し続ける理由は薄い。

物理ディスクを残すということの負債は、数多くに波及する。製造、物流、小売、在庫、中古市場、パッケージごとの管理・・・・・・ゲームをユーザーへ届けるまでの経路が、いくつにも分かれているせいだ。

一方、ダウンロード版を中心にすれば、購買導線はかなり整理される。

ユーザーは自社ストアを通じて買う。アカウントに紐づき、ライブラリに入り、そこから起動する。DLCやセール、サブスクリプションとの接続もしやすい。小売や中古に分散していた購買経路を、自社のプラットフォームへ寄せることができる。

これは、明らかにソニーにとって都合がいい。

  • 流通を一元化できる
  • ユーザーとの接点を自社で持てる
  • 価格やセールの設計もしやすくなる
  • 中古によってメーカー側に利益が戻らない流れも弱められる
  • ゲームを売る場所をできるだけ自分たちの管理下に置ける

これはユーザーに不便を押しつけるだけの話というわけでもない。

ダウンロード版なら、店に行かなくても買える。ディスクを入れ替えなくていい。ライブラリからすぐ起動できる。アップデートやDLCとの接続も自然になる。パッケージを置く場所もいらない。購入から起動までの流れは、かなり単純になる。

だからこれは、「ソニーだけが得をして、ユーザーは損をする」という単純な話ではない。企業側に都合がよい変更であることは間違いないが。

言い方は悪いが、ソニーからすれば、パッケージ派は「切っても事業全体に大きな影響はない顧客層」と見なされたのかもしれない。

当然だが、ソニーがパッケージ派を嫌っているとか、古いゲーマーを排除したいとか、そういう感情の話ではない。こういうのはただの陰謀論とか、やっかみだ。

そもそも、企業は善意ではなく利益と継続性で判断する。その結果、物理媒体を標準として維持する価値は、少なくともソニーにとっては薄くなったのだろう。

たとえば英国では、2024年の箱入りゲーム売上が前年比35%減となり、新作ゲーム販売に占める箱入りゲームの比率は10.4%まで下がっている。

また、2025年の英国市場でも、フルゲームのコンソールダウンロード収益は8億5760万ポンド、物理コンソールゲームは3億1890万ポンドだった。

これらを加味すると、もちろん地域差はあるが、少なくとも一部市場ではパッケージ版はすでに標準ではなくなっているのが読める。

というか、もしパッケージ版が圧倒的な主流で、ディスクをやめれば売上が大きく落ちると分かっているなら、普通こんな判断はしないだろう。そして反発があることくらい、ソニーも分かっているはずだ。それでも実行するということは、その反発は許容できる範囲だと見積もっているのだと思う。

つまり、ソニーが見ているのは声の大きさではなく、実際の購買構造なのではないか。

ネット上では、パッケージ廃止に反対する声は目立つ。けれど、声が大きいことと、事業上無視できないほどの購買力があることは同じではない。

たとえばWindows Centralの読者投票では、物理ゲームを手放す準備ができていないという回答が71%、完全デジタル化を支持する回答が13%と報じられている。

ユーザー感情までDL一色というわけではない。厳密な市場調査ではないが、物理媒体に対する未練や不安がまだ強いことは分かる。だが、それは「そういう人たち」という母集団の結果にも思える。

企業が見ているのは、おそらくどちらの形式でどれだけ売れているのか、どちらに寄せたほうが利益率が高いのか、今後どちらを標準にしたほうが運用しやすいのか、という数字のほうだ。

ソニーはパッケージ派を憎んでいるわけではないだろう。ただ、PlayStationの次の標準を決めるうえで、物理媒体を中心に置く必要はないと判断しただけだ。

その判断が正しいかどうかは、まだ分からない。

中古ショップや小売の導線を軽く見すぎている可能性もある。コレクター層の熱量を過小評価している可能性もある。ダウンロード版だけならPCでいいと考える人が増える可能性もある。

ただ、少なくとも今回の判断は、単なる思いつきや暴走ではないと思う。これを感情的になって攻撃するのは、時期尚早ではないか。

物理流通から、PS Store中心の一元化へ。パッケージを標準にする設計から、データを標準にする設計へ。

ソニーが切ったのは、パッケージ派そのものというより、物理媒体を中心にゲームを届ける時代の設計だったのだと思う。

ゲームにおける価値の再編

今回の話を考えるうえで、ひとつ分けておきたいことがある。

物理媒体の価値がなくなることと、物理媒体が標準ではなくなることは違う、ということだ。

PlayStationの新作ゲームからディスク版がなくなるとしても、それはパッケージや物理的な商品に価値がなくなったという意味ではないはずだ。むしろ、価値の置き場所が変わると、私は予想する。

まず、これまでのパッケージ版は通常の商品だった。

ゲームを買うとき、ディスクが入った箱を買う。それが当たり前だった。店に行けば棚にソフトが並んでいて、新作も旧作も中古もそこにあった。ゲームを買うという行為は、物理的な商品を手に入れることとほとんど同じだった。

けれど、今後はそこが変わっていく。

通常版としての物理媒体は、おそらく不要になっていくだろう。少なくとも、ゲームを遊ぶための標準的な手段ではなくなる。ゲーム本編はダウンロード版として提供され、アカウントに紐づき、ライブラリから起動する。場合によっては、限定版を買っても中に入っているのはディスクではなく、コードになるかもしれない。

ただ、それで物理的な商品が完全に消えるとは思わない。

むしろ、物理的なものは、ゲーム本編を届けるための媒体ではなく、ゲーム体験を拡張するための商品へ移っていくのではないか。

  • 設定資料集
  • アートブック
  • サウンドトラック
  • フィギュア
  • ステッカー
  • ポスター
  • 限定ケース
  • 開発者コメント
  • メイキング冊子

こういったものをまとめた特装版や限定版として、物理商品は残っていく。ゲーム本編はデータで遊び、その周辺にある「持っていたいもの」「飾りたいもの」「読みたいもの」「記念として残したいもの」が物理として販売される。

つまり、物理媒体は消えるのではなく、標準から特別へ移る。

かつて当たり前だったパッケージ購入は、これからは「あえて選ぶ体験」になっていく。

通常版パッケージから特装版やアートブックなどへ物理商品の役割が移る様子を示した図

これは音楽に近いのかもしれない。

音楽も、かつてはCDを買うことが標準だった。好きなアーティストの新譜を買う。ジャケットを見る。歌詞カードを読む。棚に並べる。友達に貸す。そういう体験が音楽を聴くことの周辺にあった。

けれど今は、音楽を聴く中心はサブスクや配信に移った。聴きたい曲を検索すれば、すぐ聴ける。アルバムを買わなくても、気になった曲に触れられる。移動中でも、作業中でも、何千曲ものライブラリにアクセスできる。

では、CDの価値が完全に消えたのかというと、そうではない。

CDは標準ではなくなっただけで、限定盤や特典付きの商品としては残っている。ライブも同じだ。音源を聴くだけなら配信でいい。けれど、ライブに行くこと、グッズを買うこと、限定盤を手に入れることには、また別の価値がある。

音楽の価値が消えたのではない。

音楽体験の中心が、「物として所有すること」から「すぐ聴けること」へ移った。そのうえで、CDやライブや限定盤は、音楽体験を拡張するものになった。

さらに言えば、現代でわざわざレコードを使うのも「贅沢な現物」という楽しみ方のひとつだろう。このように、デジタルにすべてが駆逐されるわけじゃなく、そこに「あえての価値」が生まれる可能性はある。

ゲームも、それに近づいているのではないか。

ゲームを遊ぶ中心は、ディスクを持っていることではなく、実際に起動して遊ぶことへ寄っていく。買ったらすぐ遊べる。ライブラリから選べる。アップデートもDLCも同じ導線で管理される。遊ぶという体験は、よりデータ中心になっていく。

その一方で、物理的なものは、思い入れのある作品をより深く楽しむための拡張体験になっていく。

通常版はダウンロードでいい。でも、本当に好きな作品なら設定資料集が欲しい。サントラが欲しい。アートブックが欲しい。限定グッズが欲しい。開発資料やメイキングを読みたい。そういう形で、物理商品は残る。

この変化を、「パッケージの価値が死んだ」と見ると、少し単純すぎる気がする。

価値は消えていない。ただ、置き場所が変わった。

かつては、ゲーム本編を遊ぶために物理媒体が必要だった。これからは、ゲーム本編を遊ぶだけなら物理媒体は必要なくなる。

その代わり、物理媒体は「特別に残したい作品」「より深く味わいたい作品」「所有すること自体に意味を感じる作品」のためのものになっていく。

だから今回の変化は、価値の消滅というより、価値の再編なのだと思う。

パッケージは否定されたのではない。ただ、当たり前ではなくなった。

ゲームを買うことの中心が、箱を手に入れることから、データにアクセスして遊ぶことへ移っていく。そのうえで、物理的なものは、遊ぶための必需品ではなく、体験を拡張するための特別なものになっていく。

それは寂しい変化でもある。けれど、価値がなくなったというより、価値の役割が変わったと見るほうが近い。

それでも、失われるものはある

ここまで書いてきたように、ダウンロード版を中心にすることには合理性がある。

けれど、合理的だからといって、失われるものがなかったことにはならない。

特に大きいのは、中古ショップの存在だと思う。

前述した通り、私が学生のころは中古ショップにかなり助けられた。中古ショップは単なる安売りの場所ではなかった。ゲームに触れる入口だったのだ。

中古で買ったゲームをきっかけに、そのシリーズを好きになることもある。中古で前作を遊んだからこそ、新作を発売日に買うこともある。安く触れる入口は、必ずしもメーカーにとって敵だけではなかったはずだ。

友達との貸し借りも同じだ。

ゲームを貸す、借りる、返す、感想を話す・・・・・・それは、ゲームをめぐる小さな流通でもあった。お金を払って買う前に、誰かの持っているゲームに触れることができた。自分では買わなかったかもしれない作品に、偶然出会うことができた。

中古売買や貸し借りは、いわばユーザー側の自由度だったのだ。

買ったものを売れる、誰かに貸せる、中古で安く買える、棚に残せる、自分の判断で手元に置くことも手放すこともできる・・・・・・そこには、ゲーム市場の中でユーザーが自由に動く余地があった。

一方で、ダウンロード中心になると、その余地は弱くなる。

ユーザーは、より強くプラットフォーム価格に依存することになる。安く買う方法は、公式ストアのセールやサブスクリプションに寄っていく。

もちろん、それはそれで便利ではある。セールを待てば安く買えるし、サブスクでいろいろなゲームに触れられる場合もある。ただ、それはあくまでプラットフォーム側が用意した選択肢だ。

中古ショップの棚を見て、自分で掘り出し物を探す。友達から借りる。遊び終えたゲームを売って次のゲーム代にする。そういうユーザー側の自律的な動きは、ダウンロード版中心の世界ではかなり制限される。

パッケージとは、単なる箱ではない。ユーザーがゲーム市場の中で自由に動くための余地でもあった。

だから、パッケージ版がなくなることへの反発は、単なる懐古ではないと思う。物理媒体が好きだから怒っている、というだけではない。自分で買い方を選び、自分で手放し、自分で誰かに貸し、自分で安く触れることができた。その自由度が減っていくことへの不安がある。

便利になったからといって、失われるものがなかったことにはならない。

そして、その入口が今後も同じ形で残る保証はない。

ゲームを遊ぶこと自体は、ダウンロード版でも問題なく成立する。むしろ便利になる面も多い。けれど、ゲームを買う前後にあった体験や余地は、少しずつ薄くなっていく。

それはゲーム体験そのものの劣化ではないかもしれない。けれど、ゲームをめぐる体験の一部が失われることではある。

ダウンロード版への移行は、たしかに自然な流れだと思う。でも、その流れの中で失われる入口や自由度があることも、忘れてはならないのだ。

中古売買や貸し借りがある物理市場と、公式ストアへ集約されるデジタル市場を比較した図

時代は変わる。自分も変わる

ずっと昔、GEOのワゴンの中に変なパッケージを見かけた。とにかく異様、変だった。なんとなくの気分で買ったゲームは、私にハクスラというゲームの面白さを教えてくれた、革命的な一作だった。

そのタイトルは『煉獄 弐 RENGOKU II The Stairway to H.E.A.V.E.N』。今も「知る人ぞ知る」扱いのマイナーな作品だ。

煉獄弐のサムネイル

こういう思い出は、私のみならず、ゲーマーには多くあることだろう。WonderGOOやおじゃま館、古本市場で、カセットのみが包装された作品などを買った経験はあるはずだ。

こういうものは、ゲームが面白かったとか面白くなかったとかひっくるめて、体験の一部だった。だからパッケージにこだわる人を邪険にはしない。わかるよ、と思う。

その記憶を、今さら「古い」とか「不要だった」とか言う必要はない。ただ、過去の体験が本物だったことと、その形式が今後も標準であり続けることは別の話だ。

時代は変わる。ゲームの買い方も変わる。ゲームとの付き合い方も変わる。

この変化には、便利さと喪失の両方がある。

すぐ買える、すぐ遊べる、ディスクを入れ替えなくていい、場所を取らない。それは間違いなく便利だ。

一方で、中古屋で偶然見つけること、安く買って試すこと、友達に貸すこと、棚に残すこと、説明書を読むことは薄く(あるいは説明書そのものが存在しなく)なっていく。この喪失もまた事実だ。

この話を単純に「良い変化」や「悪い変化」と言い切るのは難しい。

ソニーの判断は、企業として見れば不自然ではない。物理媒体を維持するより、データ中心に一元化したほうが都合がいい。ユーザーにとっても便利な部分は多い。

しかし、ユーザー側からすると「気持ち」という数字では測量できないものがどうしても立ちふさがる。それが、今回の炎上につながるのだ。

変化に納得することと、喪失を感じることは両立する。

これはゲーム文化のひとつの区切り、終わりではない。ゲームの思い出が、これまでとは違う形で作られていく時代になった、という話なのだと思う。

ゲームを遊ぶという体験の中心は、もう箱やディスクではなくなっている。物理媒体の価値は否定されたのではない。ただ、標準ではなくなった。

だから自分も、過去の思い出を持ったまま、変わっていくしかない。

これからのゲーム体験は、昔と同じ形では残らない。けれど、別の形でまた思い出になっていく。そういう時代の節目が、今なのかもしれない。

参考文献


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