【ワイルドハーツ】なぜ評価が割れたのか:モンハンライクを脱した差別化の構造

今やひとつのジャンルにもなった『モンスターハンター』シリーズ。モンスターと戦い、素材を集め、装備を作成、強化し、さらに強敵へ挑む・・・・・・そうした設計のゲームを総じて「モンハンライク(狩りゲー)」と呼ぶ。

ポータブルゲーム機とマルチプレイの相性は抜群で、一斉を風靡した狩りゲー。これの流行りに乗り、歴代で数々の後追い作品が生まれた。

だが、ライクはただ似ているだけでは没個性化する。「それじゃないといけない何か」が無ければ、待っているのは「モンハンでいいじゃん」という至極まっとうな一言だ。だから各作品は差別化を行う。

たとえば『SOUL SACRIFICE』は、狩りゲーの骨格に物語と世界観を過剰なまでに積み増し、別物にしてみせた。

『ゴッドイーター』も同様に、当時のモンハンとは正反対のハイスピードアクションを掲げ、別軸の楽しさを提供した。

いずれも「モンハンでいい」とはならない、独自性を獲得した立派なシリーズだ。他にも『討鬼伝』など、モンハンを起点にしつつ「らしさ」を獲得した作品は少なくない。

そして『WILD HEARTS』もまた、似て非なる中身を持っている。

しかし、それは単に「からくりが面白い」といった挑戦的、あるいは表層的な差別化ではない。ある意味での「原点回帰」なのではないかと感じる。

本作は一見すると典型的なモンハンライクに見える。巨大なモンスターと戦い、素材を集め、装備を整えてさらに強敵に挑む・・・・・・この構造だけを切り取れば、狩りゲーの系譜にある作品だと言っていい。

しかし実際にプレイすると、どこか手触りが違う。同じように狩り、同じように戦っているはずなのに、体験の中心にあるものが微妙にズレている。

この違和感は、武器やモンスターの出来の話でも、アクションの質や難易度の話でもない。

もっと根本的な部分・・・・・・このゲームが「何を攻略対象としているのか」が違っているのだ。

では、ワイルドハーツは何を攻略しているゲームなのか。モンスターなのか、それとも別の何かなのか。そして、差別化をどう成功させたのか。

本記事ではその問いについて、考察を述べていきたい。

「狩り」とはなんだったのか

ワイルドハーツは、ある意味で原初のモンハンに最も近いゲーム・・・・・・これを言う以上、定義を共有すべきだ。ということでまず、「原点としての狩り」とは何だったのかを考えていく。

原点・・・・・・これは操作性や快適度、ゲームとしての様々な質のことではない。そもそも、2004年と2023年のタイトルを機能面で比較するのは妥当ではないだろう。

ここで述べたいのは本質部分、つまり「狩りという行いに対しての向き合い方」を指す。本作はここがかなり昔のモンハンに似通っている。

では一度、狩りゲーの行為そのものに立ち返ってみる。原点はどういったものだったのか。述べたいのは「モンハンかくあるべき」という原理主義ではなく、行為の整合性についてだ。

一般にゲームとしての狩りは「モンスターと戦うこと」と捉えられがちだが、本来の構造はそうではない。

狩りの原点は、戦うことそのものではなく、「勝てる状況を作ること」だった。

前提として、相手は自分より遥かに強い存在だ。体躯も、体力も、膂力も、そのすべてのスケールが異なり、真正面からの殴り合いで勝てるような条件にはなっていない。

つまり、圧倒的不利がスタート地点になる。

そこで必要になるのが準備と工夫だ。

地形を利用する、罠を仕掛ける、導線を制御する、装備を整える、行動パターンを把握する・・・・・・こうした要素を積み重ねることで、初めて「戦える状況」が成立する。

このとき重要なのは、戦闘そのものはあくまで結果に過ぎないという点だ。勝敗は戦闘中の一瞬の判断だけで決まるのではなく、それ以前の準備と設計によって大きく左右される。

非常に大きな生態系の中に捕食者と被捕食者が存在し、人間(ハンター)はそこで必要分を得るために画策する。蹂躙ではなく、確保するための手段としての狩り。

したがって、ここでの定義はこうなる。

狩りの原点とは、ハンター単体の性能ではなく、環境、準備、知識を含めた全体で問題を解決する構造。

狩りの原点は戦闘ではなく準備と環境で勝利条件を作る構造であることを示す図

この視点を基準にすると、現代の狩りゲーがどの方向に進んでいったのか、そしてワイルドハーツがどこに位置しているのかが見えてくる。

本作は変わった狩りゲーと見なされがちだが、実は最近の本家作品よりも真っ当に狩りをやっているとも言える。そしてそこがワイルドハーツのキモだ。

では、現代のモンハンはどうなっているのか・・・・・・この変化を確認していこう。

現代ハンティングアクションの変化

原点から見て、現代のモンハン・・・・・・それに限らず、狩りゲー全体はどう変化してきたのか。

結論から言えば、現在主流となっているハンティングアクションは、「戦闘そのもの」を主目的とする方向へとシフトしている。

それこそモンハンは、一撃で怯ませる必殺技や蟲を用いた空中機動などが実装され、とにかくハンターの強化が著しい。現在も環境利用や準備の要素は確かに存在しているが、ハンター自身の性能はかつてに比べ大きく拡張されている。

今やプレイヤーは、モンスターと正々堂々正面から渡り合える「超人的な存在」へと変貌した。

そしてこの変化に伴い、勝敗を分ける要素も変わった。重要なのは地形の使い方や準備の巧拙ではなく、アクションの精度になったのだ。

  • 攻撃の予備動作を見極める
  • 適切なタイミングで回避する
  • 隙に正確に差し込む

こうした瞬間的な判断と操作の積み重ねが戦闘の質を決める。いかに生きるか、よりも、いかにスタイリッシュに狩るかどうか・・・・・・ある意味で勝利が前提とされるのが現代の狩りゲーだ。

つまり、戦闘は「結果」ではなく「目的」へと変わった。

モンスターに勝つために戦うのではなく、戦闘そのものを成立させ、最適化することが遊びの中心になった。

ここで対比が明確になる。

  • 現代のモンハン:自己強化型
    • ハンターの性能と操作精度を高めて問題を解決する
  • 原点としての狩り:環境利用型
    • 環境、準備、知識で不利条件を覆す

実際、私も昨今のモンハンをプレイしていて、道具というのがさして重要じゃないという気分をよく抱く。別に何も持ち込まずとも割とどうにかなったりしてしまうため、最低限の回復アイテムしか携行しなかったり。

もちろんそこで各種アイテムがあればもっと楽にはなる。しかしそれは必要条件ではない。多少楽になる、程度の存在感だ。

さて、ここでひとつ言っておきたいのが、以上は「今のモンハンはおかしいよ、昔のオールドスタイルなモンハンが最高だったよ」という懐古的な論ではないということだ。

「いやモンハンも昔から罠とかあったよね?」というのは正論だ。また実際、昨今のモンハンにも依然として環境要素が存在する。ただ、その比重は戦闘に寄っているということを主張したいのだ。

私は今のモンハンが大好きだ。自由自在に戦闘を楽しめる今のシステムを嫌だなと思ったことはなく、むしろ非常に好感触を得ている。

しかし、ゲリョスを倒すのにあらゆるアイテムを総動員し、ゆっくりじっくりと戦うのは、現代ではもうなかなかに厳しいものがある。それよりもバッタバッタとなぎ倒すデザインに爽快感を感じるのは自然だろう。

ここでは、昔と今のモンハンのどちらが優れているのか・・・・・・こういった是非を語るのが主軸ではない。狩りゲーの変化としてこういう側面がある、ということを述べるに留める。

狩りゲーへの原点回帰

前述した通り、狩りゲーの原点とは、理不尽に対する問題解決、およびその準備だった。

そしてワイルドハーツ特有の要素である「からくり」。これはまさしくその本質をついている。シビレ罠のような、無力化する装置に限りなく近い。

いわば、本作は「戦うゲーム」ではなく、「勝てる条件を設計するゲーム」だ。

からくりは一見すると罠や補助アイテムの延長のように見えるが、実際には役割がまったく異なる。これは単なる戦闘補助ではなく、戦闘の前提条件そのものを変える装置なのだ。

  • 攻撃を回避するのではなく、そもそも当たらない位置関係を作る
  • 敵の行動に対応するのではなく、行動を制限する
  • 不利な状況に適応するのではなく、有利な状況を構築する

こうした介入が可能になることで、プレイヤーは「戦い方」を選ぶのではなく、「戦いが成立する状況そのもの」を作る側に回る。

そしてこの構造は戦闘に限らない。移動や探索にも同じ思想が貫かれている。

高低差の激しい地形、遠回りを強いられる導線、アクセスの悪いエリア・・・・・・これらは通常であればストレス要因として処理されるが、本作ではそれらが攻略対象として提示される。

飛蔓や旋風台、一輪馬といったからくりを使い、導線を引き直し、移動効率を再設計する。つまりフィールドは「与えられるもの」ではなく、「作り替えるもの」になる。

ワイルドハーツのからくりを設置したマップ画像

プレイヤーが向き合っている対象はモンスターだけではない。狩り場そのものが攻略対象へと拡張されている。

したがって、本作を単なる狩りゲーと呼ぶのは不正確だ。

ワイルドハーツは「狩りゲー」ではなく、「狩り場攻略ゲーム」だと見るのが適切だろう。

本作は差別化に成功したと言うより、現代的な遊びやすさを以て本質をリファインしたと言える。本来の姿に戻る・・・・・・それが結果として「差別化」になったのだ。

理不尽すらも遊びと見なす

では、ワイルドハーツは問題解決をどのように行っているのか、どう可能にしているのか。

本作特有の体験であり、賛否を生む要因になっているのは「不利条件に介入できる設計」だ。これは「ゲーム内の遊びとしてのUX改善」とも言える興味深い要素になっている。

まず、通常のゲームにおいてプレイヤーが直面する不利条件は、基本的に「受け入れるもの」となる。

  • 敵の攻撃は避けるか耐えるしかない
  • 地形は最初から決まっている
  • 移動の不便さは我慢するしかない

これらは前提として固定されており、プレイヤーはその制約の中で最適な行動を選ぶ。困難や問題に対してどうにかするのがゲーム設計の基本だ。

しかし本作では、この前提が崩されている。では改善を前提とした設計とは具体的になにか。以下では戦闘と移動、この2つについて見ていく。

クソモンスに対応する

本作における敵の攻撃は、単に受けるか回避するかの対象ではなく、からくりによって対処、無効化、制御できるものとして設計されている。

攻撃そのものの成立条件に干渉できてしまう・・・・・・というか、そうやって対処することを前提に、理不尽とも言える攻撃を行ってくるのだ。

たとえば序盤の難敵であるヤマウガチ。これはまさしくワイルドハーツのイャンクックで、本作の遊び方を徹底的に教えてくれる。

ヤマウガチの画像

ヤマウガチの攻撃は基本的に広範囲かつサーチが強烈と、序盤にでてきて良いスペックをしていない。仮にモンハンに登場したら間違いなく「クソ」と評価されるだろうモーションの塊だ。

実際、私も初見時は相当キレた。「こんなん無理だろ」「調整ミスってる」と悪態をついたのは記憶に新しい。

しかし、これこそがワイルドハーツ特有の問題設定であり、ゆえにモンハンと同じ思考で処理するとドツボにハマる。

ヤマウガチの攻撃への対処は普通の回避ではほぼ安定しない。そこで活用すべきなのがからくり、発だ。これには非常に長い無敵時間が設定されており、面白いぐらいノーダメで処理できる。

からくりを使った途端、戦況が激変する。それは回避だけでなく攻撃も同様。ただ殴るよりも圧倒的に強い。この気付きを与えてくれるのがヤマウガチだ。

ヤバいと思ったらからくり(アイテム)、ではなく、からくりでどうにかするのが前提・・・・・・これがワイルドハーツの根幹となる。

からくりはもはや補助アイテムではなく、戦闘のOSなのだ。

クソマップを改善する

ワイルドハーツのマップはオープンフィールド型だ。

まず、そもそもオープンワールドとオープンフィールドとはなにか。この区切りは明確にはないが、ここでは一応の方向性として以下にまとめる。

観点オープンワールドオープンフィールド
空間完全に連続エリア分割
導線弱い(自己発見)強い(設計誘導)
自由度目的レベルで自由手段レベルで自由
体験の核探索、発見戦闘、シナリオの最適化

この定義に則って言うと、本作は「オープンフィールド寄り」と見れる。ただ実体はそれよりレイヤーが上の、「設計介入型フィールド」だ。

ワイルドハーツは「決められたエリア内で環境を設計してね」という遊び方を指定している。これはたとえば、モンハンのような「敵を倒すという目的」に対する「手段としてのエリア」とは少し異なる。

単なるオープンフィールドが「戦い方」という手段の自由を許容するものなら、一方の本作は手段+環境の自由(戦いの場そのもの)を内包している。

さて、拡張型オープンフィールド・・・・・・こういった設計となる本作のマップは、初期時点ではクソと呼ばれても仕方ない全貌を持つ。なんとファストトラベルが1つしかないのだ。これは常識的に考えるとかなり歪に見える。

だが、これは設計ミスではない。

本作ではクソマップすらも問題設定として扱われている。ファストトラベルをどこに設置するか、導線をどうするのか、こういったものすら遊びに昇華しているのだ。

  • 幕屋:ファストトラベル
  • 櫓:共鳴するソナーで全域をカバー
  • 飛葛:ジップラインで高所移動
  • 旋風台:高所移動だけでなく本質は落下軽減

数々の龍脈からくりで環境すらも意のままに変えられる・・・・・・これが非常に特殊だ。ゲーム進行やイベントで道ができるとかではなく、自分で開拓する。まさしくインフラ整備、UX改善そのもの。

より良く快適な戦場を作るにはどうしたらいいのか。それを考え、実際にインフラの整ったマップを駆け巡る快感は、他のゲームにはない格別さがある。

遠回りやアクセスの悪さを耐えるのではなく、導線そのものが設計する対象になる。結果として、移動効率はプレイヤーの工夫に依存し、明確なフィードバックが生まれる。

高低差や障害物といった要素が固定された環境ではない。本作におけるそれはプレイヤーが再構成できるリソースだ。ゆえに移動経路や戦闘ポジションは「与えられるもの」ではなく「作り替えるもの」になる。

嫌なら自分でどうにかする、自分でどうにかできる・・・・・・これは狩りゲーとしては新しい「環境への自己効力感」。本来、理不尽は制約(ルール)であるのに。

これらに共通しているのは不利条件が「前提」ではなく「操作対象」になっている点。この時、ゲーム内で起きている構造はこうなる。

  • 不利条件
    • →プレイヤーが介入できる
    • →「どう対処するか」という問いに変わる
    • →解決手段を実行する

つまり、不利はそのままストレスとして残るのではなく、問いとして再定義される。

「いや普通にイライラするだけでは?」と思う人もいるだろう。確かに、単なる理不尽や破綻はストレスだ。

しかし本作はその対処が異なる。「対応手段が存在する」とプレイヤーが認識できるからこそ、ストレスに終わらない。解決不能な理不尽はストレスになるが、解決可能な問題は思考の対象になるのだ。

この設計があるからこそ、本作では不便や厄介さが単なる理不尽で終わらない。むしろ、掃除しがいのある部屋のように、不思議な高揚感すら生まれる。

プレイヤーの介入可能性・・・・・・状況そのものを変えられる仕様と、遊びに改善の余地が常に残されていることが、没頭のためのエネルギーを生んでいるのだ。

問題解決という面白さの正体

ここまで見てきた要素はすべて、個別の工夫ではなく共通した設計思想に基づいている。

本作は、戦闘、移動、探索のすべてにおいて、不利条件をプレイヤーが設計し直せる構造を持つ。つまりこれは、環境設計という1つの軸に統合されたゲームだ。

問題の改善・・・・・・ワイルドハーツの面白さの根源はここにある。だが、これは面白さとどう関係しているのか、何が面白いのだろうか。

面白さには「わかってても刺激されない」というものが存在する。仕組みはわかっても「そうなんだ」で終わってしまうようなものは、一般的に「コア体験が弱い」と言われる。

世の中にある強烈な中毒性を生むものは、仕組みそのものが面白いと言うより、脳の報酬系を刺激するから役割を全うできている。不確実性をベースにしたハクスラなんかは良い例だろう。

では、ワイルドハーツのコア・・・・・・UX改善というこの構造はなぜ面白さに繋がるのか。

その理由は「主体的に問題を解決できること」にある。

前章でも触れたが、一般的なゲームにおいて不利な状況や厄介な挙動は「乗り越えるもの」として提示される。その中でどうするか、というルールとしての制約。

だが本作は理不尽に感じる状況であっても介入できる余地がある。すると、制約は問いに変わる・・・・・・ということをここまでで説明した。

本作の素地には主体性の担保・・・・・・納得感が付随している。

問いに対して、自分なりの解法を試し、機能し、状況が改善される。ゲームにはそれを受け入れる土壌と、やっていいという受容が存在する。

ある意味で数学に近い。

前提があり、使えるものもあり、そしてどう崩すかを考えるのが初手。手を付ける場所とその全体図を把握し、試行錯誤を行う。その結果「効率的な(美しい)解法」というフィードバックを得られる。

やがて、この一連のプロセスそのものが快感になる。ここにあるのは、自分次第でいくらでもどうにかなるという、肯定感だ。

得られる満足は単なる成功体験ではない。「操作が上手くいった」ではなく、「解法がハマった」ことによる納得だ。

不利条件が問いに変わり、解決によって快感が生まれる構造図

したがって、本作における上達の意味も変わる。

  • 一般的狩りゲー:操作精度を高め、行動の正確性を上げる
  • ワイルドハーツ:状況に対する解法を設計し、より適切な手段を選ぶ

ここには明確な違いがある。

前者は、プレイヤー自身の技量を高めることで問題を解決する。後者は、問題の構造を理解し、解き方そのものを組み立てることで解決する。

この違いを一言で整理すると、スキル成長型から構築成長型へのシフトだ。

だからこそ本作の快感は、反射や精度の向上ではなく、問いに対する最適解を見つけたときの全能感に近いものになる。

逃げるモンスターのルートを把握し、手間が少なく先回り可能な経路を確保したり、あるいは必要な食材を自動化して自分は戦うだけの状態にしたり。

すべてが問いであり、その解法は個人の自由で、そしてそれらは思い通りに実現できる。

考え抜いたパズルのピースが上手く噛み合ったときの気持ちよさ・・・・・・これに似た快感。ワイルドハーツは、「自分で狩りを組み立てる」という面白さを演出しているのだ。

なぜ評価が割れるのか

しかし、「だからこそ微妙」という評価もされている。

問題解決という面白さの理由はあるし、それを支える操作性やアクションの洗練さも満たしている。だが実情は「そこまででもない」。

公式売上発表の不在やSteam同接の典型レンジに収まること。また、継続や展開の弱さから判断すると、少なくとも「非常に売れた大人気タイトル」とまでは言えないだろう。

もちろんこれは内容の評価にはかかわらない。「ゲームが売れないのは面白くないから」ということは成立しない。

熱意のあるファンによって地道に売れるという現象はあり得る。しかし、本作は口コミによる波及が少ない。これには「紹介しづらい」という側面が考えられる。

結果、本作は「好きな人は好きだけど」という評価に落ち着く。では、その原因はいったいなんだろうか。

理由は複数あるが、大きいものをひとつ。問題の本質はプレイヤーが期待していた体験と、実際に提供される体験のズレにあるのではないか。

まず、多くのプレイヤーがこの手のゲームに求めているのは、あくまで「戦闘そのもの」だ。強力なモンスターと対峙し、攻撃を見切り、回避し、隙を突く・・・・・・その過程でアクションの精度を高めていくことを渇望する。

しかし、本作が提供している体験はその前提とは異なる。そもそも戦闘の位置づけが根本的に違うのだ。

  • 一般的狩りゲー:戦うことそのものを成立させ、最適化する
  • ワイルドハーツ:勝てる状況を設計した結果として戦闘がある

戦闘が目的である場合、準備や環境要素はあくまで補助であり、必要最低限であればよい。一方で戦闘が結果である場合、それ以前の設計や構築が体験の中心に来る。

ワイルドハーツはほぼ後者だ。だから新マップでは「観光」じゃなく「調査と改善」が毎回始まる。インフラを毎度構築する必要がある・・・・・・バトルを求めている人にとっては苦痛だろう。

本作では、からくりやインフラ整備といった要素は「あれば便利なもの」ではなく、「避けて通れない前提」になっている。

ここでズレが生まれる。

プレイヤーは戦闘を求めているのに、ゲームは設計を要求してくる。その結果、「出来は良い」「面白さも理解できる」と感じつつも、どこか納得しきれない感覚が残る。

このズレの本質は快感の発生タイミングにある。戦闘主体のゲームは即時的な操作成功に快感があるのに対し、本作は準備や設計が機能した結果として後から快感が訪れるのだ。

そして、最終的に評価はこう収束する。

面白いが、求めていたものではない。

この感覚こそが、ワイルドハーツにおける誠実な評価じゃないだろうか。

からくりを前提にした戦いも、「こういうのじゃない」と思った人はおそらく多い。事実、トロフィー取得率を見ても、およそ30%のプレイヤーがヤマウガチで離脱しているのは、本作特有のコア設計が受け入れられないからだろう。

身一つでモンスターと戦いたい・・・・・・これは他の狩りゲーなら当たり前の信条だが、ワイルドハーツでは成り立たない。からくりは前提なのだ。

この仕様を受け入れられるかどうかが大きく、そしてモンハンから流れてきた人たちは受け入れられなかったのではないか。「つまらない」のではなく「そうじゃない」。

モンハンとワイルドハーツの違いを示す比較図。戦闘主体と環境設計主体の構造の対比

つくづく、本作は明確に向き不向きが分かれる設計をしていると思う。

プレイヤーに求められるのは操作精度ではない。状況を観察し、どのからくりをどう配置すれば有利になるかを考え、試し、修正する・・・・・・こういった「設計そのもの」を楽しめるかどうかが体験の質を大きく左右する。

逆に言えば、この部分に価値を見出せない場合、本作は途端にノイズを多く含んだゲームになる。

  • 戦闘に集中したいのに、設置を要求される
  • 移動を最適化したいのではなく、すぐに戦いたい
  • 準備や構築よりも、直接的な殴り合いを楽しみたい

こうした志向のプレイヤーにとって、からくりやインフラ整備は「余計な工程」として映る可能性が高い。したがって、本作の体験が成立する範囲は明確に限定される。

からくりや環境設計を積極的に使い、状況を作り替えること自体を楽しめるプレイにおいてのみ、このゲームの本質的な面白さは成立する。

それを前提としない遊び方では、本作の設計意図と体験が噛み合わない。

この「適用範囲の限定」を理解することが、ワイルドハーツを正しく評価するための前提になる。一般的な狩りゲーの文脈で本作を語ると、どうしても「めんどくさいゲーム」になってしまうのだ。

ワイルドハーツはある意味での正当進化だ

ワイルドハーツは、狩りゲーの原点回帰を行い、「環境設計型ゲーム」として再定義した作品だ。

従来のハンティングアクションにおいて、戦闘の外側にあった要素・・・・・・準備、移動、地形、導線といったものは、あくまで補助的な役割に留まっていた。しかし本作はそれらを切り離さず、ゲームの中心に引き上げた。

戦闘を有利にするための要素ではなく、戦闘を成立させるための前提として再構築した。

その結果、不利条件の扱いも変わる。

通常であれば排除されるか、あるいは受け入れるしかないものとして処理される不便や制約が、本作ではそのまま残される。ただしそれは放置ではない。プレイヤーが介入し、設計し、改善するための攻略対象として提示される。

この構造によって、狩りの本質は再び変わる。

戦うことが中心ではなく、勝てる状況をどう作るかが中心になる。

それは、ハンター個人の性能を拡張し続けてきた現代的な進化とは異なる方向だ。むしろ、環境と準備によって格上に対抗するという、狩りの原点に近い構造を再構築している。

したがって本作は、モンハンの代替ではない。同じジャンルの中で競合する存在でもない。

狩りゲーという枠組みの中で、別系統の進化を提示したものであり、それが特有の価値を生んだ稀有な差別化作品だ。

その試みは、狩りゲーというジャンルの可能性をもう一段拡張した。

大自然に対し、人間は使えるものを使って挑む・・・・・・こうした原初の営み、ある意味でのコア体験を現代的なゲーム性に落とし込んだ本作を、私は愛してやまない。


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