【サブノーティカ】ホラーゲームではないのになぜ怖いのか:未知が生む恐怖と好奇心

『Subnautica』を始めて間もなく、目に入ったのは、周囲を覆い尽くす水平線だった。陸地はない。自分が立っていられる場所は、二畳ほどに見える救命ポッドの上だけ。広大な海に比べれば、それは足場と呼ぶに心もとない。

救命ポッドから見渡したサブノーティカの広大な海と水平線

私は恐怖を感じた。

何かに襲われたわけではない。恐ろしい姿の生物を見たわけでも、逃げ場を失ったわけでもない。それなのに、とても怖かった。

サブノーティカはよくホラーゲームだと言われる。実際、ユーザーが定義したタグでもそれは機能しているし、既プレイヤーは決まってこう言う。「そんじょそこらのホラーよりよっぽど怖い」と。同感だ。

なのだが、本作は単純なホラーゲームではない・・・・・・というか、ホラーゲームの括りにあるのは少し場違いな気もする。言いたいことは分かるが、これはかなり冗談めいた表現に近い。

ホラーゲームと言えば「そういう雰囲気」で、「そういう体験をするもの」という文法がある。驚かせること、怖がらせることを前提としたアトラクションのようなものだ。

それに対し、本作は少しデザインが違う。ホラーの要素はあれど、暗い通路から怪物が飛び出してきたり、限られた武器で追跡者から逃げ回ったりすることなどを中心に据えたものではない。

ならばホラーゲームではないのか?

ここで文法を無視し、定義を「怖いゲームかどうか」で判断すると、答えは簡単になる。

めちゃくちゃに怖い(≒ホラーゲーム)。

ただ、サブノーティカにあからさまなジャンプスケアなどはほとんどない。怖がらせる「わざとらしさ」が少ないのだ。にも関わらず、強い恐怖を感じるゲーム性だ。VRでやったら発狂するだろうな、と思えるぐらいには恐ろしい体験が存在する。

では、何も起きていないのに、なぜ怖いのか。

そして、そこまで怖いのに、なぜ潜ること(探索すること)をやめられないのか。

この2つは別々の疑問に見えるが、実際には、どちらも同じものから生まれている。

サブノーティカは、未知が恐怖と好奇心の両方を生み、その2つを抱えたまま世界を理解していくゲームと捉えられる。

未知だから怖く、未知だから知りたくなる。そして実際に足を運び、理解した場所から恐怖は薄れていく・・・・・・。

ところが、その理解によって行動範囲が広がると、さらに先の未知が見えてくる。恐怖を克服して終わるのではなく、恐怖の対象そのものが世界の奥へ移動していくのだ。

本記事ではサブノーティカの「未知が恐怖と好奇心を生むだけではなく、その未知を既知に変える行為そのものがゲーム進行になっている」という面白い仕組みについて考えていこうと思う。海という底知れない自然に、人は何を思うのか。

一番怖いのは「分からないこと」

サブノーティカの恐怖を説明するとき、まず思い浮かぶのは巨大生物・・・・・・特にリヴァイアサンだろう。

サブノーティカにおけるリヴァイアサン

人間よりはるかに大きな生物が海中を泳ぎ、ときにはプレイヤーへ襲いかかってくる。実際、初めて遭遇したときの恐怖は強い。序盤から出会えるリーパーリヴァイアサンは、洋画よろしく「嘘だろ・・・・・・」と思わず呟いてしまうぐらいには衝撃的だ。

だが、実をいうと巨大生物への恐怖は、結構あっさり収まる。なんならリヴァイアサンも割とすぐ「かっけー」みたいに印象は変わるぐらいだ。

思えば、本当に怖かったのは未知そのものだった。

たとえば、光が差し込み、海底まで見渡せる浅瀬は、それほど怖くない。周囲に何があり、どちらへ戻ればよいのかが分かるからだ。

反対に怖かったのは、海底が見えない場所、水面が遠くなった場所、視界の先が深い青に溶けている場所だ。そこに危険な生物がいると確認したわけではない。それでも、先が見えないというだけで進むことをためらった。

海底が見えず深い青の先を確認できないサブノーティカの海中

不明瞭な視界も怖いが、音も怖い。どこから聞こえているのか、どれほど離れているのか、そもそも自分を襲う生物なのかが分からない。正体を確かめるまでは、考えられる危険の範囲が定まらない。

クラッシュフィッシュと呼ばれる、近づくと爆発するフグのような敵がいるのだが、洞窟でこれと初めてエンカウントしたときはビビりすぎて椅子から転げ落ちるかと思った。しかしそれも、慣れると無心になる。

実際に生物が姿を現し、理解すると、恐怖は別のものへ変わる。「何かいる」から、「奴がいる」になるからだ。襲ってくるのか、どのくらい速いのか、どこまで追ってくるのか、これらを理解すればするほど恐怖は和らぐ。

思えば最初はポッドの周囲50メートル以上は「死」だった。帰る場所を見失うという恐怖、それに取り憑かれていて、遠征なんてもってのほか。夜、真っ黒になった水面が恐ろしくて、ポッドに引きこもった。

しかし、それも昼に探索し、別に怖がるほどでもないことを理解すると、昼夜問わず潜り続けられた。各地バイオームも同様に、初見時の凄まじい恐怖は、既知の情報が増えるに連れ、やがて消えていった。

この、一度通った場所の恐怖が大幅に減ることも、同じ構造を示している。地形も、住んでいる生物も、帰り道も分かっている場所では、深さや不明瞭さそのものが変わっていなくても安心して泳げるものだ。

結局、サブノーティカで最も恐ろしかったのは、危険そのものではなかった。何があるのか、どこまで続いているのか、何が起こりうるのかを把握できない「未知そのもの」だったのだ。

海という大自然の恐ろしさ

果ての見えない広大な海

分からないというだけなら、本来は何も判断できないはずだ。安全だとも危険だとも言えない。にもかかわらず、底の見えない海を前にすると、想像は安全よりも危険の方向へ伸びていく。

遠くで音がする。視界の端に影のようなものが見える。水の先は濁り、何があるのか確認できない。

そんな状況では、ゲームが明確に危険を提示していなくても、「何かいるかもしれない」と考えてしまう。すると見えない空間は何もない場所ではなく、何が潜んでいてもおかしくない危険地帯になる。

「この先には何もいない」と保証されていたら、恐怖はかなり弱くなる。景色の暗さや深度は変わらない。それでも、危険の可能性(不明瞭な前提条件)が消えれば、想像が作り出す余地も狭くなる。

たとえば、お化け屋敷では、仕掛ける側が恐怖の対象を用意している。曲がり角の先から何かが出てきたり、突然音が鳴ったりする。そこにおける恐怖は「あらかじめ設計された出来事」として提示される。

一方、ただの暗い部屋には、本当に何もないかもしれない。しかし、何も見えないからこそ、自分で何かを想像してしまう。正体が示されないかぎり、その何かは現実の制約を受けない。すると、もはや実際に恐ろしい体験をするお化け屋敷よりも、怖い思いを抱く。

ただし、分からない場所ならどこでも同じように怖いわけではない。サブノーティカの恐怖には「海であること」が深く関わっている。

つまり、恐怖の核にあるのは未知だとしても、未知であれば何でも同じだけ怖いわけではない。重要なのは、その未知を「危険かもしれない」と解釈させる条件だ。サブノーティカでは、その条件を海そのものが作っている。

それは単なる景色の違いではない。海とはそもそも、人間が普段持っている能力や尺度が通用しにくい環境なのだ。

まず、人間として不自由を感じる場所であるということ。

水中では呼吸できない。地面を走れず、立ち止まるための足場もない。危険を感じても、陸上のように即座に安全圏へ戻れるとは限らない。水面の方向を確かめ、残りの酸素でそこまで移動する必要がある。

進むにも戻るにも酸素を消費する。水面から遠ざかるほど、同じ距離を進んでも帰還の余裕は小さくなる。自分が生存できる時間に限界がある以上、目の前の空間は好きなだけ眺めていられる風景ではない。海へ入った瞬間から、環境の条件に合わせて行動しなければならない。

この身体的な弱さが、情報不足をそのまま危険へ結びつける。先が分からないだけでなく、分からない場所で問題が起きたとき、自分には対処できないかもしれない。だから未知が重くなる。

これはサブノーティカの水中操作が不自由だという意味ではない。上下を含めて滑らかに移動でき、操作そのものにはかなりの自由がある。しかし、自由に操作できることと、人間として自由に振る舞えることは別だ。

そして、世界の規模に対して自分が小さすぎることも重要だ。

救命ポッドから見た水平線、遠くに横たわる宇宙船、下へ行くほど失われていく光。本作では、世界の広さと深さが繰り返し示される。

陸上なら、遠くにあるものとの距離はある程度つかめる。道や建物、木々など、普段から見慣れた基準があるからだ。

しかし水中には、その尺度になるものが少ない。何もない青のなかでは、遠くの影がどれほど大きいのか、海底までどれほど離れているのかさえ曖昧になる。

そこへ巨大な生物が現れると、自分の小ささがさらに強調される。怖いのは、単に相手が強いからではない。自分が把握し、制御できる範囲をはるかに超えた世界のなかへ、身体ひとつで放り出されていること自体が怖いのだ。

暗闇でリヴァイアサンを見かけた瞬間

そもそも海はプレイヤーを殺そうとしているわけではない。海は悠然とそこにある。ただ、人間が水中で呼吸できないだけだ。生物も、プレイヤーを怖がらせるために待機している存在としてではなく、この海で生活しているものとして現れる。

ここまでの2つは、どちらも「海が人間のためにできていない」という1点に集約できる。

そして、世界が自分を敵視しているわけではない構造が見える。この無関心さは、明確な敵意よりも大きな隔たりを感じさせる。人間の都合に合わせてくれない環境のなかでは、自分の小ささを受け入れ、その条件を少しずつ学ぶしかない。

サブノーティカにある海への畏怖は、危険な生物への恐怖だけでなく、人間を中心に回っていない自然へ触れた感覚から生まれていたのだと思う。

未知が生む好奇心

ここで不思議なのは、怖いが先に進めたくなる、という感情が同時に生まれることだ。ただ怖いだけならそれで終わる。進みたくもならない。どうせ怖いだけだし、と。

仮にただ怖いだけのゲームなら、サブノーティカは好事家の中でウケる作品であったろう。しかし実際には「めっちゃ怖いけどマジ面白かった」のような、一般的なホラーゲームの文脈ではあまり見ない感想が多い。

つまり、恐怖の先に何か得るものがある。ここが本作の強みだ。

怖いなら、浅瀬に留まっていればいい。少なくとも、底の見えない場所へ自分から潜る必要はない。

しかし実際には、怖い怖いと思いながら何度も潜り、探索を繰り返す。深海へ行きたくないと思いながら、そこに何があるのか知りたくなる。これはなぜだろう。

なぜサブノーティカの未知は「無視したい未知」ではなく「確かめたい未知」になるのだろう。

当然ながら、未知であれば何でも知りたくなるわけではない。

しかし本作では、新しい場所へ踏み込むたび、素材、生物、地形、設計図、物語の手がかりなど、実際に何かが見つかる。その経験を重ねることで、「まだ知らない場所」そのものに発見の可能性を感じるようになる。

だから見えない場所は、危険が潜んでいるかもしれない空白であると同時に、まだ見ていない何かがある空白にもなる。そして繰り返すうち、未知そのものに「何かありそう」という期待が生まれるのだ。

遠くに異質な地形が見えれば警戒する。それでも近づいて確かめたくなる。遺跡のようなものを見つければ、明らかに安全ではなさそうでも、内部を調べずにはいられない。

これは、怖いものそれ自体を見たかったからではない。知りたいものが、怖い場所にあっただけだ。

巨大なオーロラ号と広大な海を前にしたサブノーティカのプレイヤー

知りたい対象が未知である以上、それは最初から恐怖を伴っていた。先に恐ろしい場所があり、その奥へ好奇心を満たす報酬が置かれているわけではない。「何があるか分からない」という同じ状態から、恐怖と好奇心の両方が生まれているのだ。

分からないから、危険なものがいるかもしれないと想像する。同時に、見たことのない地形や生物、何らかの手がかりがあるかもしれないとも想像する。悪い可能性を考えれば恐怖になり、まだ見ぬものへ価値を感じれば好奇心になる。

私はストーリーの全貌をあまり理解しないままでも探索を続けられた。「この星には何かがある」という感覚だけで、次の場所へ向かう理由になったのだ。未知は進行を妨げるだけの壁ではない。次に見るものへの期待を生む空白でもある。

恐怖と好奇心は、互いに打ち消し合う感情ではなかった。どちらも未知から分かれたものであり、だから同時に成立していたのだ。

その例で言えば、私はジェリーシュルーム洞窟というロケーションのことをよく覚えている。

サブノーティカのジェリーシュルーム洞窟

磁鉄鉱を求めて探索するエリアなのだが、見た目がかなり異質だ。実際のところ、深度はそこそこあるものの危険度は低く、すぐ行って帰れる平和よりのバイオームなのだが、当時の私は行くことをすごくためらった。

というのも、あまりにもルートが不明瞭すぎたのだ。下へ続いていることは分かる。行こうと思えば行けそうでもある。しかし、何がいるのか、どこまで深いのか、無事に戻れるのかが分からない。

行けないわけではない。しかし、不用意には行きたくない。

だから準備する。酸素に余裕を持たせ、移動手段を整え、戻る方向を確認する。そして、恐怖が完全に消えるのを待つのではなく、怖いまま降りていく。結果としては、あっさり終わる冒険となった。

ここで重要なのは、恐怖が探索とは別の障害として置かれていないことだ。

洞窟への恐怖を何らかの手段で取り除いてから、ようやく本来の探索が始まるのではない。恐怖を感じ、準備し、それでも実際に確かめに行くところまでが一続きの探索になっている。

新しい場所を見つける。わからない。怖い。しかし、何があるのか知りたい。そのままでは危険なので準備する。実際に足を運び、地形や生物を理解する。

この過程では、恐怖は単に探索を妨げているわけではない。未知の恐怖があるから準備し、帰還経路を考え、それでも踏み込むかを判断する。つまり恐怖そのものが、探索という行為の一部になっている。

サブノーティカは、怖いのに我慢して進むゲームではない。知りたいから、必然的に怖い場所へ進むゲームなのだ。

移動する恐怖

では、好奇心があるだけで、未知へどこまでも進めるのか。怖い場所へ踏み込むには、それを「行ける場所」に変えていく必要がある。

だからといって突貫するのも難しい。では、海の探索を快適に進めるために必要なものはなんだろうか。

調査を続ければ素材が集まり、装備が潤沢になれば行動範囲は格段に広がる。しかし、それらは探索を効率化するものであって、打破するものではないように思う。正確に言えば、未知そのものが消えるわけではない。

装備は確かにプレイヤーを強くする。酸素、移動速度、安全性の問題を改善し、それまで届かなかった場所へ行けるようにする・・・・・・この意味では「打破している」と言える。

ただし、未知への対処は別問題だ。

装備を手に入れたからといって、未知の深海が急に怖くなくなるわけではない。シーモスに乗っていても、初めて向かう暗い海は怖い。活動できる範囲が広がることは、まだ知らない場所へ到達できるようになることでもある。

サイクロプスを用いた初めての深海探索は、システム上大丈夫だと知っていても不安でしか無かった。完全な深淵、そこに本当に行けるのか、帰れるのかと気が気でなかったのを覚えている。

サイクロプスで暗い深海を探索するサブノーティカのプレイ画面

私は思う。恐怖そのものを大きく弱めるのは、知識そのものではないか。

その生物が攻撃的なのか。どの距離まで近づけば反応するのか。どのような地形が続き、どこから帰れるのか。さっき聞こえた音は何だったのか。1つずつ正体が分かるたびに、想像が入り込む余地は減っていく。

初めて見た生物は、何をするか分からない怖い存在だ。しかし行動を観察し、攻撃の条件や対処法が分かると、それは攻略可能な対象へ変わる。生物だったものが、仕様を理解した瞬間に「ゲーム」になる。

これは、世界から脅威が消えたということではない。危険な生物は、理解したあとも危険だ。しかし、危険の範囲が分かれば判断できる。避ける、距離を取る、別の経路を探すといった選択が可能になる。正体のない恐怖が、対処できる問題へ変わるのだ。

実際、私は友人の初見プレイを見ている時に「何もないからはよ行け」と思った。彼の気持ちは大いにわかる。しかし、すべて知っている身からすると「何をこいつは怯えているんだ」と滑稽に見えてしまうのだ。

サブノーティカにおける攻略とは、装備を揃えて世界を力で制圧することだけではない。世界を観察し、未知を既知へ変えていくことでもある。

さて、理解によって恐怖が薄れるなら、探索を続けるほどゲームは怖くなくなっていくはずだ。実際、一度行った場所はほとんど怖くなくなる。初めは潜ることさえためらった場所を、やがて日常的な移動経路として通るようになる。

しかし、そのころには行動範囲が広がり、さらに深い場所が見えている。つまり、新たな地域のたびに恐怖はリセット・・・・・・恐怖そのものが消滅するのではなく、恐怖を生む未知の対象が新しい地域へ更新されるのだ。

未知の場所を前にすると、足りない情報を想像で補い、恐怖を感じる。同時に、何があるのか知りたくなる。必要な準備をして探索し、地形や生物を理解する。理解した場所は安心できる領域へ変わるが、その先にはまた新しい未知がある。

この循環を繰り返すたび、恐怖の中心は少しずつ遠くへ、深くへ移動していく。

装備は循環を終わらせるものではなく、次の未知へ到達するための手段だ。より長く潜れるようになれば、より深い場所へ行ける。より速く移動できれば、より遠い場所を調べられる。

強くなるほど安全な世界が広がる一方で、それまで触れられなかった未知も開かれていく。

プレイヤーが強くなったから恐怖が消えるのではない。かつて怖かった場所を理解し、その代わりに「怖い場所」が常に一歩先へ移動していくのだ。

この構造があるから、恐怖は探索を止めるだけの不快さにならない。怖さには、理解によって軽減できるという見通しがある。そして、実際に理解できた経験が、次の未知へ踏み込む支えになる。

プレイヤーが勝手に怖がる世界

サブノーティカが特異なのは、「怖いものを大量に配置したこと」ではない。「プレイヤーが勝手に怖がれるだけの世界を作ったこと」だと思う。

クリア後に思い出すのは、「あの敵が怖かった」ということだけではない。「あそこは怖かった」「あそこは綺麗だった」「あそこまで行った」という場所の記憶だ。

それはまるで観光に思える。実際に体験した記憶があるから、深海の大陸棚に作った拠点も、深部で見かけた謎の影も、当時の視野が鮮明に残っている。

これは、恐怖を一方的に与えられたのではなく、自分で怖がり、自分で準備し、自分でその場所へ行ったからではないか。恐怖体験だからではなく、恐怖という感情が付随し続けた冒険だからこそ忘れないのではないか。

サブノーティカで巡った海は、攻略したステージというより、実際に旅をした場所だったのだ。

海は見えない。分からない。全体を把握できない。その不足した情報を、プレイヤーは自分の想像で補う。海という、人間の身体能力も尺度も通用しにくい環境は、その想像をさらに強くする。

本作で「怖いのに潜ってしまう」という一見矛盾した行動は、実は矛盾していない。

何があるか分からないから怖く、同じ理由で何があるのか確かめたくなる。実際に確かめれば恐怖は薄れるが、その理解によって今度はさらに遠く、深い未知へ行けるようになる。サブノーティカは、この循環そのものを探索の進行にしている。

ただ海を舞台にしたゲームだから唯一無二という単純なことではない。人間の本能的恐怖をうまく扱い、自発的な探索を誘導するきっかけとして昇華したからこそ、ユニークなのだ。

サブノーティカの魅力は、未知そのものではなく、「未知との関係が変化していく体験」にある。

最初に見た海は、どこへ行けばいいのかも、何がいるのかも分からない巨大な空白だった。だが探索を続けるうちに、そこには地形があり、生物がいて、帰り道があり、「知っている場所」が増えていく。

だから本作でプレイヤーが獲得しているのは、装備や素材だけではない。自分の中に、この世界の地図そのものを作っている・・・・・・この現地感覚が強い報酬になっている。

そして面白いのは、その地図が広がるたび、その外側にまた未知が現れることだ。かつて恐ろしくて近づけなかった場所を日常的に通り抜けながら、今度はそのさらに先を怖がっている。

サブノーティカで旅をしていると感じるのは、そのためなのかもしれない。世界を踏破したからではなく、分からなかった世界が少しずつ分かるようになっていく過程を、自分自身が覚えているからだ。

最初に水平線を見て感じた恐怖は、最後までなくならない。ただ、その恐怖の向こう側に何があるのかを、少しずつ知ることができるようになる。

このゲームが描いている冒険とは、深海を征服することではなく、未知だった世界と少しずつ関係を結んでいくことなのだと思う。


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