【DQ11S】何を変え、何を守ったのか:遊びやすいドラクエの「近代化」を分析する

ただひたすらに「すごい」と思った。

『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて S』を最後まで遊び終えて、まず率直に思ったのは「とてもよくできた作品だ」という、ごくシンプルな感想だった。

100時間を超えるプレイの中で、退屈だから止めたという記憶はほとんどない。先が気になり、ずっと進めてしまう。遊んでいるあいだずっと、「面白い」と感じ続けられるゲームだった。

ただ、シリーズをほぼすべて遊んできた身として強く印象に残ったのは、単なるその完成度の高さではない。

これは今までのドラクエとは明らかに手触りが違う作品だ、ということ。

もちろん、見た目はいつものドラクエだ。勇者がいて、仲間がいて、世界を巡り、魔王を倒す。基本構造は何も変わっていない。だが実際に遊んでみると、プレイ感覚そのものが過去作とは違う。

昔のドラクエを知っているほどその違いに気づきやすい。なぜなら本作は、「ドラクエらしさ」を維持したまま、確実に現代のゲームになっているからだ。

この違和感の正体は何なのか。なぜ同じドラクエなのに、遊び心地がここまで変わっているのか。私はこう思う。

本作はシリーズの集大成というより、「ドラクエの近代化」を本気でやった作品なのではないか。

ここで言う近代化とは派手なシステム変更のことではなく、むしろ逆だ。

ドラクエの形を壊すことなく、現代のゲームとして成立するように土台を整え直すこと。遊びやすさを徹底し、探索やテンポを現代的な水準へ引き上げ、ストーリーの見せ方も含めて「今遊んでも自然に楽しめる状態」に再設計すること。

つまり、これは革新ではなく調整の積み重ねによる進化だ。

言い換えるなら、本作がやっているのは「新しいドラクエ」を作ることではない。

これまでのドラクエを、これからも成立させるための設計更新だ。

実際、本作を遊んでいて印象的だったのは、新しいことをしているというよりも、「当たり前にあった不便さが消えている」という感覚だった。そうした細部の積み重ねが、印象を確実に変えている。

そしてこの作品は近代化の成功例であると同時に、その難しさもはっきりと見せているものでもある。

変えられた部分、変えられなかった部分、変えたことで生じた歪み・・・・・・これらを含めて、本作はシリーズの転換点のような位置にあるように見える。

そこで今回は、単なる感想の羅列ではなく、DQ11Sが何を更新し、どこまで近代化できたのか、そしてどこに限界が見えたのかを整理していきたい。

単に「これは良ゲーだった」という話ではない。

この作品が、ドラクエというシリーズをどのように現代へ接続しようとしたのか。

その設計を見ていく記事になる。

ドラクエの近代化とはなにか

改めて、本記事における仮説を定義しておきたい。

ドラクエの近代化・・・・・・それはドラクエの骨格を維持したまま、現代のプレイヤーが自然に遊べる状態へ調整することだ。

たとえば、遊びやすさの更新について。

過去のドラクエには、「これがドラクエだから仕方ない」と受け入れられていた不便さが多く存在していた。移動の手間、素材収集の煩雑さ、テンポの悪さなど、それ自体が冒険の一部として許容されていた側面がある。

しかし本作では、それらの多くが取り除かれている。これは単に親切になったという話ではない。「不便も体験の一部だ」という設計思想から、「不便は離脱理由になる」というものへの転換だ。

こういった例は他にもあるが後述する。つまり本作の意義は、「ドラクエをどう変えるか」というものではない。「どこまでなら変えてもドラクエでいられるのかを試した」のではないか。

この視点で見ると、本作の各要素は単なる出来不出来ではなく、「近代化が成功した領域」と「近代化が難しかった領域」として整理できる。

以下では、その具体例として、どの部分がどのように更新されているのかを見ていこう。

現代的でドラマチックなストーリー進行

本作の近代化が最も分かりやすく表れているのは物語部分だ。ただそれはストーリーの内容そのものよりも、「物語の進ませ方」にある。

ドラクエの物語は長年、王道であること自体が価値だった。勇者が旅立ち、仲間と出会い、魔王を倒す。この構造はシリーズの安心感を支える重要な要素であり、同時に大きく崩すことが難しい部分でもある。

しかし、「お約束」が長く続けば、「次に何が起きるか分かってしまう」という問題は避けられない。王道であることは安心感を生む一方で、既視感にも直結するからだ。

その点で本作が行っているのは、王道の骨格を維持したまま、「展開の見せ方」を現代的に更新することだったように見える。

特に印象的なのは、「疑問を動力にして物語を進める設計」になっていることだ。

主人公は勇者でありながら、同時に「悪魔の子」と呼ばれる存在として扱われる。ここで既に、「歓迎される勇者」というお約束から微妙に外れており、この小さなズレが「なぜそうなるのか」という興味を生む。

DQ11Sにおけるデルカダール王の画像

さらに物語を進めていくと、敵の正体、世界の構造、登場人物の背景など、次々と新しい疑問が提示されていく・・・・・・これらは単なる設定の開示ではなく、「先を知りたい」という動機として機能している。

つまり本作では、物語の出来事そのものではなく、「知りたくなる構造」が設計されている。

これは現代のストーリー主導型RPGでよく見られる手法であり、ドラクエとしては比較的意識的に導入された部分だろう。

特に中盤の世界崩壊以降は、この傾向が顕著になる。

それまでの「安心して進められるドラクエ」から、「この先どうなるのか分からないドラクエ」へと空気が変わる。この転換によって、プレイヤーは単なる義務感ではなく、純粋な興味によってゲームを進めるようになる。

ここで起きているのは、物語の劇的さではなく、「プレイヤーの動機設計」の変化だ。

昔のドラクエでは、「次の町へ行く」「次のダンジョンへ行く」という構造そのものが進行理由だった。しかし本作では、「続きを知りたい」という心理的な引きがより強く機能している。

これこそ、物語の近代化と言っていい部分だ。

さらに象徴的なのが、第3部の過去改変という大胆な構造。

ドラクエはこれまで基本的に一本道の物語だった。たとえばムドーやドルマゲスは実は過程で、真の黒幕が現れることがあっても、物語の前提そのものを巻き戻すような展開はほとんどない。

しかし本作は、「すべてをやり直す」という選択肢を物語の中心に据えている。

これは単なるサプライズではなく、「プレイヤーの選択に意味を持たせる」という現代的な物語設計に近い発想だ。

もちろん、この構造には賛否が分かれる部分もある(後述)。だが少なくとも、「従来のドラクエの枠内で、どこまでドラマ性を強められるか」という挑戦が成立したことは間違いない。

総じて、本作のストーリーは革新的というより、ドラクエの王道構造を維持したまま、現代的な物語体験へ寄せる試みとして見るのが適切だろう。

王道を壊さない。しかし、退屈にもさせない。

このバランスを取ることこそ、本作の物語設計の近代化だったのだと思う。

探索をそのまま遊びにしたデザイン

次は探索体験そのものの設計更新を見ていく。ここは本作の近代化を語る上で見逃せない点だ。

従来のドラクエにおける探索とは、基本的に「次の目的地へ向かうための移動」に近いものだった。もちろん宝箱や寄り道要素は存在していたが、それらはあくまで本筋の補助的な要素であり、探索そのものが主目的になる設計では必ずしもなかった。

町を回って情報を集める、ダンジョンを進んで最奥を目指す、新しい場所に着いたら一通り見て回る・・・・・・これはRPGとして自然な流れではあるが、やはり「移動の延長線にある行為」でしかない。

しかしDQ11Sでは、この探索の意味合いが少し変わっている。

特徴的なのは、単に移動するだけではなく、「見て回ること自体が楽しくなる構造」が用意されている点だ。

たとえば町ひとつ取っても、地上だけではなく地下通路があり、屋根に登ることができ、通常は見えない侵入経路が存在する。プレイヤーは自然と、「この町はどこまで行けるのだろう」と考えながら歩くことになる。

実際、はじめてデルカダール城下町に行ったときは驚いた。屋根の上に出て、そしてロープを伝って王宮近くにまで移動が可能・・・・・・こういった強烈な三次元の探索が可能になっていたからだ。

DQ11Sにおける探索の三次元さを示した画像

かつてドラクエの探索の妙は、カメラの角度を切り替えることによって扉やNPCを見つける、程度のものだった。似たようなグラフィックであるⅧですら、地に足ついた探索が基本だったのだ。

ただ、これは単なる立体化やアクション性の拡充、設置範囲の拡大という話だけではない。

「歩き回りたくなる理由」を作っているのが大きい。つまり、探索が義務ではなく、自発的行動を誘引する設計になっているのだ。

この違いは小さく見えて大きい。

目的地に向かうために探索するのではなく、探索した結果として目的地にたどり着く。この順序の変化によって、プレイヤーの体験は大きく変わる。

これは現代のRPGで重視される、「環境そのものを遊びにする設計」に近い考え方だろう。

さらにこの設計は、キャンプや鍛冶といった要素とも結びついている。

キャンプは単なる回復ポイントではなく、長距離移動の途中にある中継地点(ルーラポイント)として機能している。これによって移動が分断されず、「旅をしている感覚」が維持される。

また鍛冶も単なる装備更新手段ではなく、探索で得た素材を活用する目的を与えている。探索→素材入手→装備更新という流れが自然に成立しているため、探索が無駄にならない。

つまりここでも、探索を独立した行為にせず、ゲーム全体の循環の中に組み込んでいる。これは重要な設計だ。

従来のドラクエでは、探索は物語の進行のためのものだった。しかし本作では、探索そのものがプレイの価値として成立している。言い換えれば、探索が手段ではなく体験になっている。

これこそが、本作の探索設計における近代化だったのではないか。

もちろん、ドラクエは元々「世界を歩くゲーム」だった。広いマップを移動し、町を訪れ、ダンジョンを攻略する。この体験自体は初代から変わっていない。

だが本作は、その原点に立ち返りながら、「歩くこと自体を遊びとして成立させる」方向へ調整している。

つまり、これは新しいことを始めたのではない。元々ドラクエにあった体験価値を、現代の設計で再強化したと見るのが適切だろう。

このように見ると、本作の探索は単なる進化ではなく、ドラクエというシリーズの根幹にある「世界を歩く楽しさ」を、現代のゲームとして成立させ直した設計だったのだと思う。

不満予測による、快適さを注視したシステム

本作を遊んでいて、ある種の違和感を覚える瞬間がある。それは「困る場面がほとんどない」ということだ。

難易度の話や操作性に関してのことではない。ここで言いたいのは、「普通なら少し面倒に感じるはずの部分」が、あらかじめ潰されている感覚があるということ。

言い換えるなら、本作のシステム設計は単なる利便性向上ではなく、プレイヤーがどこで不満を感じるかを予測した設計になっている。これは非常に現代的なゲーム設計の特徴だ。

事実、従来のドラクエでは、「多少の不便さ」はゲーム体験の一部として受け入れられてきた側面がある。

外に出ないとルーラが使えない、素材は自分で集める必要がある、移動の手間も冒険の一部・・・・・・いわば「不便さ、面倒さも含めてドラクエだ」という主張。

そうした設計は決して間違いではないし、むしろ当時はそれがある意味での「RPGらしさ」だったとも言える。

しかし現代では状況が違う。プレイヤーは多数のゲームを選べる環境にあり、小さなストレスでも離脱理由になり得る。選択肢が多いからこそ、より良いものを選びたくなるのは当然だ。

この前提に立つと、不便さはもはや体験ではなくリスクになる。だからこそDQ11Sは徹底的な「当たり前の刷新」を試みた。本作のシステムから感じられるのは、この設計思想の変化だ。

例えば室内でもルーラが使える仕様。これは一見すると単なる親切設計に見えるが、本質はそこではない。

重要なのは、プレイヤーが「外に出るのが面倒」と思う瞬間をあらかじめ消していることだ。

同様に、鍛冶素材の自動購入機能も象徴的だ。

普通なら「素材が足りない→店を回る→買い集める」という手順になるところを、本作では不足分を自動補完できる。つまり、「やりたいこと(鍛冶)」に対して不要な手順を挟まない設計になっている。

DQ11Sの素材の自動購入についての画像

ここで起きているのは、単なる効率化ではない。プレイヤーの目的行動を阻害する要素を取り除く設計だ。これはUX設計で言うところの「摩擦除去」に近い発想。

さらに、控えメンバーにも経験値が入る仕様も同様だろう。

従来のRPGでは、使わないキャラは成長が遅れ、その結果さらに使われなくなるという循環が生まれやすかった。本作はこれを構造的に防いでいる。つまり、将来的に発生する面倒を発生前に除去している。

これは単なる親切ではなく、長時間プレイを前提とした設計判断だ。

こうした例を見ていくと、本作のシステムには共通した思想が見えてくる。

それは、不便を減らすことではなく、プレイヤーが途中で止まる理由を減らすことだ。

これは非常に大切な視点となる。ゲームをやめる理由は必ずしも難しいからではない。多くの場合は「面倒だから」だ。本作はその点を非常に強く意識しているように見える。

「面白くないからやめる」ではなく、「面倒だからやめる」を防ぐ設計・・・・・・これはドラクエの近代化を考える上で極めて重要な変化だろう。

過去のドラクエは不便さも含めて冒険だった。しかし本作では、不便さは冒険ではなく、体験を阻害するノイズとして扱われている。

この思想転換こそが、本作のシステム面における近代化だったのではないか。

本作の快適さとは、単なる親切設計ではない。プレイヤーの不満がどこで発生するかを先回りして潰していく、予測型の設計思想。それこそが、本作のシステム近代化の本質だったのだろう。

・・・・・・ただ、ボウガンに関しては一切擁護できないこともここで述べておく。あの不自然さはQAチェックのミス以外に考えられない。

非常に良好なキャラバランス設計

本作の近代化は快適性や探索設計だけにとどまらない。RPGとして最も基本的な部分のひとつである、パーティ設計そのものにも明確に表れている。

プレイしていて印象的だったのは、「使わなくてもいいキャラ」が存在しないことだ。

これは当たり前のように思えるかもしれないが、実際には多くのRPGがここで問題を抱えている。特にプレイアブルキャラが多い作品では、「結局このメンバーだけでいい」という最適解が生まれやすい。

その結果どうなるかというと、使われないキャラ、育たないキャラ、存在意義が薄れるキャラが発生し、やがて「いなくてもいい存在」が生まれてしまう。

これは問題だ。というのも、たとえば物語上、重要人物であるはずの仲間がゲームシステム上では「いなくても困らない存在」になってしまうズレは、RPGとしての没入感を静かに損なう要因になる。

そんな中、本作はこの問題を極めて自然な形で回避している。

まず、控えメンバーにも経験値が100%入る仕様。これは単なる快適化の一部にも見えるが、パーティ設計として見ると非常に重要な意味を持っている。

なぜなら、これによって「使っていないキャラを育てる手間」が消え、キャラ選択が育成効率に縛られない設計となる。これは非常に大きい。

多くのRPGでは、「使うキャラ」と「育てるキャラ」が同義になりやすい。しかし本作ではその結びつきが緩められているため、純粋に戦術や好みで編成を変えることができる。

これはパーティ運用の自由度を実質的に引き上げているのだ。仮に特定のキャラが有効だとわかったとして、平均レベルよりも大幅に下回っている場合、採用することは難しい。

「育成しなきゃいけないのか・・・・・・」という後戻りや手間が発生してしまう。だから、使われるキャラがより強く、使われないキャラは停滞する、という当然の仕組みが、ある意味で縛りにもなる。

そこで、本作における経験値の分配システム(下方上昇の使用も含め)が「レベル差を選択の理由にさせない」自由を生んでいる。偉大だ。

さらに、キャラ性能の役割分担が明確であることも明記したい。

本作では、呪文や特技が比較的きれいに分散されている。そのため、特定のキャラが完全な上位互換になる状況が生まれにくい。

つまり、誰かがいれば他はいらない、という状態が発生しにくい設計になっている。

これはバランス調整として非常に重要なポイントだ。

仮に万能キャラが存在すると、戦術の幅は広がるように見えて、実際には縮小する。なぜなら最適解が固定化されるからだ。

しかし本作では、役割が分かれているため、「誰を入れるか」に意味が生まれる。これは単なる性能差ではなく、戦術選択として成立している。

これは、キャラの存在価値を性能面でも担保している設計と言えるだろう。

もちろん、使用率の偏りがゼロになるわけではない。プレイヤーごとに好みや使いやすさはある。ただ、「弱いから使わない」という状況になりにくいことが大切なのだ。

RPGにおける仲間キャラとはただのバトル要員ではなく、物語とシステムの両方に関わる存在だ。どちらか片方だけ優れていても成立しない。本作はその両立が非常に丁寧に行われている。

ここで見えるのは単なるバランス調整の巧さではなく、むしろ、プレイヤーが仲間を「選ぶ意味」を維持する設計に近い。

誰を連れて行っても成立する。だが誰を選ぶかには意味がある。この状態を作るのは簡単ではない。

このように見ていくと、本作のキャラバランスは単なる完成度の高さではなく、パーティというRPGの基本構造を、現代的な遊びやすさの中で再調整した結果だったのではないかと思う。

キャラが活きるように設計されているという点こそが、本作のパーティ設計における近代化だったのだろう。

DQ11Sのパーティー例を示した画像

シリーズ資産の再利用

本作を語る上で避けて通れないのが、過去作との関係性だ。

本作には歴代作品へのオマージュ、過去楽曲の使用、シリーズキャラクターの再登場など、いわゆるファンサービスが数多く盛り込まれている。

ただし、この要素を単なる「懐かしさの演出」として捉えるだけでは、本作の設計意図は十分に見えてこない。

ここで起きているのは、シリーズが長年積み重ねてきた資産をどう活用するかという設計判断だったように思える。

長寿シリーズには大きな強みがある。それは、すでにプレイヤーの中に「記憶」が存在していることだ。

過去に遊んだ体験、聞き覚えのある音楽、見覚えのある場所・・・・・・それらは単なるデータではなく、プレイヤー側に蓄積された価値になっている。

本作はこの価値を、非常に意識的に活用している。

特に象徴的なのが「冒険の書の世界」だろう。過去作品の舞台を訪れるこの仕組みは、単なるゲスト出演ではない。プレイヤーの記憶そのものをゲーム体験の一部として取り込む設計になっている。

つまりここで使われているのはグラフィックやシナリオではなく、プレイヤーの記憶という資産。これはシリーズ作品だからこそ可能な設計だ。

DQ11Sにおける冒険の書の世界の画像

さらにBGMの使い方も同様だ。過去曲の採用は一見すると単なる再利用のようにも見えるが、実際には過去の体験と現在のプレイを接続する役割を持っている。

過去作を遊んだプレイヤーにとっては、音楽が鳴った瞬間に当時の体験が呼び起こされる。これは新規楽曲では代替できない効果だ。実際、メダル女学院で『王宮のトランペット』が流れたときは思わず声が出た。

DQ11Sにおけるメダル女学院

要は、過去のコンテンツを再利用しているのではなく、過去の体験価値を現在の体験に接続している。

もちろん、この手法には難しさもある。過去要素に依存しすぎれば、新作としての独自性が弱まるからだ。

実際、本作でもこのバランスは完全ではない。過去曲の比重が高すぎることで、新規楽曲の印象が薄れる場面もある。これはシリーズ資産活用の副作用と言える部分だろう。

しかしそれでも、本作の姿勢自体は非常に明確だ。

それは、過去を捨てて新しくするのではなく、過去を活かして現代へ接続するという考え方だ。

これはシリーズの近代化という観点から見ても重要な意味を持つ。

長寿シリーズにとって最大の課題は、新規ユーザーの獲得と既存ファンの維持をどう両立するかだ。本作はその両方を同時に満たそうとしている。

新規プレイヤーには遊びやすさで対応し、既存プレイヤーには記憶の再活用で応える。この2方向の設計が成立しているからこそ、本作は単なる記念作品ではなく、「シリーズの継続を意識した作品」として成立している。

本作における過去要素の活用は、単なるファンサービスではない。シリーズが持つ資産をどう再利用すれば価値を維持できるのかという、IP設計としての判断だったのではないかと思う。

このように見れば、DQ11Sは過去を振り返る作品ではなく、過去を使って未来へ進むための作品だったとも言えるだろう。

近代化と旧設計の衝突

ここまで見てきたように、DQ11Sは確かにドラクエの近代化を強く意識した作品だった。

遊びやすさの改善、探索体験の更新、物語の進行設計、パーティバランスの調整、シリーズ資産の活用・・・・・・どれも「ドラクエらしさ」を維持したまま現代水準へ接続しようとする試みとして理解できる。

しかし同時に、本作は「完全に近代化された作品」ではない。近代化が成功している部分と、そうでない部分がはっきり分かれている。

これは単なる出来不出来ではなく、もっと構造的な問題だ。なぜなら本作は、「新しいゲームを作る」ことが目的ではなく、「ドラクエをドラクエのまま現代化する」ことを目指した作品だからだ。

この前提に立つと、すべてを自由に変えられるわけではないことを察する。シリーズの核に関わる部分ほど変更は難しくなり、結果として「変えられた部分」と「変えられなかった部分」が共存することになる。

つまり本作の特徴は、近代化の成功そのものではなく、どこまでなら変えられて、どこから先は変えられないのかが露出していることにある。

そして、この境界線こそが本作を単なる良作以上に興味深い存在にしている。

快適性は更新された。探索体験も更新された。物語の見せ方も更新された。

だがその一方で、物語構造の一部や戦闘設計、演出面などでは、旧来の設計との摩擦が見える場面もある。

これは失敗というより、近代化を進める中で必然的に生じた歪みと考える方が自然だろう。むしろ、この歪みがあるからこそ価値があるとも言える。

なぜならそこには、「ドラクエというシリーズがどこまで変化可能なのか」という限界線が見えているからだ。

以下では、そうした近代化の中で生じた違和感や設計上の摩擦について見ていきたい。

それらは単なる欠点としてではなく、近代化が難しかった領域、あるいは近代化によって露出した問題として整理できるはずだ。

DQ11Sにおける襲撃された主人公の画像

「過ぎ去りし時を求めて」そのもの

このゲームの本質でもある第3部(過ぎ去りし時を求めて)だが、正直に言うと私はこのパートをかなり懐疑的に見ている。

発想の強さ、意外性、驚き。それ自体は間違いなく評価している。だが、中身・・・・・・つまり「物語として成立させるための設計」は、かなり危うい。

そもそもプレイ中から違和感はあった。とはいえ、遊んでいる最中に冷水を浴びせるようなツッコミは野暮なので飲み込んで進めた。

だがクリア後、冷静になると違和感はむしろ強まった。気になる点が多すぎる。

この展開は発想としては極めて現代的でありながら、設計としてはやや不安定な状態にあるように見える。王道維持と近代化導入、この両立による設計矛盾が明確だ。

問題は「タイムリープがあること」ではない。「ルール設定の曖昧さ」だ。

神の領域を侵す現象(過去改変やタイムリープ)を扱うなら、まず厳密にしなければならないのは制約だ。

制約が弱いと、どうしても「なんでもあり」になる。そして「じゃあ最初からそうしろよ」で全部が終わってしまう。物語の重みも、試練も、積み上げたドラマも、根元から腐る。

分かりやすい例が『ドラゴンボール』の神龍だ。

最初こそ「願いを1つ叶える」という便利さが魅力だったが、制限がなければ不老不死でも強敵消滅でも何でもできてしまう。それでは物語にならない。だから後付けで「回数制限」や「力の上限」などの制約を積み、便利さを物語の中で管理できる形にしていった。

タイムリープも同じで、都合のいい時間跳躍に価値はない。

何かを得るなら何かを差し出さねばならない。つまり、等価交換やトレードオフのように、ためらうほどの代償が必要になる。

『バタフライ・エフェクト』『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『STEINS;GATE』といった作品が成立しているのは、強烈な制約・・・・・・「戻っても状況は改善しない」「代償が増える」「心身が削れる」など、これらが最初から組み込まれているからだ。

その観点で第3部を見ると、代償が弱すぎると感じる。

本作の過去改変は、別世界(B世界)への移動ではなく、同一時間軸の巻き戻しとして描かれる。ここで提示される代償は「今ある仲間と別れる」だが、巻き戻しである以上、結局はまた会える。

イベントが省略されて思い入れに差が出るとしても、構造としては「会える」が勝ってしまう。しかもベロニカが復活する。これでは、代償よりご褒美の方が大きく見える。

仮に「B世界へ行く話」ならまだ成立したと思う。元の世界とは別の世界を救うために奔走し、最後は自分が「そこにいてはいけない存在」として消える・・・・・・そういった形で代償が機能するからだ。

しかしDQ11Sはそうではない。強くてニューゲームで先の展開を潰していくだけ。

だから、都合が良すぎる。

「みんなが幸せになる」展開そのものは素晴らしい。そうなったらどれほどいいだろう、という感情も分かる。

だが、都合が良すぎるせいで第2部までの試練が茶番に感じられてしまう。苦悩の末に得た絆や強さが、なかったことになる。じゃあこれまでって何だったのか、ということで私は後半かなり冷めた。

追い打ちをかけるのが公式で「同一世界線上の物語」だとされている点だ。

過去を改変した以上、パラレルワールドとして分岐する方が自然だと思っていた。しかし一本線だと言い切るなら、セニカの改変で発生する未来は、主人公たちが成立し得ない世界になり、パラドックスが発生する。

そうなると、なおさら「本当にこれまでの冒険ってなんだったの?」が強まってしまう。

一番つらいのは仲間との思い出が薄まることだった。

ベロニカの死を越えて決意を固めたセーニャも、仲間として歩み寄ったグレイグも、命がけで妹を救ったカミュも・・・・・・第3部では、それらが軽く上書きされる。

私は過去改変後の仲間を同じ見た目をした別人のように感じてしまった。彼らはスワンプマンなのだ。だから思い入れが湧かず、ベロニカに会えても心が動かなかった。

発想は強い。驚きもある。だが勢いだけで押し切ってしまい、物語の土台が揺れている。

「過ぎ去りし時を求めて」という大層な名前のパートに対して、私は「王道構造と現代的構造を両立させて生じたズレ」がとても気になってしまう。

これは単なるシナリオの好みの問題ではなく、物語の近代化を進める際に発生した設計上の不整合と考える方が適切だろう。

本作の第3部は成功か失敗かで単純に評価できるものではない。むしろ、「ドラクエの物語はどこまで現代化できるのか」という問いに対する、ひとつの試行だったのではないか。

その意味でこの部分は、本作の弱点であると同時に、近代化の限界を示す象徴的な領域だとも考えられる。

DQ11Sにおける過ぎ去りし時を求めてのイベントシーン

保守の象徴であるバトル

本作の近代化を考える上で、もうひとつ明確に見えてくるものがある。それは、「あえて変えられていない領域」の存在だ。

その最も象徴的なものが、戦闘システムだろう。

本作は探索やUI、テンポ設計などでは明確な現代化が見られる一方で、バトルに関しては基本的に従来のターン制コマンドバトルの延長線にある。ゾーンや連携技といった追加要素はあるものの、根幹の設計思想そのものは大きく変わっていない。

これは単なる停滞なのだろうか。

おそらく、そうではない。むしろここには、「どこまで変えてよいのか」というシリーズ設計上の判断が見える。

その判断を理解するには、そもそもドラクエにおいて戦闘がどのような役割を持っているのかを考える必要がある。

私個人の体験として、ドラクエの戦闘を「純粋に戦術として面白い」と感じたことはあまりない。弱点や耐性、バフ、デバフといった要素は存在するが、最終的にやることは「準備して殴る」という構造に収束することが多い。

しかしこれは欠点とは限らない。

むしろここから見えてくるのは、ドラクエの戦闘がそもそも「戦術ゲーム」として設計されていない可能性だ。

言い換えるなら、ドラクエの戦闘の面白さは、戦っている瞬間ではなく、戦う前の準備にあるのではないかということだ。

装備を整える。レベルを上げる。スキル構成を考える。アイテムを用意する。そして、その準備の結果として戦闘が成立する。

つまり、戦闘そのものではなく、冒険全体のリソース管理の結果として戦闘があるという構造だ。

DQ11Sにおける鍛冶の画像

この視点で見ると、本作の戦闘が大きく変わっていないことも理解できる。

もしドラクエの面白さの中心が戦闘そのものにあるなら、大きな革新は必須だっただろう。しかし実際には、シリーズが長く支持されてきた理由は、戦闘の革新性よりも、「世界を巡る体験」そのものにある可能性が高い。

ドラクエは、戦闘が面白いゲームではなく、冒険が面白いゲームだったのではないか。

仮に戦闘が主役の作品であれば、戦闘の革新はシリーズの進化そのものになる。しかしドラクエの場合、戦闘は冒険体験を支える基盤であり、必ずしも主役ではない。

この前提に立つなら、戦闘を無理に革新しなかったことも理解できる。

となると、ここで起きているのは「変えなかった」のではなく、「変える優先度が低かった」という可能性だ。

特に象徴的なのが、フリー移動バトルの扱いだろう。

一見すると位置取りが戦術に影響するようにも見えるが、実際には戦闘結果に大きく影響する要素ではない。この仕様は中途半端にも見えるが、逆に言えば、「見た目は現代化するがゲームの本質は変えない」という調整とも考えられる。

これは現代的な演出は取り入れるが、体験の核は維持するという判断だ。

このように見ていくと、本作の戦闘は近代化から取り残された部分ではない。むしろ、近代化をどこで止めるかを示す象徴的な領域だった可能性が高い。

探索は更新できる。UIも更新できる。物語の見せ方も更新できる。しかし戦闘はシリーズのアイデンティティに近い部分であり、簡単には動かせない。

そしてもうひとつ重要なのは、仮に戦闘を大きく変えた場合、ドラクエの体験そのものが変質してしまう可能性があることだ。

つまり戦闘とは、本作において遅れている部分ではなく、シリーズが最も慎重に守ろうとした領域だったのではないか。

私はずっと、ドラクエのバトルに退屈さを感じていた。他のコマンドバトルゲームが戦略を重視する中で、ドラクエだけが旧式のバトルを維持していることに、不満があった。

しかし本作をプレイし、目的関数が違うのではないか、と思った。

ドラクエの面白さは戦闘じゃなく、旅なのではないか。

戦闘は旅に内包された部分であり、だから不変で、しかし探索の近代化がなされたのではないか。

ならば、DQ11Sのバトルは革新不足の象徴ではない。むしろ、ドラクエというIPが何を変えてよく、何を変えてはいけないのかを示す境界線として見るべき部分となる。

過去資産への極度の依存

シリーズ資産の再利用は、本作の近代化を支える重要な要素のひとつだった。

過去作品の要素を現在の体験に接続することで、長寿シリーズとしての価値を維持する。この方向性自体は合理的であり、実際に多くの場面で機能している。

しかしその一方で、別の見方も可能になる。

それは、本作はシリーズ資産に依存しなければ成立しない状態に近づいているのではないかという視点。これはファンサービスの是非ではなく、IP設計の問題としての話だ。

シリーズ資産の活用は本来、強みになる。しかしそれが増えすぎると、「新作単体の魅力」とのバランスが難しくなる。

例えば本作の感動的な瞬間のいくつかは、過去作を知っていることで強化される構造になっている。逆に言えば、その文脈を持たないプレイヤーにとっては、同じ強度で体験できない可能性もある。

つまり、作品単体の力ではなく、シリーズの蓄積によって成立している部分があるとも言える。

たとえばBGMも過去のものがかなり多く、それによって懐かしいという気持ちが湧く。しかし、あまりにもⅥの『敢然と立ち向かう』やⅤの『はめつの予感』が連発されては「新作をやっている」という感覚が揺らぐ。

最新作をプレイしたはずなのに、思い出すのが過去曲ばかり・・・・・・この状態は歪と言う他無い。

もちろん「集大成」という作品で、過去作のオマージュを入れるのは分かる。ファンとして嬉しい場面もある。ⅤのOPを模した出産シーンなどは、懐かしさと面白さが両立していた。

しかし、そういう「たまに出るから効く」演出を、定期的に擦られてしまうと話が変わる。嬉しさよりも先に、「過去の遺産の切り崩し」に見えてしまうのだ。

DQ11Sにおける冒険の書の世界

あるいは、執拗に「ロト」を推すのもそう。知っているならば納得するが、新規にとってはよくわからないだろう。

本作がこれまでのファンにだけ向けた、閉じた「記念作品」ならばいいだろう。しかしDQ11Sは決して「既存ファンだけに向けたゲーム」ではないはずだ。となると、この過去資産への依存は気になる。

これは長期IPが必ず直面する問題だ。

シリーズを続けるほど、過去との接続は増える。しかしそれを続けるほど新規プレイヤーとの距離も生まれる。このバランスをどう取るかは、長寿シリーズの永遠の課題とも言える。

一応、本作はそのバランスを極端に大きく崩しているわけではない。新規プレイヤーでも理解できる設計にはなっている。ただし、シリーズファンほど体験価値が増幅する設計であることは確かだ。

これは見方によっては理想的な形でもある。長年支えてきたプレイヤーに報いる設計とも言えるからだ。

しかし同時に、新しい価値を生み出す力より、既存価値を再利用する比重が高まっているとも解釈できる。

本作はそれを怠慢で行っているわけではないだろう。むしろ逆で、「シリーズを存続させるための安全な選択」として意図的に行われている可能性が高い。

つまり、新しいものを作れなかったのではなく、シリーズの連続性を優先したという判断だ。

ただしこの方向性にはリスクもある。

シリーズ資産への依存が強まりすぎると、「次は何を新しくするのか」という問いが難しくなるからだ。過去との接続だけでは、いずれ更新余地が減っていく可能性がある。

これは本作単体の問題ではない。むしろ、長寿シリーズが成熟期に入ったときに必ず直面する構造的課題と言える。

その意味で本作の過去資産活用は、成功例であると同時に、シリーズがどの段階にあるのかを示す指標でもある。

ここで見えるのは、ドラクエというシリーズが、新規性だけで進む段階から、資産運用によって価値を維持する段階へ移行している可能性だ。

仮にこれが進めばどうなるか。それは、新しいドラクエではなく、過去のドラクエのリメイクを続けるほうが商業的にもファン的にも良い、という状態の発生だ。

一見するとウィンウィンなこれは短期的な話であり、長期的にはしぼむ。なぜなら、この状態こそが閉じコンと呼ばれる、新陳代謝の起こらない衰退の形式そのものだからだ。

これは必ずしも悪いことではない。ただし、この方向性が続く場合、次に求められるのは「過去を使うこと」ではなく、過去に依存しすぎずに更新する方法になるはずだ。

その意味で本作は、シリーズ資産活用の成功例であると同時に、依存との境界線が見え始めた作品でもあったのかもしれない。

ドラクエの近代化は成功したのか?

ここまで見てきたように、DQ11Sは明確に近代化を志向した作品だった。

遊びやすさは大きく改善され、探索体験は現代的に再設計され、物語もドラマ性を強める方向へ調整されている。シリーズ資産の活用によって、長年のファンにも応える構造になっている。

その一方で、物語構造には摩擦があり、戦闘はあえて保守され、過去資産への依存というリスクも見えていた。

本作を通して見えてくるのは、近代化そのものの難しさだ。

ドラクエのような長寿シリーズの場合、「新しくする」こと自体が目的にはならない。なぜなら、変えすぎればドラクエではなくなり、変えなければ時代から取り残されるからだ。

つまり求められるのは革新ではなく、変えても壊れない範囲を見極める作業になる。

この視点で見ると、本作の近代化は成功だったと言えるだろう。

なぜなら本作は、「ドラクエらしさ」を失わずに現代水準へ接続することには成功しているからだ。少なくとも、遊びにくさや古さによって体験が阻害されることはほとんどない。これは近代化として重要な達成だ。

ただし同時に、本作が示したのは成功そのものではなく、近代化できる領域と、近代化が難しい領域の境界線だったようにも思える。

探索やUIは更新できる。物語演出も更新できる。快適性も更新できる。しかし戦闘の根幹やシリーズ文脈の扱いといった部分は、簡単には変えられない。

となると本作は、「ドラクエはどこまで変えられるのか」という問いに対するひとつの回答だったのかもしれない。

ドラクエは変えられる。ただし、ドラクエである限り。

この一見矛盾した条件の中で調整を行った結果が、本作の姿だったのではないか。

その意味で、DQ11Sは完成形ではなく、むしろ近代化の結果どうなるかを示した試金石に近い。

何が成功し、何が難しく、どこに限界があるのか。それを可視化したという点にこそ、本作の価値があるのかもしれない。

そしておそらく本作の本当の意味は、「成功したかどうか」ではない。

それは、ドラクエがこれからどう変わっていくのかという問題を、初めて正面から提示したことにあるのではないだろうか。

DQ11Sとは、近代化の完成形ではなく、ドラクエの近代化がどこまで可能なのかを測った作品だったのだと思う。

私は、本作を良ゲーだと断言しつつ、同時にこう思う。

ここまで近代化できたのなら、次はもっと先へ行けるはずだ、と。

DQ12がもし「変わらないドラクエ」を守るのなら、この作品で得た設計の知見を捨ててはいけない。DQ11Sは過去への賛歌ではなく、未来への足場なのだ。

さいごに

長く続くシリーズにおいて、新規の入り口を作るという姿勢は大切だ。

新しい血が入らなければ作品はゆっくりと閉じていく。流れを作り、世代を跨いで更新していくことはどの長寿コンテンツにとっても避けられない課題だろう。

しかし、それ以上に大切なのは「それまでついてきてくれた人々」だと思う。

少なくとも、新規を取り込むために古参を切るような判断は健全ではない。「今」があるのは「これまで」があるからだ。

DQ11Sは、その両方を丁寧にやった作品だった。

これまでのドラクエファンへ向けたサービス精神に満ちた文句なしの記念作品でありながら、初めて触れる人にも遊びやすい設計。ファンサービスの熱量があり、なおかつ快適さという近代化も徹底している。ここが本作の強さだと思う。

滾る情熱と確かな信条を持って作られた作品は、いつだって素晴らしい。DQ11Sはその細部に至るまで制作者の意思が感じられる、本当に良いゲームだった。

私はこれまでもドラクエが好きだったし、これからもきっとドラクエが好きだろう。

それはやはり、「好きで良かった」と心から思える体験をいつだってドラクエがくれたからに他ならない。

プレイできてよかった。そう思える100時間だった。


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