【mono】日常系アニメで泣ける理由は何か:大人になってからわかる感動を考察

日常系アニメが嫌いだった。時間の無駄だと思っていた。

私は作品に「意味」を求める。学びでも視点の更新でもいい、とにかく人生の足しになるものが欲しい。同じ時間を使うなら意味があるもののほうが有意義だから。

インプットは人生を豊かにする・・・・・・というより、人生を豊かにするためにインプットを行う日々が馴染んでいた。

アニメもそういう、自分を強化するパーツのひとつとして考えていた。ただ楽しむ・・・・・・そんなことを忘れたのは、そういえばいつからだったろう。

『mono』は、純粋な「楽しみ方」を思い出させてくれた作品だ。

本作には壮大なストーリーだとか、練られた伏線だとか、人生を大きく変える何かがあるわけじゃない。女子高生の、趣味にふける日々をただ描いてるだけの日常系アニメだ。

きっと過去の私ならこれを1話切りしていただろう。別に見ても得られるものはない、そう思って視聴をやめたはずだ。

けれど、私はmonoを当日に全話見た。そして泣いた。見てよかったと心から思える体験を得られた。

本記事では、なぜそんな「効率厨」が・・・・・・というより、効率厨だからこそ泣いたのか、そこを語っていこうと思う。

彼女たちは「今」を生きている

印象に残ったのは4話のワイナリー回。温泉に入りながらさつきは言う。

20歳過ぎて飲めるようになったらさ、また来ようよ。

ここでアンと桜子は迷うことなく「うん」と答える。私はここでめちゃめちゃ泣いてしまった。別に泣けるシーンでもなんでもないのに。

その約束には、「未来が壊れる」可能性が最初から存在していなかった。不確定な未来を考慮していなかった。

思えば彼女たちのすべては、「今」に集約された行動ばかりだった。

カメラを始めるのも、部の合併も、聖地巡礼スタンプラリーも、夏休みの最後の3日も、彼女たちが今を生きている証拠だった。良くも悪くも先のことなんかあまり考えていない。それゆえのプラン。

温泉での約束もそうだ。きっと3年後もこのままでいられる・・・・・・そんな楽観のような感覚を全員が持っている。きっとこのままでいられる、そういう思いを。

それは、今や忘れてしまった大切な気持ちだった。

私は何もかも、未来への前処理として考えるようになってしまった。今これをやって、未来に意味があるのか。今これをやる意味があるのか。

時間は限られたもので、有益に使うべきリソース。そう思うと、未来への安易な期待もしないし、そして今の安易な断行もしない。

今の付き合いはいずれ崩れる。それは受験だったり、就職だったり。「ずっと一緒」なんて脆く崩れる。それを知っている。それを学び、わかってしまう。

でも、彼女たちはただ無垢だった。今が続くと思っていて、間違いのない今を生きている。

この涙は、憧れと懐古が同時に押し寄せたものだ。未来に対しては「そうありたい」と思い、過去に対しては「俺もこうだった」と思う。そして現在だけが、空白になる。

彼女たちがただ日々を楽しく過ごすだけで泣きそうになる。それは、私はもう屈託のない生き方ができなくなってしまったからだ。

写真は「今」を切り取る行為

monoは、カメラ女子をただ描くアニメだと思っていた。『ゆるキャン△』がキャンプなら、こっちはカメラ。巷でよく見る、「女子高生におっさん趣味」という取り合わせの一部だろう、と。

つまり、テーマが変わっただけの「日常系」だと捉えていた。

だが、途中で気づいた。これはカメラが主題ではない。

もちろんカメラは重要だ。画作りにも関わるし、エピソードの導線にもなる。けれど、それは本質ではない。monoが描いているのは、カメラという機材でも、写真という表現でもない。もっと根源的なものだ。

この物語は、生きることを「大切な一瞬を切り取ること」だと描いているのではないか。カメラはそのメタファーであり、象徴だ。

写真という行為は、瞬間を固定する。流れてしまう時間を、そこだけ抜き取って保存し、未来に持ち運べる形にする。

けれど作品の中でより鮮烈なのは、撮る側の技術でも撮られる側の可愛さでもない。彼女たちが「切り取られる側の世界」を生きている・・・・・・その事実だ。

彼女たちは今しか知らない。だから今しか考えていない。だからこそ、いま目の前にあるものが全部大事なのだ。

行った場所、食べたもの、笑った瞬間、くだらない会話。何気ない全部が、まだ「何気なく済ませていいもの」になっていない。世界がまだ擦れていない。

それに対して自分はどうか。

私はその瞬間を切り取って、感じているだけの消費者だ。画面越しに彼女たちの時間を見て、ここが良かった、あそこが刺さった、と語る。すでに私は「今」の中にいない。今を生きているようで、実際は「今を編集する側」に回ってしまっている。

コンテンツの消費とは、切り取りとともにある。

「俺はこれを見てこう思った」

「僕はこれをやってこう感じた」

たとえば私は、monoを見て「ここが良かった」と切り取って語る。その時点で私はもう、彼女たちの「今」の外に立っている。

コミュニケーションには、必ず何かが翻訳装置として介在する。作品の一部、体験の一部が媒介になり、「それ分かる」「それ良いよね」という接続が生まれる。たぶん彼女たちも、そうやって世界を共有していくのだろう。

あの日行ったあの場所の写真をもとに語る。

あの時見た空を、あの時食べたものを、あの瞬間の笑いを、後からもう一度取り出して話す。

写真は、色褪せない「その時」を保存する。時間の中で風化していくはずの一瞬を、記録として残し、思い出として封じ込める。だから写真は強い。取り戻せないものを、取り戻せるような顔をして差し出してくるからだ。

monoは、きっとそこを描いている。

ただのカメラがテーマのアニメではない。「一瞬が大切だった時代」を、丁寧に切り取る物語なのではないか。

今を未来のための手段にしてしまった己を自覚するからこそ、ただ今を生きる彼女たちに感動するのだと思う。それは、「そうできなくなった憧れ」にも似た気持ちなのかも知れない。

「学生時代の自由」の美しさ

学生時代、おじさんたちはいつだって肯定してきた。

式典などの語りや、あるいはホームルームでいつも「君たちはこれから何だってできる」「無限の可能性がある」みたいなことを述べていた。

こっちは内心で「また始まった」と思いながら適当に笑っていた。当時は、その言葉がどういう温度を持っているのか分からなかった。

だが、今なら分かる。

学生はなんでもできた。冗談ではなく、本当に。

けれど、これは結果論だ。学生当人は、その「なんでもできる」を理解していない。むしろ分からないのが普通だ。

何も分からないからこそ、どうせ自分には無理だと思う。今の自分に足りないものばかり数えて、未来にあるはずの余白を見落とす。自由を自由だと認識できない。可能性を可能性として数えられない。

だから、誰もが後になって気づく。あの頃は無限だったと。時間も、体力も、人間関係も、失敗の許容範囲も、すべてがやたらと広かったと。

そして気づいた瞬間に、同じことを後輩に言いたくなる。「今しかないぞ」「今なら何でもできる」と。あのおじさんも、たぶん同じ場所に立っていたのだろう。自分の時間が有限であることを、身をもって知っていたのだ。

創作の中で学生が美化されがちなのも同じ構造だ。

青春は眩しい、若さは尊い、学生は無敵だ・・・・・・そういう語り口はいくらでもある。

だが、それが全部嘘かと言うと、そんなことはない。脚色はされているものの、芯は本物だ。美化というより、切り取り、編集だ。現実から「確かにあったはずの輝度」だけを取り出して、失われたものとして提示している。

monoの彼女たちを見ていると、そこが痛いほど分かる。

好きなものを追い、好きな人と過ごし、好きな場所へ行く。効率や意味より先に「やりたい」がある。

そういえばそうだった、と思う。自分もできた。いや、できたどころではない。昔の自分は、こうだった。こういう生き方が自然だった。

誰に許可を取るでもなく、誰に説明するでもなく、好きだからやる、行きたいから行く、会いたいから会う。それだけで成立していた。

いつからだろう。

「それって得なの?」が口を挟むようになったのは。

「時間がない」が免罪符になったのは。

そして、その言い訳が本当に正しくなってしまったのは。

monoは、ただ可愛い女の子が日常を過ごす作品ではない。少なくとも自分にとっては違う。「今しか考えていない人たち」を描いていて、それが眩しすぎる作品だ。

眩しいから泣くのではない。眩しいものが、もう戻らないと知っているから泣くのだ。

始めた理由はなんだっけ

思えば昔の自分は本当に雑だった。いや、正確には雑というより素直だったのだと思う。

「ただやりたい」という理由だけで、何かを始めていた。そして驚くほどあっさりとやめてもいた。

過去の積み重ねとか、未来の損得とか、そういう面倒な計算はほとんど存在していない。街で見かけたものが面白そうだから始める。たったそれだけ。理由としては薄いはずなのに、行動を起こすには十分すぎるほどの燃料になっていた。

きっかけなんていくらでもあった。

『けいおん!』を見てギターを始めた。『スラムダンク』を読んでバスケに明け暮れた。

冷静に考えればどれも短絡的だ。きっかけが作品であることに合理性はなく、ただ偶然それだっただけ。

だが、当時の自分はそんなことを一切気にしなかった。「心が動いた」という事実だけが、開始ボタンとして機能した。言い換えれば、私はきっかけを最大化していた。

そしてそれが、最高に楽しかった。

さて、今はどうだろう。

何かを始める前に、私は躊躇する。まず頭に浮かぶのは費用だ。それが回収できるか。時間の投下に見合うか。続かなかったら損をするのではないか。さらに言えば、やる意味があるのかどうかまで考えてしまう。

「ただやりたい」だけでは理由にならない、と勝手に思い込むようになった。まるで行動には必ず申請書が必要で、それが通らないと許されない社会に住んでいるかのように。

ひどく真面目になってしまった。というより、臆病になった。失敗ではなく、無駄が怖いのだ。

きっとそれは、生き方として間違ってはいないのだろう。効率を考えること自体は悪ではない。だが、その結果として私は、あまりにも多くの「始まり」を失った気がする。

あの頃の自分はどこへ行ってしまったのだろう。

「ただ、やりたい」

それだけで、理由として十分だった自分はどこに消えたのだろう。

始める前に意味を問うようになった私は、始めた後に意味が生まれるという当たり前の事実を忘れてしまった。

理由があるから始めるのではない。始めたから理由になる。

昔の私はそれを知っていた。というより、知識として知っていたのではなく、体が理解していた。だから動けた。だから強かった。

「やりたい」で始め、「やめたい」で終える。

あの自由な雑さ。

あの無責任な熱量。

monoを見ていると、そんな行き当たりばったりだった頃の自分を思い出してしまう。

好奇心を忘れたのはいつ?

今も好奇心はある。だからこそmonoを見た。見かけて気になったから触れた。そこまでは昔の自分と変わらない。

けれど、変わった部分も確かにある。

いつからか、好奇心でスタートしても理屈が上にのしかかってくることが多くなった。始める前に考える。始めながらも考える。「これは見る価値があるのか」「この時間は回収できるのか」と、頭の中の監査役が口を挟む。

実際、monoもそうだった。1話時点の私は、「楽しむ人」ではなく、「評価する人」だった。

見る価値があるかどうかを見定める・・・・・・そんな目線で眺めていた。自分でもはっきり覚えている。あの時の自分は、純粋な視聴者ではなく、可否を決める監査役のようで。

思い返してみると、本当に楽しかったことは全部没頭していた記憶がある。

ゲームでも、スポーツでも、友達付き合いでもそうだ。やりたかったからやった。面白かったから続けた。飽きたらやめた。

そこに「将来の役に立つかどうか」という設計図なんてない。計画も、回収も、期待値もない。ただ、好きだった。やりたかった。それだけ。

そして皮肉なことに、そういうものほど今の自分に影響を与えている。

人間関係の作り方も、集中力の出し方も、好きなものへの嗅覚も、思考の癖も。結局、私という人格を作っているのは、昔の「無駄な寄り道」なのだ。あの時はただ楽しかっただけのものが、今になって根っこを支えてくれている。

意味や価値は結果論だ。効率は「最適化」だが、「探索」には向かない。

何かを始める前に、それが将来役に立つかどうかなんて分かりっこない。そんなものは未来でしか答えが出ない。にもかかわらず、私は今、未来の採点表を見ながら現在の行動を選ぼうとしている。

ただ始めればいい。

やりたいならやればいい。

こんなこと当たり前すぎて誰も改めて言わない。だからこそ忘れる。理屈に押し潰されて最初の衝動が小さくなる。けれどmonoのキャラたちは、その当たり前を説教臭くなく思い出させてくれるのだ。

さて、私はmonoのエンディングが大好きだ。

眠る彼女たちは今日の楽しかった思い出を脳裏に浮かべる。行った場所。撮った写真。笑った会話。どうでもいいようで、確かに大切だった時間。

カメラを回し、手渡す。それは自己完結ではなく、「誰かと共有したい」という欲求だ。誰かの視点には別の景色がある。そしてそれを知りたいと思うことに、意味なんて必要ない。

それでいい。

それだけで十分なのだ。

効率だとか ナンセンスだとか

その辺は置いといて

興味わくコト 気になるコト

憧れで やってみちゃおう直感だ

monoのエンディング映像

憧れと寂しさが詰まった作品

monoは、一瞬を描くアニメだ。

一瞬は過ぎ去り、戻ってこない。だからこそ人はそこに郷愁を覚える。手を伸ばしたところで掴めないものほど、やけに輪郭が鮮明になる。いま目の前の時間より遠ざかった時間のほうが、やけに眩しく見えてしまうことさえある。

彼女たちにとってそれは「夏休み」だ。そして私にとっては、「在りし日の過去」だ。

monoを見ていると、学生時代の空気がよみがえる。あの頃の世界の手触り。自分がまだ「今」を生きていた頃の感覚。けれど同時に、それがもう帰ってこないことも分かってしまう。だから刺さる。だから痛い。だから泣ける。

久石譲の『Summer』を聴いて存在しない夏を想起し、泣きそうになるのと本質は変わらない。

実際にあったはずの夏ではなく、記憶の中で編集された「概念としての夏」。二度と訪れないと分かっているからこそ、眩しさだけが残る。現実の手垢が落ちて、憧憬に変わる。

monoも同じだ。

私の中で、このアニメにはいくつもの感情が同居している。

学生時代、もっとどうにかできたという後悔。

私もこうだった、という寂しさ。

こうありたい、という今の憧れ。

それら全部が同じ画面の上に重なっている。最後に残るのは、たった一行。

「やりたいならやればいい」

大人になってからは理解が難しいものだ。言葉としては理解できる。だが身体が納得しない。損得、意味、効率、回収、未来への説明責任・・・・・・それらがただの衝動を踏み潰してしまう。

monoはそのことを、説教ではなく眩しさで突きつけてくる。

彼女たちは「正しいこと」をしているのではない。ただ「好きなこと」をしている。それが、こんなにも眩しい。だからこそ、忘れられない作品になった。

旅行中、私も写真を撮ってみようと思う。

上手く撮る必要はない。映える必要もない。SNSに載せる必要なんてない。

ただ撮って、いつか見返す。その瞬間の自分を未来に渡す。

ただ、それだけのためにやってみる。

それでいい。それがいい。


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