【ナインソール】なぜ本作はこうも疲れるのか:ソウルライクという病について考える

『九日ナインソール』をプレイしていて、ずっと引っかかっていた感覚がある。

このゲームは間違いなく面白い。パリィ主体の戦闘は気持ちいいし、ボス戦の完成度も高い。敵の攻撃を見切り、ギリギリで弾き返し、こちらのターンへ転換する感覚はかなり良くできている。単純なアクションゲームとして、戦闘部分の満足度は高い部類だと思う。

だからこそ、不思議だった。

達成感がそこまでなく、なぜかずっと慢性的な疲労が蓄積されるのだ。

もちろん、「難しいから嫌だ」「ソウルライクは疲れるもの」という話ではない。高難度ゲームや達成感のある戦闘は好きだし、慣れている。問題はそこではない。

違和感があるのは難易度設計だ。具体的には、探索中ですらずっと高い集中を要求され続けることにある。

道中の雑魚敵までかなり強く、普通の戦闘でもしっかり敵のモーションを見て、間合いを管理し、パリィを合わせなければならない。少し気を抜けば大ダメージを受けるし、雑魚とは思えないほど攻撃性能が高い敵も多い。

その結果、探索が「移動」ではなく、常に「試験」になる。

新しい場所を見つけても、まず「また強敵がいるのでは」という緊張が先に来る。取り逃した場所を確認しに戻るのも億劫になる。やがて、メトロイドヴァニア特有の「あそこ行けそうだったな」という軽い往復すら、かなり重く感じてしまう。

ここでふと思った。

これは純粋な2Dアクションゲームだったら、そこまで気にならなかったのではないか。

たとえばステージクリア型の高難度アクションなら、常時集中を要求されても成立しやすい。ゲーム全体が「戦闘のための空間」だからだ。しかしメトロイドヴァニアは、本来かなり探索寄りのジャンルだ。

  • 未知の通路を見つける
  • あとで取れそうな宝箱を覚えておく
  • ショートカットがつながる
  • 世界の構造が徐々に理解できていく

本来の快感はこういった部分にあるはずだ。

なのに、なぜそこへここまで重い戦闘を常駐させるのか・・・・・・この違和感が、プレイ中ずっと頭から離れなかった。

ということで、本記事ではナインソールのプレイにおいて感じたソウルライク至上主義への違和感、メトロイドヴァニアとの相性問題について、分析したいと思う。

ソウルライクという名の慢性的な高難度化・・・・・・これはなぜ今や常識になってしまったのか?

ナインソールを題材に、探索と高難度戦闘の衝突を表現したアイキャッチ画像

誤読された「ソウルライク」

まず、私は別にソウルライクそのものを否定したいわけではない。むしろ、原典である『DARK SOULS』にはかなりハマリ、全シリーズをやりこむほど愛着を持っている人間だ。

完成度の高いゲームデザインだと思う。ただ問題は、その後のフォロワーが「何をソウルらしさとして受け取ったか」・・・・・・この「勘違い」が気になってしまうことだ。

未プレイの人から見ると、ダークソウルはしばしば「超高難度ゲーム」というイメージで語られる。

ずっと死に続ける、敵が理不尽、常に極限の集中を要求される・・・・・・こういった印象を持たれがちだ。だからこそ、これをクリアした人間はある種の選民思想を持ちがちにもなる。

しかし実際に遊べば、「常時理不尽な超高難度ゲーム」という印象とはかなり違うことがわかる。少なくとも、クリアできること自体が特別な才能の証明になるような作品ではない。

もちろん適当にボタンを連打して進めるゲームではない。だが、敵の配置を見て、釣って、ガードして、慎重に進めばちゃんと突破できるレベルだ。いわゆる「ガン盾直剣」でかなりの場面がどうにかなるのも象徴的。

つまり、本家は「常時高難度」などではない。

前提として「注意力ゲーム」であり、ゆえにちゃんと気をつければ進める時間と、一気に集中を要求される時間のメリハリが存在していた。

その設計を支えていたのがエスト瓶だ。

エスト瓶というと、「回数制限付き回復=高難度システム」という直感的な印象を持たれがちだ。しかし実際には、あれは超絶難度戦闘のためというより、探索中の小さなミスを吸収するための仕組みだった。

少し被弾した、不意打ちを食らった、ローリングをミスした・・・・・・そういう細かな事故をリカバリーしながら進むためのシステム。だからこそ「回数制限」という機能が成立していた。

そして、通常戦闘そのものは「ちゃんとやれば突破できる」程度に調整されていたのを忘れてはならない。もし道中の雑魚までボス並みの精度を要求されたら、エスト瓶は単なる延命装置(融通の効かない縛り)になってしまう。

つまり本来のダークソウルは、「小さなミスが蓄積する探索」と、「一気に集中力を要求されるボス戦」を分けて設計していたのだ。

本家ダークソウルとソウルライク作品の緊張の波の違いを比較した図

ところが、多くのフォロワーはそこを誤読した。

彼らが受け取ったのは、篝火、エスト瓶、パリィ、強い敵、そういった「ソウルっぽい記号」だった。結果として、フォロワー作品は表層だけ真似したコピペであふれることになる。

  • 敵は強ければ強いほどソウルライク
  • 常時緊張しているほど硬派
  • 雑魚でも気を抜けないのが本格派

しかし、それは本家がやっていた「メリハリ」を理解せず、要素だけを抽出したものに近い。だからただしんどい、「緊張だけを抽出したもの」にまさしく「ライク」のラベルが付与される。

本来のダークソウルが優れていたのはずっと苦しいからではない。

慎重に進めば突破できる道中と、全力集中を要求されるボス戦。その緊張と緩和の切り替えが丁寧だったからこそ、あの独特の達成感が成立し、受け入れられていたのだ。

メトロイドヴァニアの面白さの本質

では、そもそもメトロイドヴァニアは何が楽しいジャンルなのか。ここを整理しておきたい。

私が思うこのジャンルの本質は「探索パズル」だ。単純に広いマップを歩き回ることでも敵を倒すことでもない。もっと根本にあるのは、「未知への回答」を探していく感覚だ。

たとえばプレイ中、こんなことを考える。

  • 「あの高い場所、どうやって行くんだ?」
  • 「この扉、どこにつながってる?」
  • 「さっきの宝箱、あとで能力を取れば回収できそうだな」
  • 「このショートカット、中央エリアにつながるのか」

つまり、常に未解決の疑問が発生している。そして、新しい能力を手に入れたり、マップ構造を理解したりすることで、それらが少しずつ解決されていく。この感覚こそが、メトロイドヴァニアのコアだと思う。

極論を言えば、宝箱の中身ですら二次的だ。もちろん報酬は嬉しい。しかし本当に気持ちいいのは、「行けなかった場所へ行けるようになった」ことそのものだったりする。

だからメトロイドヴァニアでは、行けない場所を見つける、それを覚えておく、後で能力を手に入れて戻る、世界の構造がつながる、という流れが非常に重要で、どの作品も基本はこれを踏襲している。

この設計はほとんど「空間パズル」に近い。

マップ上の点と点が線になり、「ああ、ここってあそこにつながってたのか」と理解できた瞬間が快感になる。閉じていたショートカットが開通し、移動効率が上がるのも嬉しい。

つまり、探索の快感とは単なる移動ではない。世界を理解していく快感だ。

だからこそメトロイドヴァニアでは、「気になった場所へふらっと戻る」という行為がかなり重要になる。

さっき見つけた行き止まり、開かなかった扉、届かなかった足場・・・・・・そういう保留中の疑問を抱えながら歩き回ることそのものが、ジャンルの面白さになっている。

逆に言えば、この「考えながら気軽に往復する感覚」が崩れると、探索の気持ちよさはかなり損なわれてしまうのだ。

能力取得によってマップの接続が理解されていくメトロイドヴァニア的探索の図解

探索と高難度戦闘は使うリソースが違う

ここまで整理すると、ようやく違和感の正体が見えてくる。

なぜ最近のソウルヴァニア系作品は、遊んでいて妙に疲れるのか。

理由はかなり単純で、探索と高難度戦闘ではプレイヤーに要求する認知リソースの種類が根本的に違うからだ。

まず、探索。メトロイドヴァニアにおける探索では、プレイヤーは常にいろいろな情報を頭の片隅で管理している。前述した「あそこどうやって行くんだ?」というようなものだ。

つまり、地形記憶、分岐把握、未回収管理、進行推測のような、長期的あるいは分散的な思考をずっと続けている。

これは一瞬の集中ではなく、むしろ少しずつ注意力を削っていくタイプの負荷だ。いわば探索というのは「逓減する戦い」だと言える。

長い道を歩き、少しずつ集中力が減っていく。その中で、小さな判断を積み重ねていく。だからこそ、探索ゲームには本来ある程度の余白が必要になる。

一方で、ボス戦はまったく違う。そこで要求されるのは、精密入力、パターン認識、高速判断、ジャスト回避、瞬間集中のような、短時間で一気にリソースを燃やす能力だ。

これは長距離走ではなく短距離走に近い。探索が「じわじわ削るゲーム」なら、ボス戦は「一気に燃やすゲーム」なのだ。

だから、本来この2つはメリハリによって成立していた。

探索でじわじわ神経を使い、ボスで一気に集中する。そしてボスを越えたらまた探索へ戻る。この緩急があるから、両方が気持ちよく機能する。

しかし最近のソウルヴァニア系作品は、この2種類の負荷を常に同時要求してくることがある。

探索中なのに、雑魚が高火力、精密パリィ必須、ミス許容が少ない、モーション確認必須といったボス戦レベルの集中・・・・・・プレイヤーは、「次どこへ行く?」などと考えながら、同時に、「この攻撃をパリィして」「スーパーアーマーに注意して」までやらされるわけだ。

つまり、探索負荷+ボス戦負荷が常時重なり続ける。するとどうなるか。

結果として起きるのは、高難度クリアの達成感ではない。ただの疲労だ。重要なのはここだと思う。

自分が感じていた違和感は、「難しいから嫌」ではなかった。そうではなく、探索とボス戦が同じ密度で常駐しているせいで、脳の休みどころがなくなっていたこと・・・・・・この設計のミスマッチが気になってしょうがなかったのだ。

探索とボス戦で要求される認知リソースの違いを示した図

強い敵ばかりになることの感覚マヒ

では、ここで改めてナインソールの話へ戻りたい。

私がプレイ中に感じていた違和感をもっと具体的に言うなら、「強い雑魚が常駐しすぎている」ということだった。もちろん、強敵そのものが悪いわけではない。問題は配置だ。

ナインソールでは、通常の道中ですらかなり重い戦闘を要求される場面が多い。

  • 雑魚なのにボス並みのモーションを持っている
  • スーパーアーマーでゴリ押してくる
  • 火力も高い
  • しっかりパリィや回避を合わせることを要求される

つまり、道中なのに毎回ちゃんと試験をやらされる・・・・・・これが探索ゲームと噛み合っていない。

メトロイドヴァニアでは、本来かなり気軽に往復できるべきだ。そもそも「探索自体」が軽い試行錯誤を繰り返すジャンルである以上、そこが妨害されるのは「探索させたくないのか」とも考えてしまう。

道中の雑魚が強すぎると、それだけで移動が億劫になる。探索中にまず浮かぶのが「めんどくさい」になってしまうと、最短距離で駆け抜ける以外に思考がなくなる。

未知への興味より失敗への警戒が前に出る・・・・・・これは探索ゲームとしてかなり大きい損失だ。

そもそも、強敵というのは要所的な刺激にあるこそ成立する「アクセント(スパイス)」だ。

  • 深部へ入る直前
  • 大きな宝箱の前
  • ショートカット開通直前
  • 篝火やセーブ地点の手前
  • レバーを引けば開通する場所

たとえば、こういう「あと少し」の位置に強敵を置けば、緊張はカタルシスへ変わる。

回復も少ない、でももうかなり進んだ、あと少しで安全地帯だ・・・・・・こういった状況でちょっとした強敵を突破するからメリハリが生まれる。つまり、緊張というのは配置によって快にも不快にもなりえるのだ。

強敵を常時配置した場合と、要所だけに配置した場合の違いを示す図

逆に、常時緊張している状態というのはあまり達成感を生まず、むしろマヒする。ずっと集中を要求され続けると、緊張は「特別な状態」ではなく、「通常業務」になってしまう。そして最終的には、達成感ではなく疲労だけが残る。

私は「メトロイドヴァニアにおける強敵を減らせ」と言いたいわけではない。

そうではなく、「どこで緊張させるのかを設計して配置してほしい」と言いたいのだ。

「とりあえず達成感のために強い敵を置いておこう」・・・・・・これ自体は間違っていないが、やりようによっては受け手の印象が悪くなる。強敵を置くことそのものではなく、なんとなくで常駐させることが問題なのだ。

面白い要素を混ぜれば面白くなるのか?

では、なぜ最近のメトロイドヴァニアはここまでソウル化の一途を辿っているのか。

これは非常にシンプルな理由で、ソウルライクというジャンル自体が大成功したからだと思う。当然、後続作品がその成功体験を参照する流れが生まれるのは自然だ。

思えばダークソウルは単なるヒット作というより、「高難度ゲーム」という価値観そのものを再定義した作品だった。

難しい、でも理不尽ではない、乗り越えると強い達成感がある・・・・・・この感覚が多くのコアゲーマーに刺さった。もちろん、私もそれに取り憑かれたひとりだ。

結果として、「高難度」はひとつのブランドになった。さらにそこへ、『Hollow Knight』の成功が重なる。

ホロウナイトは探索型アクションと高難度戦闘を融合させ、「高難度メトロイドヴァニア」が商業的に成立することを証明した。そしてこれが「現代メトロイドヴァニアの基準」にもなった。

当然、後続作品は影響を受ける。すると、発想としてはかなり自然なものに帰結する。

メトロイドヴァニアは元々コアゲーマー寄りのジャンル。そこへ、同じくコアゲーマー人気の高いソウルライク要素を加えれば、もっと面白くなるのではないか?

実際、その考え方自体は間違っていない。だからこそどんどんと似たようなゲームが溢れ、ある程度は売れることを市場が証明している。

ただ問題は、その融合が「要素の追加」として行われやすかったことだ。つまり、単純に「ソウルらしい記号」を足していく方向へ進みやすかった。

しかし、ゲームデザインというのは単純な足し算では成立しない。どれだけ単独で優れた要素でも、プレイヤーへ何を要求するか、どのテンポで遊ばせるか、緊張と緩和をどう配置するかが噛み合わなければ、互いを殺してしまう。

私はこれを、「ラーメンとケーキの問題」だと思っている。

ラーメンは美味い。ケーキも美味い。でも、だからといって一緒に食べればもっと美味くなるわけではない。

塩味と甘味の相性、食べるタイミング、口の中のリズム、そういう「組み合わせ方」が重要になる。突飛な例でもなんでもなく、本質はゲームと同じだ。

ラーメンとケーキを混ぜた比喩で、ゲーム要素の相性問題を表現した画像

ソウルライク要素もメトロイドヴァニア要素も、それ自体は優秀なのだと思う。問題は、「どのように混ぜるか」を考えず、とりあえず人気要素として盛り付けてしまったときに起きる。

結果として、探索で長期的に神経を使いながら、同時に高精度戦闘を常時要求されるという「ずっと疲れるゲーム」が生まれてしまった。

高難度だから苦しいのではない。要素同士のリズムが噛み合っていないから苦しいのだ。

なぜ昔のメトロイドヴァニアは成立していたのか

ここで、少し昔話をしよう。

今のメトロイドヴァニアはほぼ間違いなく高難度戦闘を付与している。しかし、かつてはそんなこともなく、難しい戦闘自体はあっても、意識した極端な高負荷は設計されなかった。

にも関わらず、別に不人気ジャンルということもなく、それはそれで成立していた。

また、「昔のメトロイドヴァニアも不便だったじゃないか」という反論も考えたい。これは実際その通りで、昔のメトロイドヴァニアは今以上にプレイヤーへ記憶を要求していた。

しかし、それでも当時は成立していた。

なぜか。

これは理由のひとつとして、規模の問題が大きい。昔のメトロイドヴァニアは、少なくとも現代の大型インディーと比べれば、マップ規模や情報量が記憶可能範囲に収まりやすかった。

だからこそ、「あそこ気になるな」「後で戻ろう」が成立した。脳内マップも維持できたし、手書きメモも機能した。プレイヤー自身が遊び方を最適化し、効率ルートを見つけ、RTA文化のようなものまで自然発生していくまでになった。

つまり、当時のゲームは「小規模だからこそ余白があった」のだ。それによって開発側がすべてを整理しなくても、プレイヤーが自分で遊び方を作れた。

これはかなり大きい。わざわざ開発がラーメンケーキを用意しなくても、別にラーメンだけで美味しくいただける土壌があったという事実。

一方、現代のメトロイドヴァニアはどうか。

今の作品は、長編化、高密度化、要素過多、マップ巨大化、戦闘複雑化がかなり進んでいる。にもかかわらず、「昔ながらの探索負荷」だけはそのまま継承されていることがある。

すると何が起きるか。

昔は「自分で覚えられる範囲」だったものが、今では単純な情報管理労働になりやすくなる。さらにそこへ、高難度戦闘まで加わり、「しんどいゲーム」に変貌する。

記憶、認知、戦闘、移動、リソース管理のすべてが重くなったラーメンケーキは、もはや「楽しさ」より「疲労」が前に出てしまうゴチャついた超高カロリーの爆弾だ。

こうなってしまった背景には、現代ゲーム(制作、コミュニティ)特有の強迫観念もあるように思う。

とにかくボリュームを増やさなければならない、長く遊ばせなければならない、要素を盛らなければならない・・・・・・そんな空気が歪んだ方向への突貫を咎めなかった。

本来メトロイドヴァニアの魅力は、「大量の要素」そのものなんかじゃなかったはずだ。

むしろ、世界がきれいにつながること、気になる場所を覚えておけること、自分の理解が深まっていくことといった、こういうちょうど良さ(ミニマルさ)にこそあったのではないか。

要素を多くしないと売れないのか?

ならば、どうして『Ender Lilies: Quietus of the Knights』はあんなに売れたのか。『ANIMAL WELL』は圧倒的好評価なのか。量や負荷はあるべきだと、勝手にそう解釈しただけなのではないか?

見えないなにかに怯え、要素を増やし、本当に大切なものを見失う。なんだか寓話みたいじゃないだろうか。

本質を問わない融合は破綻する

本記事において私が言いたいのは、「高難度ゲームはやめろ」という話ではない。ソウルライクを否定したいわけでもないし、メトロイドヴァニアに戦闘はいらないと主張したいわけでもない。

繰り返すが、ナインソールの戦闘自体はかなり好きだし評価している。パリィの気持ちよさも、ノーダメでボスを倒した達成感も、未だ脳に記憶されている素晴らしい体験だ。

ただ、論点はそこじゃない。問題は、「どの体験をどの密度で要求するか」だ。

面白い要素を足せば必ずしももっと面白いゲームになるわけではない。

パリィが面白い、探索が面白い、高難度が面白い・・・・・・これらは全部正しい。しかし、ゲームデザインというのは単純な足し算では成立しない。重要なのは負荷設計だ。

  • 何を体験させたいのか
  • どこで緊張させるのか
  • どこで安心させるのか
  • どこで集中を燃やさせるのか

探索が本来じわじわと神経を使う遊びである一方で、ボス戦は一気に集中力を燃やす遊びだ。そして、この2つは別々だから成立し、機能する。

探索で神経を使い、ボスで全力を出し、突破したあとに安心する・・・・・・そのリズムがあるから達成感も生まれる。

しかし今のソウルライクフォロワーの一部は、そのメリハリではなく、苦しさだけを継承してしまっているように見えて仕方がない。

常時高火力、常時強雑魚、常時緊張、常時集中・・・・・・それは確かに「難しい」のかもしれない。

だが、「難しい」と「良い負荷」はまったくもって同じではない。

本家ソウルが優れていたのは、「ずっと苦しいゲーム」だったからではなく、苦しさと安心、緊張と解放、探索と戦闘といったそれらを丁寧に切り替えていたからだった。その結果として、あの独特の達成感が成立していた。

改めて思う。

本当に必要なのは、「もっと難しくすること」ではない。プレイヤーへ何を感じさせたいのかを考え、そのために緊張と解放をどう配置するかを設計することなのではないか、と。

緊張と解放のメリハリ設計を象徴する締めのビジュアル

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