『Slay the Spire』以降、デッキ構築型ローグライクは珍しいジャンルではなくなった。
カードを集め、シナジーを作り、ランダムな報酬をつなぎながら強くなっていく・・・・・・こういう様式を並べた時、まず頭に出てくるのはスレスパだろう。
ただ一応、このシステム(ジャンル)自体はスレスパが祖先ではない。歴史を紐解けば『Dominion』や『Dream Quest』といった偉大な先輩が存在する。しかし、ジャンルの名を冠するのはスレスパだ。
というのも、スレスパが行ったのは、「3エナジー前後でカードを使用する」とか「毎ターン手札を引き直す」とか、こういった基本骨格を普及させた(デファクトスタンダード化した)ことだ。後発作品の参照先としてわかりやすかったのが大きい。
そして「スレスパライク」なる派生が出現。スレスパをフィーチャーしつつ、独自のUIや演出、キャラクター性を足したものが今も生まれ続けている。部分だけを見れば、本家より派手で、触っていて気持ちよく、初見の面白さでは上回っていると感じるものもあるほどだ。
しかし、私はそういったゲームをある程度やるたびにこう思う。「なんかなあ」と。
フォロワー作品は確かに面白い。だが、それらの寿命は割と短い。一生遊べるほどの深みを感じず、そうしようという気概も生まれない。
これは、ゲームの面白さが影響しているのだろうか。だが、スレスパ以上に面白いと感じるようなフォロワーは数多い。となると要因は別な気がする。
私が思うに、本家スレスパとの最大の差は、高難度の設計・・・・・・また、それに対するモチベではないか。
「難度を上げるほどデバフまみれになって苦しくなる」という仕組み自体は同じなのに、フォロワー作品の場合は億劫に思う。それが寿命に影響するのではと。
スレスパはA20ですら再挑戦の気持ちが宿る。これを「バランス調整の差」と結論づけるのは正確だろうか?
確かにスレスパのバランスはすごい。だが、この「バランス」という単語は非常に曖昧で、便利な言葉でもある。それをもって本家とフォロワーの差を説明した気になるのはやや雑に思う。
これは単純に「スレスパのほうが面白い」という話ではない。
フォロワー作品も確かに面白いのに、結局スレスパがチラついて、そっちに戻る。レビューでも「高難度はつまらない」のようなものが散見されたりもする。じゃあ、スレスパの高難度は何がどう違うのか?
本記事は、スレスパを礼賛するためにフォロワー作品をコキ下ろす内容ではない。
なぜスレスパはどれだけやっても味がするのか、ただ苦痛なだけの高難度にならないのか・・・・・・それを踏まえた「スレスパの長寿性」を分析していく。
ゲーム寿命の差はどこで現れるか
まずは、改めて本記事の問いと主張を整理したい。
スレスパをきっかけとしたデッキ構築型ローグライクの波。その中で生まれた傑作たちは、しかしスレスパほど熱中するものに「今のところ」私はぶつかっていない。面白い作品は多かったが、しかし20時間もすれば満足する程度だ。
一方で、スレスパは今や数百時間とやっているにも関わらず、飽きたということはない。別に毎日狂ったようにやるほどではないが、「もうやることがないな」「出がらしだな」みたいに感じることはない。
では、この差はどこにあるのか。
大きいのが、高難度の扱いなのではないかと私は考える。
そこから、本記事で述べたいのは「スレスパとフォロワーの高難度は何がどう違うのか」ということの考察だ。当然、ファクターは色々ある。そのうちのひとつであり、大きいのがこれではと。
ただ、ここは「高難度をやらなくても何百時間も遊べるゲームはあるのでは?」という反論で話が広がってしまう。そのため、一般論争を抑えるため、射程を明確にする。
ゲームの寿命を決めるものが高難度だけだと言いたいわけではない。収集、対戦、創作、タイムアタックなど、別の問いを供給するゲームはいくらでもある。
ただ、今回扱っているデッキ構築型ローグライクでは、基本ルールを理解し通常クリアが安定した後、「それでもまだ判断を要求する仕組み」として高難度が大きな役割を持つ。ここではその部分に絞って考えたい。
通常難度を十分攻略した後にも問いを供給し続ける仕組みとして高難度が重要になる、という話だ。
次に、なぜ「ゲームの寿命」と「高難度のバランス」がつながるのかを整理しよう。
まず、「ゲームに飽きる」ということは、つまり、それへの問いや挑戦を失った状態であると仮定できる。たとえば未踏破のマップ、未だ見ぬレリック、まだ手に入れてないスキル・・・・・・こういったものがあれば、それを手に入れることがモチベーションになる。
一応、オープンワールドなどにおける、やることがありすぎて逆にやる気が無くなるという現象もあるのだが、今回は扱わない。プレイそのものがミニマルでやることが多い(操作そのものの負荷が億劫になりにくい)・・・・・・マウス操作だけで完結するようなジャンルにおいて考えたい。
本来、未達の課題は原動力になる。この対象として前述した数々のものがあり、一番わかりやすいのが高難度だ。
というのも、普通にクリアするだけだと喜びは逓減する。勝てて当然の敵に対して勝つ、というのは心が動かない。一番盛り上がるのは、勝てるかどうか分からなかったけど最終的に勝った、という状況だろう。
ゆえに、通常プレイを一生繰り返すというのは、仕組み的には考えにくい。もちろん、連勝記録を樹立する、というような目標があれば別だが、ただやるだけでは問いや挑戦はやがて消滅し、やめる。
リプレイ性がない、という批判もこれに追随する。結局は同じことの繰り返し・・・・・・これはリプレイ性があるのではなく、ただの反復作業だ。
そこでスパイスとして出てくるのも高難度だ。いつも戦うやつの様子が違う、いつも通りでは勝てない・・・・・・こういったメリハリが、ゲームに対する新しい知見を創出し、惰性になっていたプレイがまたも息を吹き返す。
こうして見た場合に、高難度の仕組みを見るということは、そのゲームの寿命を論じる際に重要な部分だと言える。ゆえに、本記事では中心に置く。
さて、その高難度だが、実際そう上手く設計できないのがレベルデザインの難しいところだ。
やりごたえのある高難度というのは非常に構築しづらい。私が数々のフォロワー作品のそれをそこまで楽しめなかったのは、ほぼ設計思想を受け入れられなかったからだ。
結局、高難度の仕組みはほぼ共通で、圧倒的不利になるデバフの温床だ。あらゆる選択肢が窮屈になり、困難を解くのではなく、理不尽の押し付けへの喘ぎに近くなる。
やっている内、私はこう思い、やめる。
「こんなのただ辛いだけじゃね?」
高難度におけるつまらなさの正体
「高難度はしんどいもの」という言説に、半々の理解と反論がある。そして、私が抱く反論として大きいのは、「しんどいだけのゲームって面白いの?」ということだ。
困難に挑戦する、ということ自体は何も文句ないし、だからこそ劣勢に立たされるというのもわかる。ではなぜ、やりたいと思う高難度と、そうでない高難度があるのか。
たとえばスレスパのA20は明らかに難しい。しかし、そこまでに20回分の難度上昇をやったうえで、それでも遊びたいと思える。となると、問題は難しさそのものではないのではないか。
「お前がスレスパ好きなだけだろ」という意見はもっともだ。しかし、私は他の大好きなゲームでさえ、高難度の設計に触れて萎えるということが数多くあった。スレスパをヨイショするために甘く評価している、ということでもない。
では、やがてモチベが減退する設計とは、何が問題なのか。
私は、「難度が上がるほどプレイヤーの判断価値が下がっていく仕組み」に問題があるのではと考える。
これは何も高難度に関するだけでなく、通常プレイ(というかゲームデザインそのもの)でさえ顕著だ。
ここでは例として『CloverPit』をあげる。レリックによってスコアがどんどん増えていくタイプのスロットゲームで、クリアまで非常に熱中した名作だ。

ただ、やってる最中に違和感を覚え、クリアしてからはそのままアンインストールした。何度もやりたくなるものではなかった。それは「あまりにも運ゲーすぎないか?」と感じたからだ。
クローバーピットの仕組みは単純で、スロットで特定の絵柄が揃うようにレリックでいじり、スコアをレリックで伸ばし、資金を潤沢にし、そのまま突っ走るというものになる。定番とも言えるような「運を改変するゲーム」だ。
ただ、これはつまり、レリックに依存しすぎているゲーム性だとも言える。そして当然ながら、レリックはいつでもなんでも買えるわけではない。難度を上げればその余裕はさらに狭まる。
スロットゲームは結局、バニラならただの運だ。そして、出やすい役は報酬も少ない。だから、レリックで強い役を出やすくし、報酬を上げるのが戦略になる。
では、そのレリックそのものが手に入らなかったら?
打開の術はほとんど無い。そして、レリックに頼るだけの運ゲーじゃないかと一気に冷める。クローバーピットはそもそものゲーム性がこうであるから、高難度ともなると突破はさらに運の比重が大きくなる。
ここでの問題は、乱数のどこに勝敗の責任が集中しているかだ。
目の前の問題を越えるために特定のレリックやアイテム、あるいは特定の組み合わせが前提になってしまう場合、プレイヤー側の問いは「今あるものをどう使うか」ではなく、「必要なものを引けるか」に寄っていく。
私がいくつかのスレスパライクにおける高難度で感じた億劫さも、程度の差こそあれ、この構造に近い。敵の数値が上がることそのものではなく、それによって許容されるカード、ビルド、報酬の幅が急速に狭まっていくことの不愉快。
ここで難しさの性質が変わる。
負けた理由が、自分の判断ではなく「必要なものが来なかった」に集約され始めるからだ。
デバフにまみれ、選択肢が極端に細くなる・・・・・・そんな高難度が運ゲー化し、辟易とするのは、乱数が多いからではない。
勝利への責任が、少数の乱数に集中するからだ。
「◯◯が引けなかったから負けた」・・・・・・これは面白いのだろうか?

ただ、クローバーピットはスレスパライクではないので、これ自体をフォロワー作品との直接比較に使うつもりはない。ここで取り出したいのは、「難度上昇によって勝利に必要な条件が狭まり、その条件を満たす少数の乱数へ勝敗責任が集中する」という構造だと明記しておく。
勝利条件の分散と要素の重み
「スレスパだって運ゲーじゃないか」
そんな意見が聞こえてきそうだ。
事実、スレスパもランダムな要素が多数内包されている。カード報酬、レリック、ポーション、マップの形もイベントの内容も、ショップに並ぶカードも毎回変わる。もはやランダムで構成されたゲームと言ってもいい。
しかし、私は運ゲーであることそのものが悪いとは思わないし、言っていない。問題はその重み付けの比率だ。
ここで、本記事でいう「プレイヤーが介入できる」という言葉を少し限定しておきたい。
これは、単に選択肢の数が多いという意味ではない。悪い乱数を引いたあとでも、別の資源や別の判断によって、その損失を補正できる余地が残っているという意味だ。以下では、この余地がなぜスレスパでは失われにくいのかを見ていく。
まず、スレスパは特定の1要素だけでラン全体が決まる感覚が比較的薄い。これがあったからあとは絶対に勝てる、あるいはこれがなかったら絶対に負ける、というものは少ない(大きく貢献する、ぐらいはあるが)。
これは、勝敗に関与する要素が広く分散しているから成り立つ構造だ。
- カードを何枚取るか
- レリックをどこまで集めるか
- ポーションをいつ使うか
- HPをどこまで資源として切るか
- ゴールドを残すか、使うか
- どのルートを通るか
- ショップへ寄るか
- 焚き火で休むか、強化するか
- カードを削除するか
- 戦闘中にどのカードをどの順番で使うか
どれも重要だ。しかし、どれかひとつだけで勝敗が決まるわけではない。このゲームの本質はスノーボールであり、つまり、良くも悪くも1手が後々に多大な影響を及ぼす。
その1手が今を破滅させるものになるかもしれない。しかし、基本的にはラン全体の礎として、すべての選択が影響し合う。これは逆に、好手すらも礎でしかないという素っ気なさがある。
たとえば、レリックは勝敗に大きく関わる重要なものだ。
それこそ古木の枝なんかは壊れている。それを引けばランは楽になるだろう。ただし、廃棄軸じゃないのならばそこまででもないし、ゆえにすべてを逆転する、それを求めてさまようほどのものじゃない。
レリック(あるいは何かしらのいち要素)だけでゲームをしているわけではない。レリックは勝利条件というより、加速装置に近いのだ。
確かに強いレリックが出れば、その時点で持っているカードや資源の価値が上がる。だが欲しいレリックが出なくても、カード取得、ポーション、ルート選択、ショップなど、別の変数で補正する余地が残っている。
前述したクローバーピットがレリック前提であるゲーム性なのに対し、スレスパはレリックをラン改善要素のひとつとして扱っている(スロットとカードゲームでは純粋な比較にはならないが)。
フォロワー作品との高難度比較でも似た状況が見える。「強いものを引けるか」が勝敗の大部分を占めるのに対し、スレスパでは複数の小さな判断と資源管理が合算されて勝敗になる。
つまり、一箇所が下振れても、それだけで終わりにくい。スレスパには、別の場所で埋め合わせる余地が残されているのだ。
デバフまみれになるという同じ高難度設計であっても、それを苦痛と思うかそうでないか。その差は、プレイヤーが介入できる要素の多さと、勝敗にどれだけ何が依存しているかの比重によって生まれている。

悪い引きと敗北が直結しない
具体例を見ていこう。この分散が特にわかりやすく現れるのがAct1だ。
最初のカード報酬が微妙だった、レリックがしょぼかった、戦闘で思ったよりHPを削られた・・・・・・それでも、その時点で「このランは終わり」とは限らない。
フロントロードを優先して取る、勝てないと判断したなら避ける、ポーションを温存せず使う、焚き火で強化ではなく休息を選ぶ、ショップでカードやポーションを買って一時的な穴を埋める・・・・・・判断するにはまだ早いのだ。
もちろん、それでもどうにもならないことはある。
そもそもスレスパは事故らないゲームではない。配布やイベントなどが運である以上、事故を前提として考える必要がある。「金属化」「見張り」「ソードブーメラン」の3択でも選ばなければならない。
重要なのは、事故に対処する手段が複数あることだ。ここに、プレイヤーが介入できる幅が生まれ、諦めを打破する。
まずもって「下振れを引かなければ勝てる」というゲーム性ではない。下振れを引いたあとに、どこまで被害を抑え、何を諦め、何を優先し直すかまでを含めての攻略となる。

この差は大きい。
乱数によって問題が発生すること自体は避けられない。だが、その問題への対処まで乱数に委ねられているのか、それともプレイヤーに戻されているのかで、ゲームの印象は大きく変わる。
では、その対処を可能にしているプレイヤースキルとは何か。
それは、大局観による判断だ。
本作のTierリストはさして役に立たない。というのも、スレスパを長く遊ぶほど、最終的に強いカードと、今必要なカードは別物だと感じるようになるからだ。
たとえば、「バリケード」。これはブロック軸の非常に優秀なパーツだが、Act1の序盤で出たらゴミだ。これに限らず、最終的に必須であっても今それを取ることが最善と限らないものは数多い。
そのカードが完成形では強くても、今必要なのが目の前のエリートを倒すための火力なら、優先順位は容易に変わる。
最終形だけを見てカードを取っていると、その形が完成する前に死ぬ。逆に、目先の問題だけを処理していると、後半に火力や防御の伸びしろが足りなくなってガス欠を起こす。
そのためスレスパでは、常に2つの時間軸を同時に見る必要がある。
- 今を生き残るために何が必要か
- その選択が数フロア後の自分をどこへ連れていくか

一般的には弱いとされるカードでも、今の状況なら取ることがある。逆に強いカードでも、今は取らないことがある。
これはカードの強さが消えるわけではない。ただ、その評価が文脈によって反転するだけだ。
これが、スレスパにおける最重要のプレイヤースキルだと、本記事の文脈では定義したい。
スレスパで問われているのは「何が強いか」を覚える、ただの暗記ではない。「今、何が強いか」を判断する能力だ。そしてこれこそが、「強いカードが出るかどうかに依存した運ゲー」を脱出する要因にもなっている。
A20で問われる例外の判断
ここでひとつ反論があるはずだ。
「高難度になるほど、結局は強いビルドへ寄せるしかなくなるのではないか」
半分はその通りだと思う。確かに、結局は廃棄、毒、集中フロスト、圧縮ウォッチャーになりがちというのは否定しない。
実際、A20では低難度よりも成立しやすい形と成立しにくい形の差が大きくなる。安定しやすい軸もあるし、勝率を求めるほど採用されやすいカードや戦い方にも偏りは出る。
スレスパは「何をやっても勝てるゲーム」ではない。これはそのとおりだ。しかし、「特定のビルド以外は成立しない」というのもまた誤りだ。そんなに懐の狭いゲームではない。
まず、高難度で起きているのは可能性の消滅というより、成立条件の厳格化だ。低難度なら多少雑でも成立したものが、A20では要求される条件を満たさなければ成立しなくなる。
たとえば私は「ランページ」というカードがとてもお気に入りだ。これを主軸にして高アセンションをクリアしたこともある。しかし、だからといって「ランページは強い」とはとても言えない。
これが成り立ったのは、特定のレリックがあり、その時点で圧縮も済んでいて、じゅうぶんに活かせる環境と状況が揃っていたからに他ならない。正直、普段見かけても私は泣く泣く捨てる。かなり厳しいカードだと思う。
ただ、「ランページは常に捨てるべきゴミ」というわけでもない証明にはなる。こんな感じに、条件さえ整えられれば、定番から外れた勝ち筋が完全に禁止されるわけでもないのだ。
成立する条件が厳しすぎるため、基本的には除外される。これは、「最初から除外される」とは天と地ほどの差がある。
この違いは、ルート選択にも現れる。
たとえば「エリートは踏んだほうがいい」というセオリーを知っていたとしても、それだけでは足りない。今のHPはどれくらいか、ポーションはあるか、カードはエリート戦に向いているか、その後に焚き火があるか・・・・・・。
そうやって条件を見た結果、「今回は踏まない」が正解になることもある。知識を持っているだけではなく、その知識を適用しない条件まで見なければならない。
高難度になるほど、この例外判断の精度が問われる。
となると、上級者とは、セオリーを多く知っている人ではない(これは前提)。セオリーを適用しない条件まで知っている人なのだと思う。

A20は知識を前提としていながら、しかし決まったことをやるだけでは勝てない。ここが仮に「なぞるだけ」ならばリプレイ性は生まれなかっただろう。
スレスパが飽きづらい要因は、前提条件や知識といったものが大切に扱われつつも、それを絶対視しないという余白にある。定型化したプレイを強要しない・・・・・・だからこそ再戦の期待が生まれるのだ。
点を線に繋げるゲーム性
ここまでの話をひとつの比喩にまとめるなら、スレスパでランダムなのは「点」であり、それを攻略という「線」につなげるのがプレイヤーだ。
カード、レリック、ポーション、マップ、イベント、ショップ・・・・・・毎回違う点が盤面に置かれる。しかし、その点をどうつなぐかまではランダムではない。
何を取るか。何を捨てるか。何を目指すか。いつ方針を変えるか・・・・・・そこはプレイヤーが決める。
上手いプレイヤーは、毎回違う点から、そのラン固有の1本の線を作る。最初に想定したビルドへ無理やり寄せるのではなく、途中で出てきたものを見ながら、今ある資源同士をつなげていく。
逆に、うまくいかないときは点のつなぎ方で少しずつズレる。強いカードだから取る、早い段階でビルドを固定する、セオリー通りだから同じルートを選ぶ・・・・・・こういった微細なズレ。
ひとつひとつのズレは小さい。だが、判断する回数が多いこのゲームにおいては、そういう小さな誤差が積み重なった結果、最終的には大きな差になる。
いわばスレスパの実力差は1回の神がかった判断だけで生まれるのではなく、小さな判断誤差の累積として現れるのだ。
だからこそ、同じゲームを何百時間遊んでも差が残る。カードもレリックも同じものを使っていながら、どこで何を選ぶかによって結果が変わるからだ。

この構造は、そのままスレスパの寿命につながっている。
あのカード取得は本当に必要だったのか、あそこでポーションを切るべきではなかったか、あのルートでエリートを踏んだのは正しかったか・・・・・・負けたあとに、敗因を振り返る余地がある。
多くの敗北には「別の判断はあり得たか」という検討余地が残るのだ。
ここが、高難度で必須級のレリックやアイテムを引けるかどうかに勝敗が集中するゲームとの大きな違いでもある。
負けた理由が「必要なものが出なかった」で終わるなら、反省しても次回へ転用できる情報は少ない。次にできることは、また引くことになる。再挑戦の理由が再抽選になる。
スレスパは違う。前回の敗北から、次のランで試す仮説を作れる。再挑戦の理由が再検証になる。負けても学習が残るから、次の1回には前回と違う意味が生まれる。

この差は、ゲームの寿命を考えるうえでかなり大きい。
スレスパの寿命は、単に高難度の学習曲線が適切だとか、あるいは他のゲームはデバフが強烈だからとか、そういうことだけに影響しているわけじゃない。
そもそもプレイヤーの介在性が広いシステム。
回答が限定されるような「なぞるだけ」のゲームプレイになりづらい高難度設計。
この2つが要因として大きく、そしてそれがゲーム寿命の長さという結果をもたらすのだ。
スレスパの「神バランス」とは何なのか
スレスパは、よく「バランスがいい」と言われる。
ただし、この言葉を「すべてのカードが同じくらい強い」「どんなビルドでも同じくらい勝てる」という意味で使うと、実態とは少し違う。そもそもすべて均等に整えられているわけではない。
それでもバランスがよいと感じるのは、可能性・・・・・・「状況によって別の可能性を見いだせるから」なのではないか。
強いものを引けなかったから終わりではない。今あるカードなら別の方向へ行けるかもしれない。レリックが弱いならルートを変えるかもしれない。
こうやって、ひとつの選択肢が弱くなったとき、別の選択肢が意味を持つ構造になっている。
となると、良いバランスとは、すべてを同じ強さにすることではない。プレイヤーが状況に応じて別解を発見できることではないか。
当然ながら本作にも最適解はある。強いカードも、強いビルドも、定番のセオリーも存在する。
しかし、それらを知っただけでゲームが終わらない。毎ラン問われるのは、その答えを今回も使ってよいのかということだからだ。
同じカードでも取るべきときと取らないほうがよいときがある。同じエリートでも踏むべきときと避けるべきときがある。同じセオリーでも、状況によって適用条件が変わる。
そのため、知識が増えても判断は自動化しきらない。むしろ知識が増えるほど、「今回は例外ではないか」と考える余地が増えていく。
飽きるとはなにか。私は「問いや挑戦を失った状態である」と前述した。さらに加えて言うのであれば、飽きるとは「答えから逸脱できなくなること」なのではないか。
答えを知ることで飽きるのではない。それしかなくなり、それ以外に考慮せず、新たなチャレンジをしなくなる・・・・・・だから、飽きる。
問いが画面上に残っているだけでは足りない。毎回違う敵や報酬が出ていても、それに対する正解が常に同じなら、プレイヤーにとってはすでに解き終えた問題だからだ。
そう考えると、「問いを失う」と「答えから逸脱できなくなる」は同じ現象の表裏なのかもしれない。
フォロワー作品のプレイが長く続かないのは、難しいから嫌になると言うことではない。「つまりこれをしないとダメなのね」という勝利条件の狭まり、プレイヤーの試せることが乏しくなってしまうがゆえの退屈の結果なのだ。
一方のスレスパは、答えを持ち合わせている上で、毎回「本当にその答えでいいのか」と問い返してくる。あるいは「その答えは今回も通用するのか」「その答えは今この瞬間も適応されるのか」と。
そして、その検討結果を次のランで試せる。だから何百時間経っても、発見と反省が消えず、もう一度やる意味が生まれる。
ランダムだから一生味がするのではない。
ランダムな点を、毎回自分で線にし直さなければならないから、その「もう一度」は終わらないのだ。
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