なぜSEKIROライクは本家を超えられないのか:音ゲー化したアクションゲームの功罪

ここ10年で「時代を変えたゲーム」と言えば、私は『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』がまっさきに多い浮かぶ。

これは単なる大ヒットや高評価といったその場限りの称賛を指さず、以下の3段階で考えた場合の結論だ。

  • その作品に特徴的な設計がある
  • 後続作品がそれを明確に参照、模倣する
  • 元ネタを意識しなくても採用される「普通の設計」になる

この3つ目が最上位であり、いわば「デファクトスタンダード化」だ。◯◯ライクの元ネタに当たるもの・・・・・・これこそまさに、時代を作ったゲームであり、SEKIROがここへ収まるのに異論はないだろう。

では、SEKIROは何が、何を基準点として更新したのだろうか。

ここで「パリィ」という答えは物足りない。事実、SEKIRO以前にもそのシステムはあった。つまり、発明者ではない。

本作がやったのは、「敵の攻撃を避けるのではなく、正面から受けて弾くのを戦闘の基本循環にした」こと・・・・・・ここが革命だった。

  • 以前:敵が攻撃→回避→隙に攻撃
  • 以後:敵が攻撃→弾く→それ自体が敵の崩しになる→攻撃継続

いわば、SEKIROはパリィを防御手段から戦闘そのものを成立させる中心システムへ昇格させ、その設計が後続アクションゲームの定型のひとつになったのだ。

だからこそ最近のアクションゲームには、パリィを前提としたシステムが多い。

敵の攻撃を直前で受け止め、無効化し、怯ませる。専用のゲージを削り、大きな攻撃チャンスを作る。もはや一部の上級者が使う特殊なテクニックではなく、戦闘の基本ルールとしてパリィを要求する作品も珍しくなくなった。

さて、そんなパリィを使い倒す後続作品だが、ここで時代ゆえの特殊な批判が生まれる。

それは「今のアクションゲームは音ゲー化している」というものだ。

なんでもかんでもパリィする・・・・・・このシステムは、やがて「相手のタイミングを読んで棒立ちでパリィ」へと最終的に行き着く。駆けずり回って戦う、攻撃を釣るのではなく、攻撃をただ待ってパリィするだけのルーチン。

これはたしかに、譜面を覚えてタイミングよく叩く音ゲーに近い構造だ。

SEKIROを模倣したアクションゲームは音ゲー化の傾向をたどった。では、そもそもSEKIROはそう揶揄されるような音ゲーアクションの総本山ではないのか?

本記事はSEKIROのレビューではない。SEKIROによってアクションゲームはどう変わったのか、そして、本来どう変わるべきだったのか・・・・・・模倣の勘違い、SEKIROの功罪を分析したいと思う。

かつてのパリィはなんだったか

パリィというシステムの意義と存在感を更新したSEKIROだが、では、そもそもパリィとはどういうものだったのかを振り返りたい。

パリィ(parry)とは、本来「受け流す」「いなす」といった意味を持つ言葉だ。ゲームにおいても長らく、敵の攻撃を適切なタイミングで処理し、被害を受けないための防御行動として扱われてきた。

私がそれをかつて見た作品で、思い出に残っているのは2つある。『ファイナルファンタジーXII』と『デビルメイクライ3』だ。

FF12のそれはまさしくパリィで、敵の攻撃をいなし、ダメージをゼロにするシステムだ。回避率というものが発生に関わり、これを上げれば敵の猛連打もノーダメージでやり過ごせる。

DMC3では、ロイヤルガードという攻防一体のスタイルで行える。システム的にパリィではあるが、ゲーム名称では「ブロック」。タイミングよくガードするとノーダメージになるというものだった。

これら2つに共通しているのは、パリィは「受けのシステム」であることだ。一応、ロイヤルガードはリリースという技で攻撃に転換できるが、基本は受けるのが主要な使い方となる。

かつてのパリィとは結局、攻撃を防いだという結果を示すものであり、それ自体が敵を倒す手段の印象は薄かった。だからこそ特殊なもので、それがメインになるのは考えにくい、卓越した上級者向けの防御システム以上ではなかったように思う。

ところが現在のアクションゲームでは、パリィの意味合いが大きく変わっている。

パリィに成功すると敵が大きく怯み、ゲージが削れ、こちらへ攻撃権が移る。防御に成功したというより、カウンターを決めたというほうが実感に近い。相手の100の攻撃を0にするのではなく、それをそのまま(あるいは微減して)返すような印象だ。

同じ「敵の攻撃に合わせて入力する行動」であっても、その役割は変わっている。

従来のパリィが被害を避けるためのものだとすれば、現代的なパリィは勝利を進めるためのものになった。

そして、その転換を極端なところまで押し進めたのが、SEKIROの「弾き」だった。

弾きは、従来のパリィを単に強くしただけの仕組みではない。防御行動の用途そのものを変えた仕組みと言ってもいいぐらいの、革命だった。

防御は最大の攻撃

SEKIROで敵の攻撃を弾き、体幹を崩している戦闘シーン

SEKIROの戦闘を成立させているのは、弾きだけではない。重要なのは、弾きが体幹という勝利条件に接続されていることだ。

こちらが攻撃すれば、敵の体幹を削れる(厳密には回復速度の減少)。敵の攻撃を弾いても、敵の体幹を削れる。つまりSEKIROでは、自分が刀を振っている時間だけでなく、敵が攻撃している時間にも勝利へ近づける。

これは凄まじい改変だ。

従来型のアクションゲームでは、敵の動きを見て、攻撃を避け、隙ができるのを待ち、そこで初めて反撃するという流れが基本だった。回避やガードは攻撃の機会を得るまでの準備であり、敵のターンをやり過ごすための時間ともみなせる。

アクションゲームとコマンドバトルは比較されがちだが、これらは根幹のところでは似通っている。つまるところ、相手のターンと自分のターンがあり、その時間が止まって体感できるか否かでしかない。

敵の攻撃が続いているときは相手のターンなので防御などに切り替える。逆に、相手が空振ったらこちらのターンなので殴る・・・・・・これをリアルタイムでやっているかどうかなのだ。

もちろん、従来のアクションゲームにも割り込みやカウンターはある。ここでいう「相手のターン」とは、何もできない時間という意味ではない。敵の攻撃を処理しているあいだ、基本的には敵の撃破という勝利条件をこちらから進めにくい時間、という意味だ。

さて、SEKIROではその待ち時間が消えた。

敵が刀を振り、こちらが弾く・・・・・・その瞬間、敵の攻撃は同時にこちらの攻撃になる。敵が激しく攻めてくるほど、正確に応じられるプレイヤーには体幹を削る機会が連続して訪れる。

本来あったはずの、敵の攻撃ターンへの干渉。それを踏み倒しての自分のターンの成立(横入り)を、弾きが可能にした。

従来型アクションとSEKIROの戦闘循環を比較した図

そのため、強敵を前にしたときの距離感まで変わる。安全を求めて離れるより、相手の間合いにわざわざ入り、攻撃を誘発したほうが勝利へ近づく。目指すのは「触られないこと」ではなく、「正しく触れ続けること」だ。

これこそがSEKIROの最も大きい革新だった。

パリィが強いのではなく、攻撃と防御の境界が壊れている。守りと攻めを交互に行うのではなく、守る行為そのものが攻めとして機能する。

その前提で、敵の連撃、体幹、距離、戦闘のテンポまでひとつなぎに設計されていることに、多くのゲーマーは衝撃を受けたのだ。

弾きを唯一解にしないシステム

ここまでの説明だけなら「SEKIROはただ弾きを万能にしたゲームではないか」という疑問が生まれるだろう。

実際、弾きが戦闘の中心であることは間違いない。しかし、中心であることと、すべての正解であることは同じではない。

そもそもSEKIROには、通常の弾きだけでは処理できない危険攻撃(分岐)がある。

突きには見切り、下段にはジャンプ、掴みには回避と、敵の行動に応じて別の回答が必要になるのだ。また、敵の体幹を崩すには、ただ受け続けるだけでなく、自分から攻撃して体幹の回復を妨げることも重要になる。

SEKIROで通常攻撃、突き、下段、掴みに異なる対応が必要になる仕組み

プレイヤーが見ているのは、単一のタイミングだけではない。敵の予備動作や間合いから攻撃の種類を読み、弾くのか、見切るのか、跳ぶのか、避けるのか、それとも先に攻撃するのかを判断している。

弾きは、この複数の回答を束ねる主軸ではある。だが、他の回答を消してはいない。

SEKIROが優れていたのは、パリィを万能にしたからではない。中心に据えながら、そこから外れる攻撃と回答を残したからだ。

ライクとの違いは、パリィをどこまで扱うかによって差が生まれる。ここについては後述していこう。

パリィ「だけ」が継承された?

SEKIRO以降、敵の攻撃を正面から受け止め、適切なタイミングで弾くことを戦闘の前提とする作品が目立つようになった。

これは3Dアクションに限らず、2Dアクションやメトロイドヴァニアにも、その文法は入り込んでいる。私が『九日ナインソール』を遊んだときにも、その影響を強く意識した。

ただし、ここで「SEKIROが後続作品をすべて直接生んだ」と言いたいわけではない。似た仕組みは以前からあり、各作品にはそれぞれの系譜があるため、源流をそれだと見なすのは危ない。

SEKIROは起源というより、防御を攻撃へ転換する戦闘を大規模な作品として成立させ、その気持ちよさを広く共有した象徴的な転換点だった、というのが私の見方だ。

ここでいう普及は、単にパリィを搭載するゲームが増えたという意味ではない。

敵の攻撃に合わせて防御入力を成功させることが、そのまま敵の体勢を崩し、こちらの勝利を進める・・・・・・この一連の役割が、特殊技ではなく戦闘の基本文法として採用されるようになった、という意味。私がSEKIRO以後の変化として見ているのはここだ。

さて、パリィが共通言語になったこと自体は問題ではない。新しい戦闘文法が広まり、それぞれの作品が別の形へ発展させることは自然。問題になるのは、そこで何が継承されたのかだ。

前述した通り、SEKIROが提示したのは、防御を攻撃へ変え、その変化に合わせて戦闘全体を組み直すという発想だった。

しかし、そこから切り出しやすく、再利用されやすいのは、もっと表面的な部分だ。

  • 敵の攻撃を直前で弾く
  • 鋭い音とエフェクトが返る
  • 敵が大きく怯む
  • 専用のゲージが削れ、こちらの攻撃チャンスになる

この一連の反応は、成功が分かりやすく、強い快感を作りやすい。だから、模倣が容易で、その対象となる。

その結果として、パリィ成功で敵を怯ませ、ゲージを削り、攻撃権を得ることがバトルの基本回答になる作品が増えた。当然、当てはまらないものもあれど、主流はこれらのように感じる。

ここで問題なのは、パリィを戦闘の主軸に置いてしまったことではない。

問うべきは、なぜパリィが主軸なのか、その理由がゲーム全体に存在するか、だ。

SEKIROは、弾きによって攻防の関係、敵との距離、勝利条件、学習の仕方まで変えた。その根幹たる弾きを成立させるためにゲームを作っている。

一方で、既存の戦闘へ「弾くと敵が怯む」という報酬だけを載せれば、パリィは強力な追加機能にはなっても、戦闘全体を変える原理にはならない。

だが、強力で気持ちいいからこそ、プレイヤーの回答がそこへ集約されていく・・・・・・ここに、不和を感じる。

「全部パリィでいい」の陳腐さ

剣を振り下ろす敵と、斧を横薙ぎにする敵と、巨大なハンマーを叩きつける敵では、本来、攻撃の性質は異なるはずだ。

射程、攻撃範囲、安全な位置、これらが違う。壁際にいるか、背後へ抜けられるか、距離を取るべきか懐へ潜るべきかによっても、対応は変わるだろう。

ところが、それらをすべてパリィで処理できるなら、プレイヤーへ突きつけられる問いは1つになる。

「いつボタンを押すか」だけだ。

つまり、相手がどうであれ、パリィがすべてを均す。攻撃の形がタイミングへ圧縮される。敵が何をしているのかではなく、どの拍で入力すればよいのかが中心になる。剣も斧もハンマーも、見た目とリズムの異なる譜面として処理されていく。

これが、パリィ中心の戦闘が「音ゲー」と呼ばれる理由でもある。

画面全体を覆う攻撃も、プレイヤーの真正面から突進してくる攻撃も、頭上から降ってくる攻撃も、パリィにとってはすべて同じ「タイミング」の処理でしかない。ここに、対処の陳腐さがある。

剣や斧など異なる攻撃がすべてパリィという同じ回答に集約される構造図

たしかに音ゲー的な面白さは存在する。連撃のリズムを覚え、すべてを正確に弾き、最後まで崩されずに処理する・・・・・・いわば敵の攻撃を暗譜し、フルコンボを達成するような快感だ。

一連の猛攻をすべて弾いた瞬間には、回避とは異なる強い手応えがある。SEKIROにおいても、細かい連続攻撃をいなし、ラストの大技を弾いたあとには大チャンスが生まれる。ここにカタルシスが存在するのは否定しない。

問題は、その面白さしか残らない場合だ。

パリィそのものが単調なのではない。パリィが万能解になることで、敵が持っていたはずの射程や範囲、位置関係の違いを、プレイヤーが考える必要がなくなることにある種のしょうもなさがある。

敵の攻撃は多様に見えても、こちら側の回答が同じなら、その多様さは手触りとして残りにくい。結局はタイミングで一様に処理できるなら、派手なエフェクトも、モーションも、すべてが滑稽だ。

じゃあパリィをなくせば解決するのか?

そんなシンプルでもないのは明白だろう。

「何を使うか」を選ぶ面白さ

この問題は、パリィを弱く(あるいは撤廃)すれば解決するという話ではない。重要なのは、敵の攻撃に対して複数の回答があり、状況によって最適なものが変わることだ。

たとえば、軽い攻撃は受けても構わない。中程度の攻撃なら隙へ差し返す。重い一撃にはパリィを狙う。あるいは、パリィできない攻撃は回避し、距離によっては敵の範囲外へ出る、などなど・・・・・・。

これは具体的な正解例ではなく、回答を1つに閉じないための考え方だ。

実際、SEKIROには分岐が存在するからこそ、「ただのパリィゲー」というものに反論が可能ではある。なんなら弾きをほぼ無意味化したボスもいるぐらいだ(これはこれで別種の問題を抱えているが)。

同じ攻撃であっても、残り体力、立ち位置、周囲の地形、使えるリソースによって選択が変わるなら、プレイヤーはタイミングだけでなく、何を使うかを判断すべきであり、それが遊びの幅となる。

処理上の複数回答とは、操作方法が複数用意されているというだけではない。回避もガードもできるが、ほぼすべての場面でパリィするほうが安全かつ高リターンなら、ゲーム上の回答は実質ひとつだ。重要なのは、それぞれを選ぶ合理的な状況が存在することだ。

この議論はパリィだけに当てはまるものではない。

どんな攻撃も無敵時間の長い回避で抜ければよいなら、回避が万能解になる。すべてガードしてから反撃すればよいなら、ガードが万能解になる。特定の遠距離攻撃だけで安全に処理できるなら、それも同じだ。

つまるところ、問題は固定の何かではなく、「1つの回答への集約」にあるといってもいい。SEKIROライクの問題が、たまたまパリィだったというだけだ。

アクションゲームの面白さは、正しいタイミングでボタンを押すことだけではない。その前段階で、何を使うのかを選ぶことにもある。敵の攻撃が問いであるなら、プレイヤーには複数の答えがあり、その中から状況に合うものを選べたほうがよいはずだ。

単一の回答しか残らないのは、遊びの幅を狭くする。すべて◯◯でいいならば、アクションゲームの重要な攻略として本来あった「見る」という行為が狭窄になる。とりあえずパリィ、とりあえず回避。これだけのゲーム。

あるアクションゲームへの批判として「パリィをするだけ」というのは、それ以外を考慮していないプレイへの退屈さを述べたものだ。いくら良いものでもそれだけなら不満が高まるのは、想像に難くない。

さて、そもそもパリィは戦闘の主役でなくても成立するものであると、私は考えている。

たとえば『STRANGER OF PARADISE FINAL FANTASY ORIGIN』を遊んだとき、パリィは通常戦闘のすべてを支配するものではなかった。使わなくても戦える一方、敵の強力な攻撃に対して有効な回答になる場面がある、程度の立ち位置だった。

FFオリジンで敵の強力な攻撃にソウルシールドを合わせる戦闘シーン

FFオリジンで「ソウルシールド」と呼ばれるこれは、防御を食っているシステムではない。リスクが多大に存在し、使い所を間違えれば一気に窮地に陥る、諸刃の剣だ。

その一方で、通常防御では厳しい攻撃にちゃんと合わせられれば、こちらの攻撃手段の増加にくわえ、相手のブレイクゲージ(体幹のようなもの)に影響を与える、一転攻勢が可能。

そこでの感覚は、「お前がそれを出すなら、こちらにもこれがある」に近い。

普段から決め続ける基本動作ではなく、敵の強い行動へぶつける秘策。だからこそ、決まった瞬間に戦況をひっくり返した実感が生まれる。そして、「そんなのあったっけ」と形骸化したシステムにも成り下がらない。

一方、パリィが常に最適なゲームでは、成功はやがて「できて当然」の処理になる。できる前提で攻撃が組まれるからだ。

失敗すれば自分が崩れ、成功してようやく通常の進行へ戻る。もし使わなくても成立する戦闘ならば、パリィを決めたこと自体が上乗せの成果になり、快感が増大するだろう。

パリィを中心にするか、機能の1つにするか・・・・・・この2つの構造に、単純な優劣があるわけではない。

SEKIROのように、パリィを主役として徹底し、その前提で戦闘全体を作る設計がある。一方で、通常の戦闘へ別の選択肢を残し、必要な瞬間にだけ形勢を変える秘策として置く設計もある。

どちらも成立する。危ういのは、主役として全体を支えるほどには設計されておらず、秘策と呼べるほど限定もされていない中間で、パリィだけが強い正解として残ることだ。

とりあえずパリィ・・・・・・この構造は「できて当たり前のことができないことによる不満とデメリット」が堆く積もる危険性がある。

SEKIROライクの今ひとつ感の正体

SEKIROが残した本当の遺産は、パリィという機能そのものではなかった。「既存の防御行動を攻撃として再定義した発想」だったのだ。

ゲームにおいて、防御は被害を減らし、攻撃は敵を倒すものだと考えられてきた。SEKIROは、その役割分担を疑った。守ることでも勝利を進められるようにし、その結果として、敵の攻撃中に待つ必要をなくし、強敵へ自分から近づく戦闘を成立させた。

これは、パリィという部分的要素だけを移植しても再現できない。

後続作品が「弾くと気持ちいい」という結果を継承すれば、同じ快感を作ることはできる。しかし、それだけではSEKIROが行った再定義にはならない。すでに発見された正解を反復する以上、革新ではなく再生産になる。

SEKIROから本当に受け継ぐべきだったのは、「パリィの強さ」という安直さではなかったはずだ。

「このシステムは普通こう使う」という前提に対して、本当にそうなのかと問い直すこと。防御を攻撃に変えられたように、既存のゲーム文法へ別の役割を与えられないかと考えること。SEKIROはこれを行い、だからこそデファクトスタンダード化した。

ここで「なぜSEKIROを正しく模倣することが、SEKIROとは違う新しい再定義をすることになるのか」と思う人もいるだろう。

普通に考えればこれは当然の疑問だ。継承とは普通「同じことをするもの」だからだ。しかし、誰もが同じことをすれば、それは凡庸化の一途をたどる。ゆえに私はこれを支持しない。

私が言いたいのは、「SEKIROの革新精神を見習え」のような精神論ではない。

本当に継承するとは「答えをそのまま使うことではなく、本家と同じ問い方をすること」ではないか。

模倣には2種類ある。

結果を模倣する
  • 弾く
  • ゲージを削る
  • 怯ませる
設計を模倣する
  • 既存システムの役割を疑う
  • 勝利条件との接続を変える
  • それに合わせて敵、距離、テンポまで再設計する

ひとつは「弾けば敵の体勢が崩れる」という完成した答え。もうひとつは、「防御は本当に防御だけでなければならないのか」と既存の役割を問い直した設計の手続きだ。前者を真似すればSEKIROライクになる。後者を真似すれば、むしろSEKIROとは違うゲームが生まれるはずなのだ。

SEKIROの結果を模倣する方法と設計思想を模倣する方法の違いを示した図

未だ「SEKIROライク ≒ パリィをするゲーム」という直結解を越えられないのは、パリィだけがやたら目立ってしまい、それの模倣が容易だからだろう。

しかし、だからこそライクを越えられない。パリィを中心としたゲーム性のものがあふれ、それが「音ゲー化」と揶揄されてしまうのだ。

ひとつの革新は分岐した変な回答へ波及すると考えていた。だが意外にそうならないのかもしれない。音ゲー化したアクションゲームたちを見て、そんなふうに思う。


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