【DQ3リメイク】MODがなぜ問題化したのか:ゲームの改造行為への拒否感を考える

PC版『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』にて、少し話題になった案件がある。

それはざっくり言えば「MODは改造なのか否か」「MODという越権行為を許せるのか」というものだった。

まず、本作は船などの移動速度が著しく遅いため(アプデで対応済み)、その高速化を行うMODが公開された。しかしこれについて「改造行為を容認するのは信じられない」と述べるユーザーが登場。ここから、DQ3を越えて様々なゲーマーによる議論が発生した。

発端となった意見はこうだ。

Steam版ドラクエ3で早速MODが大量に作られてゲームの利便性が上がったとかでPCユーザーが歓喜してるらしいんだが、なぜ人様の作った作品を勝手に改造するような真似が平気でできるのか理解できない

イラストとか見て「下手くそだから修正しといたよ。」って言ってるのと同じだろw

言い分はわかる。少なくとも「何を言っているんだ」となるようなものではない。しかし同時に、強烈な違和感を抱いた。

そもそもDQ3はソロゲーで、言ってしまえば個人利用みたいなものだ(他者に迷惑をかける設計にはなっていない)。ゆえに、移動速度MODを使うことへ強い拒否反応が返ってきたのは不思議に思う。

誰かに影響を与えるわけじゃない。他人のデータを壊すわけでもない。自分が買ったゲームにおいて、自分の移動を速くするだけだ。それでも、「完成品をいじること自体が無理」「用意されたまま遊ぶべきだ」という。

もちろん、オンラインに持ち込めば他人に迷惑をかけるため、いわゆるPvPにおけるエイムボットなどは許されざる行為だ。しかし、今回は「ただ個人が好きにやっているだけ」に過ぎない。それは、誰かからとやかく言われることなのか?

今回の発端主はおそらく、ゲームに手を加えることそのものが嫌なのだろう。

私は、この分かり合えなさが気になった。文化差、と言ってしまえばそれまでだが、ここまで強い抵抗感を出す構造が引っかかる。

たとえば洋ゲーなどではゲーム内チートが普通に実装されている。同じようにゲームを変える行為が、ある場面では不正になり、別の場面では遊びになる。だとすれば、判断すべきなのは「変更したかどうか」だけではないのではないか。

なぜ、自分だけで使う移動速度MODが、他人から断罪されるほどの問題になったのか。

同じ個人利用の変更を「遊び」と見る人と「作品破壊」と見る人のゲーム観の差とはなにか。

この問いを考えていくと、MODの是非よりも先に「ゲームを何だと思っているのか」という違いが見えてくる。本記事ではその差異を分析してみたい。

かつてはチートを悪だと思っていた

まず、私のチートに対する姿勢を述べたい。

今でこそ私はチートやMODに対して寛容的・・・・・・というより、分別がつくようになったが、かつてはわかりやすく「チート行為は絶対悪だ」と思っていた。前述したユーザーの意見に共感を示したのは、過去の自分を見ているようだったからだ。

チートを嫌っていた理由はかなり単純だ。

  • エイムボット:敵を狙う技術や練習を飛ばす
  • 所持金の増加:金を稼ぐ過程を飛ばす
  • 経験値の増加:キャラクターを育てる過程を飛ばす
  • 無敵化:敗北の可能性そのものを消す

上記はあくまで一例だが、つまり、私にとってのチートは「努力のショートカット」で「卑怯な行為」だったのだ。

自分は正規の方法で時間をかけている。その努力をせず、同じ結果だけを得る人間は自分の努力を軽く扱っている。許せない・・・・・・言葉にするなら、そんな感覚だった。

こうやって文章にすると青いなあと思うが、当時は正義のつもりで排他的になっていたのは間違いない。ただ、この感情には2つの問題が混ざっている。

1つは、公平な競争を壊されることへの嫌悪。

オンライン対戦で相手がチートを使えば、こちらの勝敗や体験が直接壊される。同じ条件で競うという前提も成立しない。これは単なる好みではなく、明確に他者へ被害を与える行為への拒絶反応だ。

もう1つは、競争していない相手にまで同じ努力を求めること。

そもそも、ソロゲーで誰かが経験値倍率を上げたとしても、私のセーブデータから経験値が減るわけではない。私が時間をかけて得た達成感も、別にそのまま残る。言ってしまえばどうでもいいことだ。

前者では、相手の変更が私のゲームを壊している。

後者では、相手の変更を見た私が、自分の努力まで否定されたように感じている。

これは似ているようで起きていることはかなり違う。

ということで、現在の私の立場は、「個人利用なら好きにすればいいけどオンラインで使うやつは等しくカス」なんて状態になる。『DOOM』で検証のために無敵を使うのはアリだが、『エーペックスレジェンズ』で無限チャージランページとかやるやつは地獄に落ちてほしい。

さて、上記発言の主は、まさしく後者の「努力の否定」を感じているように思う。

では、チートとは本当に「努力を飛ばす悪い行為」なのか。公式が難易度設定や倍速機能として同じような短縮を用意した場合にも、それは悪なのだろうか。

「チート」という言葉の範囲が広すぎる

チートやMODは、ゲーム本来のデータや挙動を何らかの形で変える点では共通だ。ただし、変更したという事実と、その変更によって問題が起きたかどうかは分けて考える必要がある。

なぜオンラインでチート行為が嫌われるのかといえば、他人の結果に影響を及ぼすからだ。無敵や透過などでの勝利、ランキングへの介入・・・・・・比較条件を偽るこういった行為が是とされることはないだろう。

一方、オフラインで移動速度やドロップ率を変える行為は、基本的に本人の体験だけを変える。外見変更や新規シナリオを加える大規模MODになると、今度は作者性や権利、配布方法が問題になる。

同じ「本来とは異なる状態」でも、問題の場所がそれぞれ違うのだ。

類型例問題の中心
対人不正PvPでのエイムボット、透視他者への直接的な被害
記録上の不正MOD使用を隠した記録、実績、競技比較条件の偽装
個人的な効率化オフラインでの移動速度、経験値変更原則として本人の体験
体験改変外見変更、新規シナリオ、大規模MOD作者性、権利、配布方法
公式の特殊機能公式チート、難易度設定、倍速公式が許可した遊び
修正、補完不具合修正、UI改善正規機能との境界

私は、広い意味でチートやMODを「ゲームのデータや動作に手を加えること(≒改造)」と捉えている。しかし、それは変更方法を示す大きな括りでしかない。倫理的な評価は、その結果によって変わる。

たとえば前述したPvPにおけるチーター行為が許されざる行為なのに対して、公式の倍速機能だと効果が似ていても許可された遊びになる。なんなら不具合修正まで一律に「変更=悪」と呼ぶなら、もはや言葉の範囲が広すぎて何も判断できない。

だから、この記事で扱う範囲を限定しておきたい。

改造の善と悪・・・・・・それらを定義として分けるなら、基準は以下になる。

  • 善:
    • 規約や法律に反しない
    • オンラインや記録競争に持ち込まない
    • 本人の環境だけで完結する
  • 悪:
    • 無断配布、権利侵害、規約違反
    • オンラインへの持ち込み
    • 外部に影響する場合
チートやMODを、個人利用と他者へ影響する行為に分けて整理した図

ただ、ここでの善悪は道徳的評価ではなく、外部生の有無を分類しているに過ぎない。「作品として正しい遊び方か」を決めるものではなく、あくまで、改造によって第三者へ不利益が生じるかどうかを分けるためのものだ。

さて、この条件に限れば、DQ3の移動速度MODは他者を害する不正というより個人的な調整(善の改造)に見える。ゆえに、とやかく言われる筋合いはない、とオチるはずだ。

だが、ここで別の反論が出てくる。

「遅い移動も含めてゲームなのだから、そこを変えたら体験そのものが壊れるのではないか?」

不便はどこまでが作品の一部なのか

今回の発端はそもそも「移動が遅すぎる」という問題があった。そして、それを我慢できなかった人がMODを作り、公開。しかし、「その遅さも大切な体験なのに、なぜ改変するのか」と憤りを見せたプレイヤーがいた、という流れ。

これがアクロバティックな批判とは私には思えない。まあたしかにな、という納得がある。しかし、一律に言い過ぎ(偏った擁護)ではないかとも思う。

まず、ゲームにおける不便はすべて欠点というわけではない。

たとえばカードゲームにおけるデッキを考えてみよう。

デッキに入れられるカードは10枚までという制限があったとする。この上限があるから、入れられないカードが生まれる。何を残し、何を外すかを考える。こういった選択の違いがデッキの個性、差別化になる。

ではここで「上限を40枚に拡張してみました」という改造は果たして受け入れられるだろうか?

この場合、上限を40枚に増やすことは単なる快適化ではない。制約によって成立していたゲームの核を壊す可能性がある、危険な行為だ。この場合の不便は、それ自体が面白さに起因しているからこそ、触れるべきではない。

あるいは、敵との遭遇や危険管理に移動速度が関係するゲームもある。距離が探索判断を生み、移動中の緊張が世界の広さを実感させるなら、速度を上げることで失われるものもあるだろう。

また、読み込みやイベント処理の都合で一定の速度が必要な場合も、無理に変えればゲームが正常に成立しなくなる。初期の『バイオハザード』にあった扉の開閉ローディングは、「不便な要素」で片付けられるのだろうか?

ただその一方で、選択や工夫につながらず、待ち時間だけを増やしている不便も確かにある。

私にとって、DQ3の遅い移動がまさしくこれだった。世界の広さを味わわせるための遅さというより、狭い空間や少ない移動量を時間で引き延ばしているように感じられたのだ。

当然ながら、これは開発者の意図を断定するものではなく、実際に遊んだ個人の感想だ。ただ、少なくとも私の体験では、遅さが判断や工夫を生んでいるとは思えなかった。ここに対する納得の行く説明も、見たことがない。

そもそも結果としてアプデで解消されたというのは、少なからず開発もその問題を認識していたのだろうと読める。仮に、そこにちゃんとしたポリシーや意図、譲れないこだわりがあるなら、安易に変更はしないはずだ。

さて、「それがあるべき不便かどうか」ということの判断基準は、結局のところ「その制約が面白さを生んでいるかどうか」だ。

ゲームの不便を、面白さを生む制約と単なる待ち時間に分けた比較図

もちろん、この判断の重みはプレイヤーによって変わる。移動速度が世界の重さや旅情を支えていると感じる人もいるだろう。その人がMODを使わず、設計された速度のまま遊ぶのは自然だ。しかし、遅さに意味を感じない人まで同じ条件に拘束する理由にはならない。

移動速度のアプデは、じゃあこれで話が終わりなのかというとそうはならない。むしろ、また別の奇妙な問いが生まれた。

公式が速度を変えることは受け入れられるのに、プレイヤーが自分の環境で速度を変えることを受け入れられないのはなぜか。

結果が似ているのに評価が変わるなら、問題は「何を変えたか」だけではない。「誰が変えたか」も関係している。

「何を変えたか」ではなく「誰が変えたか」

変更受容の立場は実に曖昧だ。

少なくとも「ユーザーによる変更は越権だが、公式による変更はそうではない」という立場を取る場合、公式の難易度設定は許されるし、公式の倍速機能も許されるし、アップデートによる速度改善も許される。

しかし、ユーザーが入れたMODには拒否感が生まれる。

この違いには、「ゲームを変えてよい権限は開発者だけが持っている」という前提、統一認識があるのではないか。

同じ移動速度変更でも、公式アップデートとユーザーMODで受け止め方が異なることを示す図

この立場から見れば、ゲームとは「開発者が意図を込めて完成させた作品」だ。プレイヤーは用意された体験を受け取り、不便も含めて作品として味わう。だからこそ、外部から手を入れることは作者の意図を損なう行為になる。

上述したものでも彼はこう述べている。「イラストとか見て『下手くそだから修正しといたよ。』って言ってるのと同じだろw 」と。

この考え方は不合理ではない。映画を倍速で見たり、小説の文章を書き換えたりしたものを、そのまま「本来の作品」と呼ぶことは難しい。作者が作った状態を尊重し、まずはそのまま受け取りたいという態度には筋が通っている。

ただ、違和感が出るのは形態の差由来だ。というのも、ゲームは映画や小説ほど固定された作品ではない。

  • 難易度を選べる
  • 操作方法を変えられる
  • 音量や表示を調整できる
  • 攻略順を選べる
  • キャラクターを育てられる
  • 縛りを設けることもできる

こういったオプションによって、ゲームの体験は最初からプレイヤーの入力によって変化するように作られている。人によって変わることを前提としてゲームはあるのだ。

しかし、固定されていない、とまで言うのも違う。ゲームには、完成作品として受け取る面と、システムを使って遊ぶ道具としての面が同時にある。

前者を重く見る人は、開発者の意図を受け取り、オリジナルの状態や公式の許可を尊重する。これがまさしく今回の発端になった人のようなタイプだ。

後者を重く見る人は、与えられたシステムから自分なりの体験を作り、個人利用の範囲なら自分向けに調整してもよいと考える。いわばゲームを玩具として扱うようなもの。

言い換えれば、対立していたのは「与えられたものを遊ぶ」立場と、「与えられたもので遊ぶ」立場だった。

ゲームを完成作品として受け取る立場と、遊び道具として自分なりに使う立場を比較した図

ちなみに私は後者に近い。すでに「個人利用の範囲、自分しか影響しない範囲ならどう遊んだってよくないか?」という持論を述べているのは、このスタンスだからだ(前者のスタンスで遊ぶゲームも当然ある)。

ただもちろん、無条件に改造行為を肯定するわけではない。

  • オフラインで使い、他人のデータやプレイに影響させず、記録や実績を競わない
  • MODを使った体験を正規プレイと偽らない
  • 公式規約や法律に反せず、配布や収益化によって権利者との問題も起こさない

こういった範囲なら、という前提がある。それを満たすのなら使うのも使わないのも本人の自由だ。

いわば、ゲームは完成した彫刻というより、ある程度まで遊び方を委ねられたおもちゃに近いと思っている。ママゴトに使うか、ジオラマに置くか、別の遊びへ転用するかは所有者に委ねられているものだと。

というわけで、私はMODとかへの抵抗感があまりない。『The Elder Scrolls V: Skyrim』なんかは、もはやバニラの体験がどういうものだったかを忘れてしまったぐらいだ。

ただ、MODを使わず開発者の設計をそのまま体験したい人の感覚も成立するし、わかる。問題は、その選択を他人にも適用できる普遍的な倫理へ変えたときに起きる。

さて、ここまで扱ってきたのは「そのMOD利用が第三者にとって実害のある行為なのか」という倫理上の分類だ。

しかし、それだけでは今回の反応は説明できない。実害がないと認識していても、「それでも作品を勝手に変えるべきではない」という立場は成立するからだ。

実際、ここまで読んだ人の中には「『他人に被害がないなら何をしても批判される筋合いがない』という前提自体が筆者の価値観なのでは?」という反論が生まれるかもしれない。

ということで、ここから先で考えたいのはその是非ではなく、なぜその立場が生まれるのかだ。

境界を守ってなお、他人が使うMODを不快に感じるのはなぜなのか。ここから先は、個々の反対者の内面を断定する話ではない。強い拒否反応を説明し得る仮説となる。

CSとPC、表面化した2つの文化

MODが許容しにくいという気持ち、その仮説は以下4つが考えられる。

  • 1:努力の否定
  • 2:共通体験の破壊
  • 3:自分が被った不便の正当化
  • 4:公式は不可侵という秩序維持

1はまさしく、冒頭で語った私のチート嫌悪感につながる。かつて自分がそうだったように、他人のショートカットが自分の達成を相対化するように感じられることが不愉快で、ゆえに受け入れがたい。

これらは互いに排他的ではない。努力の価値、共通体験、作品への敬意、公式の正統性が重なって、MODへの強い拒否感になっている可能性がある。以下では特に2と4に関係する「共通体験」と「公式の正統性」を、DQ3とPC文化の接触という観点から見ていく。

まず、この問題を「日本人は同調圧力が強いから」で片づけるのは簡単だ。しかし、それでは範囲が広すぎるし、DQ3で衝突した理由も説明しきれない雑な結論になってしまう。

私が思うのはこうだ。この問題が拡大した理由としてより大きかったのは、DQ3という作品の位置づけと、家庭用ゲーム文化とPCゲーム文化の接触ではないか。

そもそもとしてDQ3の原作は1988年に発売された、本当に昔のゲームだ。ここを起点に『ドラゴンクエスト』というIPは国民的シリーズとなり、今に至るまで多くのファンを作ってきた。

これ自体は良い。だが、こうして長く共有されてきた作品ほど、「DQ3とはこういうもの」「DQ3はこう遊ぶもの」「あの苦労も含めてDQ3である」という規範が蓄積しやすい。

しかも今回は新作ではなくリメイクだ。リメイクには、新しい体験だけでなく、過去の体験を現代に再現してほしいという期待も向けられる。なんなら不便すらそのままであってほしいという意見も珍しくない。

そのため、個人環境のMODであっても、単なる自分向けの調整ではなく、思い出の中のDQ3へ手を入れられたように感じるのではないか。「それは俺の知ってるDQ3じゃない」という反発の気持ちが出てしまうのではないか。

もちろん、リメイク自体が原作から多くを変更しているし、何度も繰り返すようにこれは個人利用であって、「俺の知ってるDQ3じゃない」と言われても「そうですか」としか言いようがない。

公式の変更は「解釈」や「再構築」とされ、ユーザーの変更は「改造」とされる。この非対称性も、変更内容ではなく、正統性を誰に認めるかによって説明できる。

事実、件の発言では「人様の作った作品を勝手に改造するような真似」と述べている。これは、ゲームは神聖不可侵であるというような主義主張がないのならば出てこない言い分だ。

だが、根幹となる問題勃発の要因は、あるユーザーの感覚という些細なものではない。

本作は家庭用機だけでなくPCでも発売された・・・・・・これが問題を決定的にしたのだろう。DQ3のような家庭用ゲーム文化の象徴がPCへ接続したことで、2つの異なる文化がぶつかったのだ。

  • 公式が用意した範囲で遊ぶことを正規とする文化
  • 不満があれば設定やファイルを変えて自分の環境を作る文化

いわば、これは異文化衝突に近い。CS民はPC民の当たり前を理解できなかった(逆も然り)。

つまり、この論争は閉じた日本文化が一方的に外へ出て混乱したという話ではない。「それぞれの文化で形成された規範が、近いが遠い別の文化と接続したことで起きた摩擦」と見るほうが正確に思える。

家庭用ゲーム文化とPCゲーム文化がDQ3リメイクを通じて接触した構造を示す図

もちろん、発端の投稿者ひとりを「家庭用ゲーム文化の代表」とみなすことはできない。

ここで言いたいのは個人の属性ではなく、PC版の発売によって、従来なら接触しにくかった2つの遊び方が同じ作品上に可視化されたということだ。

家庭用機では通常、プレイヤーがゲーム内部を書き換える行為そのものに触れる機会が少ない。一方PCでは、設定変更やMOD導入まで含めて環境を自分で作る文化が長く存在する。

この差がDQ3という共通作品の上で表面化した、と考えることはできる。

チートが遊びになるゲームデザイン

ではそもそも、なぜ洋ゲーではゲームに手を加えるという行為にそんな抵抗がないのか、ということを考えてみたい。

これはなにも、洋ゲーならチートが許され、日本のゲームなら許されない、という単純な話ではない。PvPのチーターなんかは世界共通で「ゴミ」と嫌われる。そこに国籍の差は別にない。

たとえば『グランド・セフト・オート』シリーズで考えてみよう。おそらく多くの人にとって、初めて出会うチート内包ゲームがこれになるはずだ。

ここで本作を挙げるのは、MOD文化の起源を説明するためではなく、「ゲームのルールを崩す行為そのものが遊びとして成立する場合がある」ことを確認するためだ。

さて、本シリーズには実に多種多様なチートが存在する。強い武器、爆発、手配度増減、乗り物出現、これらが公式でいつでもどこでも使える。「チートは悪」という前提がある場合、おかしくなってしまいそうなシステムだ。

では、なぜこれが成り立つのか。

それは、破壊と再生が同じ箱庭の中に含まれているからだ。

GTAは、そもそも無茶をすること自体が遊びになる。通常のルールを一度壊して、システムがどう反応するかを楽しむ。そのあとセーブを読み直し、元の遊びへ戻ることもできる。

こうした遊びが成立しやすいゲームには、唯一の正解がなく、システム同士の反応そのものが面白いという特徴がある。プレイヤーが自分で目的を作れ、実験ややり直しもしやすい。体験の一貫性より、可能性の広さが重視される。

ただ逆に、制約を乗り越えること自体が核になっているゲームでは、チートによって体験が消えることもある。勝敗の緊張が中心なら無敵化はその中心を失わせるし、限られた資源の配分が面白さなら資源無限化は判断を不要にしてしまう。

要は、差を生むのは国籍だけではなく、ゲームの設計と、それを取り巻くプラットフォーム文化だ。

たしかに、傾向として言うなら、日本の家庭用ゲーム文化では開発者が用意したルールを攻略することが遊びになりやすい。だからオープンワールドやサンドボックスは明確に好みの差が出る。「何をすればいいかわからない」という感想はまさに、だ。

一方、PCゲーム文化では、ルールを変更し、別の遊び方を作ることまでがプレイの一部になりやすい。

前者が「ルールに乗る」遊びなら、後者には「ルールを作る」遊びも含まれる。

当然、これは優劣ではない。これに則って「日本人は長いものに巻かれる」みたいなのはかなり雑だ。レールに沿ったゲームの好きなアメリカ人も普通にいるだろう。

与えられた制約を読み解く面白さと、システムを組み替えて可能性を探る面白さは別のものだ。どちらを重視するかによって、チートやMODが「体験の破壊」にも「新しい遊び」にも見える。

だから異文化衝突だった。誰かに決められた道を歩くのが当然だと思う人からすれば、自分にとって歩きやすい道を作る行為は「破壊」なのだ。

決められたルールを攻略する遊びと、ルール自体を変えて遊ぶゲーム体験を比較した図

ゲームは与えられるものなのか

結局、DQ3の論争で衝突していたのは、単純なMOD利用者と非利用者ではない。プレイヤーの役割についての2つの考え方そのものだった。

一方では、プレイヤーは作品の受け手だと述べる。

開発者の意図を読み、本来のバランスを尊重し、不便も含めて体験する。少なくとも一度は正規の条件でクリアしたいと考える。これはゲームを鑑賞する姿勢に近い。

もう一方では、プレイヤーはシステムの実行者だとされる。

与えられた仕組みから自分なりの遊びを作り、不要な不便を調整し、結果についても自分で責任を負う。これはおもちゃや道具を扱う姿勢に近い。

言わずもがな、どちらが正しい正しくないという話は成り立たない。どちらも成立する。

開発者の設計をそのまま体験したい。MODを入れたら自分の達成感が損なわれる。そう考えて使わないのは自由だ。反対に、意味を感じない待ち時間なら短縮したい。自分だけの環境なら遊び方を調整したい。そう考えて使うのも自由。

問題が起きるのは、その選択を倫理に変換したときだ。

「自分はMODを使わない」は個人の選択だ。「MODを使う人の気持ちは理解できない」も個人の感覚。しかし、「MODを使う人は作品への敬意がない」と言えば他者への評価になり、「個人利用でもMODを使うべきではない」と言えば他者への規範要求になる。

自分の遊び方を選ぶことと、自分の遊び方を他人にも要求することは違う。

MODを使う自由と使わない自由、そして他者へ影響する行為との境界を整理したまとめ図

「なぜ人様の作った作品を勝手に改造するような真似が平気でできるのか理解できない」というのは、一件正当性がある。しかしここには、自分の遊び方や思想以外を許せないという不文律を覚える。

だからこれがもし「ゲームの不便ってそういうものだと思ってたけど、PCゲームにはMODっていうのがあって、普通に改変するらしい。びっくりした」程度なら両文化の橋渡しになっただろう。

CS勢は「MODって結局なんなの?」という入口になるし、PC勢は「MODなしでやれるってすごいな」というある種の称賛が生まれたはずだ。ここに、互いに対立する未来は読めない。

別に私は投稿者に対して「言い方が悪いよね」なんて学校の先生みたいなことを言うつもりはない。彼にも彼なりの正義があり、それゆえの発言だったのだろう。

ただ、理解が足りなかったのかな、とは思う。「ゲームとはこういうものである」という前提を疑えなかったのかなと。

そもそも、チートやMODを一括して、良いか悪いかと問うことには無理がある。

誰が、どこで、何を変え、誰に影響を与えるのか。オンライン対戦を壊すのか、記録の条件を偽るのか、権利や規約に触れるのか、それとも本人の体験だけを変えるのか。評価はその条件によって変わる。

DQ3の移動速度MODをめぐる衝突は、その分類だけでは説明しきれなかった。

背景には、ゲームを完成作品と見るか、遊び道具と見るかという違いがあった。プレイヤーを開発者の意図の受け手と考えるのか、システムを使って体験を作る実行者と考えるのか。公式だけが作品を変えられると考えるのか、個人の環境は本人が調整できると考えるのか。

しかし、それであったとしても、ソロゲーを自分の環境だけで調整する行為まで、第三者が一律に断罪する合理的な理由は乏しい。使わない自由と使う自由は、同じ位置にある。

DQ3のMOD論争で衝突したのは、正しい遊び方と間違った遊び方ではない。

与えられたものを遊ぶ文化と、与えられたもので遊ぶ文化・・・・・・その思想だったのだ。


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