【プロセカ】なぜ昔のボカロを「過去」にしないのか:昔の曲を今につなぐゲーム

私にとってVOCALOIDは、過去の遺物だ。あるいは思い出か。

ニコニコ動画の出現とともに聞き始めた過去、特に2008年からしばらく、当時は文字通りインフラに近いものだった。

サイトを開けば新しい曲が流れてきて、ランキングを眺め、動画についたコメントを読み、気になった作者のことを調べる。ボカロは生活の中にあるというより、当時のインターネットそのものに混ざっていたとも言える。

ところが2015年頃、生活が忙しくなるにつれてニコニコから離れた。それに伴って、ボカロとの接点も自然に消えていった。

嫌いになったわけではない。iPhoneには、それまで聴いていた曲が残っていた。それでも、なぜか再生しなくなった。明確な理由があって聴くのをやめたのではなく、気づけばボカロは「昔好きだったもの」になっていた。

ボカロをやめた、とは少し違う。ボカロが存在していた環境から離れたゆえの、帰属意識の消滅だった。

それはまるで別の進路を選択した友達となんとなく疎遠になっていくみたいに、「もうお互いに必要ないよね」と距離が空いていっただけ。だから、悲しいものじゃない。それも含めて「思い出」なのだ。

けれど今、その「かつて没頭していたもの」が息を吹き返している。この記事を書きながら、裏で流れているのはジミーサムPの『No Logic』だ。

ボカロから離れて何年も経ち、私はプロセカこと『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』に触れた。これが契機だった。

2015年で止まっていたはずの時間が少しずつ動き始めた。昔好きだった曲をもう一度聴き、知らなかった曲やアーティストの名前を覚え、かつて好きだったボカロPの新曲を待つようになった。

私はここで、プロセカが面白いかどうかを論じるつもりはない。ただ現実として、かつての思い出であったボカロが、今もまた興味の対象にのぼった。それはなぜか、どうしてプロセカは可能にしたのか。

1つのゲームが、過去の文化を現在につなげた・・・・・・その理由を語りたいと思う。

ボカロは「曲」だけではない

そもそもとして、なぜひとつの音楽形態にそこまで思い入れがあるのかを考えてみたい。

私には「昔好きだった曲をまた聴いた、よかった」みたいな日記だけで終わらない事情がある。それをまず説明しよう。

ボカロは音楽分類として言えば1ジャンルでしかなく、そして、他の音楽と明確な違いがあるわけでもない。「昔はクラシック聴いてたけど最近はご無沙汰だなあ」という話があったとして、何もおかしいことはないし、特別それを掘る理由もないだろう。

けれど、私のボカロへの思いは少し異なる。かなり大きな存在だったのだ。だからそれが過去のものになったのは、結構な喪失でもあり、ゆえに語る価値も大きい。

というのも、ボカロは単に曲というだけで片付けられるものではないのだ。これは、ひとつの巨大な文化だった。ボカロから離れるというのは、それとの決別や断裂とも言える。

一応、「クラシックとかも文化じゃないか」と言われればそれはそのとおりなのだが、「自分が関わる身近なもの」としてここでは強調したい。ライブハウスに足繁く通ったとかと同じく、耳だけでなく関わった痕跡がある音楽・・・・・・という意味合いだ。それだと、疎遠は大きな事柄だろう。

さて、じゃあ「ボカロの文化」とは何かといえば、それはほとんどニコニコ動画そのものであったように思う。

曲があり、それを魅せる動画があり、画面上を流れるコメントがあった。公式ランキングや有志のボカランなどを眺め、個人サイトをたどり、作者やファンの反応まで含めて1つの構成物・・・・・・そんな、曲だけに終わらない、数々を内包した文化だった。

そういう、もはや生活の一部となっていたものに、ある時からパタリと触れなくなった。

すると、訪れるのは空洞感だ。

あるいは、郷愁みたいなものを感じていたのは事実。しかし、じゃあまたニコニコに戻って同じ体験ができるかと言えばそんなことはない。自分自身の成長もそうだし、プラットフォームの変化もある。

そんなわけで、「かつてのボカロ」は思い出のままだった。

だから端末に音源が残っていても、それだけでは以前と同じ体験にならない。曲だけを切り出すと、そこに付随していた文化が抜け落ちてしまう。知っている曲を再生することはできても、その先に別の曲や作者、ファンの存在が続いていない。

私が好きだったのは、1曲ごとの音楽であると同時に、新しいものが次々と現れ、それを誰かと同じ場所で受け取る環境でもあった。

だとすれば、少なくとも私の中でボカロが再び現在形になるために必要なのは、昔の曲をまた聴けるサービスではない。ボカロに継続して触れられる、新しい場所だった。

つまり、私が失っていたのは単にボカロ曲を再生する手段ではなかった。ボカロが今も更新され、その中に自分も居合わせていると感じられる接点だったのだ。

だからプロセカについて考えたいのも、収録曲の多さではなく、どうしてこのゲームが途切れていたその接点を再び作れたのか、ということになる。

ネット上のタイムマシン

ボカロから離れ、まただいぶ時間が経った頃の話だ。

なんとなくYouTubeを巡っていたところ、懐かしい文字列が見えた。本当に、思わず「懐かしい」と呟いてしまうほどのものだった。クリックしてその動画を見る。イントロの3秒で泣いてしまった。

それは、164と40mPの共作となる『タイムマシン』だった。

ボカロ曲タイムマシンのサムネ

まるでぎゅうぎゅうに押し込められた物置の扉を開け放ったかのように、当時のあれこれが脳内に流れ出てきた。

学校からの帰り道の風景。反応の悪くなったiPod、液晶が霞んで見えづらくなったウォークマン。カバンの中で絡んで解くのに難儀したイヤホン。少し傷んだPS2とまだまだきれいなPS3。ややほこりっぽいPC部屋。skypeで連日連夜、友達とおすすめのボカロ曲を教えあったこと。動作の重いブラウザ、目まぐるしく流れる動画のコメント、あの頃のいろいろなワンシーン。

あらゆるすべてが昨日のことかのように思い出せた。10年以上ぶりに聴いたその音楽が、忘れていたあの時の思い出を全部引っ張り出してくれたのだ。

ただそれは、私の知っているタイムマシンとは少し異なっていた。調べると、それはプロセカというゲームにおける、コンテンツの1つらしい。

そして私はノリでそのままプロセカを始めるが、しかしこの時点ではそんなに求心力はなかった。というのも、過去に似たような経験をしたことがあるからだ。

初音ミクというIPを用いて作られたゲームとして『初音ミク -Project DIVA-』シリーズがある。こちらも多少遊んでいたが、長くは保たなかった。

これは、私の中では基本的に「曲を聴くためのゲーム」だったのだ。だから聴いて、それで終わりだし、なんならそれはゲームである必要性すら無いと感じた。

プロセカもこの一環にあるのだろう・・・・・・そう思っていたから、やめる前提で(一過性の思い出供給として)インストールした。

しかし結果として、この予想は裏切られる。

プロセカには「戻ってくる場所」があった

プロセカが再開の地になったのは、単に収録曲が多かったからだけではない。それに関してはおそらくDIVAのほうが上だろう。

単に過去曲へアクセスしてあの頃へ戻れるのであれば、私はこの時点ですでにやっていたはずだ。しかし実際にはそうならなかった。曲を聴くことと、再びその文化の中に居続けることは別だったのだ。

私にとって大きかったのは、ゲームの中に滞在する理由があったことだ。

一番大きいのはストーリー。まったく期待していなかったが、本作の物語はとても面白い。ユニットごとの問題、キャラのぶつかりあい、必ずしもハッピーエンドじゃないにせよ、そのストーリーには引きつけられる魅力がある。

そしてこれは、良くも悪くも完結しない。定期的なアプデ、イベントで続きが楽しめ、今後どうなるのかを期待する、ドラマのような楽しみ方ができる。いわば私にとってプロセカは、音ゲーではなくADVなのだ(実際、音ゲーとしてはまったく遊んでいない)。

同時に、たびたび追加される楽曲もプロセカへの滞在を促す。

有名曲の実装、ストーリーに合わせた書き下ろし・・・・・・こういう施策によって、「次は何が来るのか」というワクワクが伴う。そしてこれは、その曲を知っていても知らなくとも成り立つ。定期供給される楽しみ・・・・・・これはまさに、かつてのニコニコのランキングに対する感情と似たものだった。

ここには、「探す」と「ある」の違いがある。

YouTubeなどでボカロを聴くなら、まず「ボカロを聴こう」と思い、曲を探す必要がある。しかし、すでに離れている人間にとって、この1手は意外に重い。何を検索すればよいのかも、今どの曲が聴かれているのかもわからないからだ。検索機能の貧弱さも拍車をかける。

しかしプロセカでは、ゲームを開けば、そこにボカロがある。自分から文化の全体像を調べなくても、接触だけは繰り返される。私にとってプロセカは、楽曲をまとめた箱というより、ボカロとの接点を切らさない環境として機能しているのだ。

ストーリーの続きを見るために戻った場所に、新しい曲も置かれている。だから、ボカロに興味を向けるための最初の意志決定そのものが不要になる。

同じ場所に居続けるうちに、昔知っていた曲だけでなく、知らない曲にも触れられる。

ここが、私がプロセカを一過性のアプリとして切らずにいれた仕組みだ。

ストーリーへの滞在から新しいボカロ曲との接触が繰り返されるプロセカの循環構造

ボカロのキュレーションメディア

最近のボカロを知る入口は、ほとんど(というかほぼ)プロセカだ。

かつての探し方は、今ではもうほとんど機能していない。もちろん今もニコニコやランキングはあるし、有志もいる。けれど、あの頃の熱量や網羅っぷりは影を潜め、そして何より私自身、探索しまくるそんなバイタリティは、もうない。

つまり、「知りたいけど動くのが億劫」というワガママさがあるのだ。

特殊事例として、サブスクではボカロは探しづらいという現象に見舞われるのも追い討ちとなる。

たとえば、過去に好きだったアーティストならSpotifyなりで簡単に摂取できる。しかし、ボカロはそういかない。ジャンルでしかなく、そこに細分化したPの存在があるため「ボカロベストアルバム」みたいなものがない。

いや、あるにはある。EXIT TUNESなどが出しているのだが、選曲が「なんか違う」。そもそもボカロは広範すぎる。それを、再生数順にまとめても絶対に齟齬が出る。どうしたって再生数7万ぐらいのものは拾われない。

要は、範囲(個人の趣味と楽曲数)が広すぎて「誰にとっても十分な形には」まとめられないのだ。誰かのマイリストは再現できない。

これを解消してくれたのがプロセカとなる。

本作には、過去の定番曲、最近のヒット曲、ゲームのための書き下ろし曲が並ぶ。有名なボカロPもいれば、私がそれまで名前を知らなかった世代の人もいる。さらに、ときどき「そこを拾うのか」と思うような過去曲が加わる。

この並べ方には編集がある。プロセカはすべてのボカロ曲を均等に収める倉庫ではなく、何を現在のユーザーに見せるかを選び、ゲームの中に配置している。その意味で、音楽ゲームであると同時に、ボカロのポータルサイトやキュレーションメディアに近い役割も担っているのだ。

ここで効いているのが、知っている曲と知らない曲が同じ場所にあること。

もし知らない曲ばかりが並んでいたら、そこは「自分の知らない文化」に見えただろう。しかし『ローリンガール』『ハッピーシンセサイザ』『タイムマシン』のように、私が以前から知っている曲もある。その隣に、初めて見る曲が並んでいる。

知っている曲があることで、「ここは自分も知っている場所だ」と思える。

その安心感を足場に、1曲だけ知らない曲を聴いてみる。

そこから作者の名前を覚え、別の曲へ進む。

プロセカは、過去と現在を別々の棚に分けるのではなく、同じ画面の中に並べることで移動を起こしている。ここに、「初音ミクの音ゲー」を越えた印象を抱くのだ。

過去曲の収録は古参ファンへの懐古的なサービスだけではない。かつてのファンが現在のボカロへ入っていくための導線にもなっている。

知っている過去曲を入口に、知らない曲や現在のボカロ曲へ進むプロセカのキュレーション構造

カバーは過去を現在に戻す

とはいえ、新規の曲と過去の曲がそれぞれあるだけでは、場合によっては「でも私は聴かないけどね」という状況もあるだろう。豊富なメニューがあろうとも慣れ親しんだものにしかいかないというのは強情でも、珍しいことでもない。

実際、私自身その気持ちはよく分かる。新規曲しかない場合の「自分は歓迎されていない」みたいな感覚。聴けばいいじゃんと言われてもそうしづらい状況。こういうのは否定できない。

そこをつなげるハブとしての役割を果たすのがカバーだ。

プロセカのメインコンテンツに、キャラが歌うカバー曲が存在する。SEKAI ALBUMとして別途収録されていたりの、いわゆる歌い手バージョンのようなものだ。

ただ、これは歌い手とは少し違う。誰がなぜ歌うのか、という目的意識の差があるのだ。

キャラクターが歌えば、曲はその個人(あるいはユニット)の性格や関係性と結びつく。ストーリーやイベントのテーマを経由して聴けば、以前とは違う意味が立ち上がることもある。原曲が変わるわけではないにも関わらず、だ。

入口であることに加えて、キャラクターと曲を接続する役割がある。誰が、どのような物語の中で歌うのかによって、既存の曲に別の読み方が生まれる。原曲を知るための代用品ではなく、原曲へ向かう理由と、その曲を今扱う理由が同時に作られるのだ。

もちろん歌い手はそうじゃない・・・・・・とまでは言わない。しかし、プロセカのキモであるそれは、「どこかの誰か」が歌うのと同じ体験をもたらさない。

さて、過去曲の話に入る前に、そもそもキャラクターが曲を歌うことで何が起きるのかを、書き下ろし曲から見てみたい。

『君の夜をくれ』というものがある。イベント「そしていま、リボンを結んで」の書き下ろし作品なのだが、特に印象に残っているので例としてあげよう。

プロセカのイベント、そしていま、リボンを結んでのサムネ

ざっくり説明すると、このイベントは暁山瑞希というキャラが「自分はここにいていいのか」という問題に向き合う内容だ。

結果としてユニットでは仲良くやっているけれど、そもそもは前向きじゃなかった。自分が逃げ続けてきた人間だからこそ、また逃げるんじゃないか・・・・・・みたいな「安易に仲良しこよしできない」葛藤を描く。

彼女の問題は、自分を前面に出せないこと。それこそ「ここで活動するの最高だぜ!」みたいな態度を示せず、いつ消えてもおかしくないような距離感で人付き合いしてしまう・・・・・・これへのモヤモヤ。

けれど、最終的にそれをやめ、ちゃんと向き合おうと決める。

そういう事情があるからこそ、彼女が歌うこの楽曲は非常に染みるのだ。主張をしなかった瑞希が「君の夜をくれ」と言うからこそ、響く。

ずっと話したかった。

無くしてしまった夜のことを

哀しい話じゃない

寂しくなるけど、いいんだ。

不思議なのが、バーチャル・シンガー(一般的なボカロ曲)版だとまったく印象が異なるということだ。キャラが歌っているときはストーリーのあれこれを想起するのに、じゃないとそれはそれで別の曲に感じる。ここに、人間(キャラ)が歌うということの意味がある。

また、過去曲がカバーされる意味も大きい。現在進行している作品の文脈へ置かれることで、過去曲が「昔の曲をもう一度再生したもの」ではなくなるのだ。

保存された曲は、残ってはいても動かない。現在のキャラクターに歌われ、現在のイベントで聴かれ、そこから原曲へ人が流れるとき、曲は再び使われる作品になる。

原曲にキャラクターとストーリーの文脈が加わり、新しい解釈が生まれるプロセカのカバー構造

ちなみに、私はかつて、歌い手のカバーから原曲へ入る聴き方を好意的に見ていなかった。いわゆる歌い手嫌いだ。ところが今は、プロセカのカバーを入口に原曲を知ることが多々ある。それこそ、プロセカとの出会いはレオニのタイムマシンだ。

思えばかつての私は原作厨みたいなものだった。だから、いわば亜種のような歌い手が気に食わなかったのだろう。もちろん、今となってはそんな過去の自分の主義に「くだらないなあ」と思ってしまうが。

何から入るのも自由だ。そこに良し悪しは別にない。細かい部分も含め、時間が経ったことで、ボカロへの主義主張はだいぶ変わったように思う。

過去のPとの再会という衝撃

過去の曲に触れ、今の曲にも触れられるということで楽しめるプロセカだが、私が最も衝撃だったのは「かつて大好きだったボカロPとの再会」だった。

私にとっての青春はトーマであり、TOKOTOKOであり、nikiであり、KEIであり、骨盤であり、buzzGだった(他にもいっぱいいるけど)。プロセカを通じて、彼らの書き下ろしに触れられたのが最も大きい感動だったのは間違いない(トーマは今のところ書き下ろしていないが)。

それこそ前述した君の夜をくれの作者は古川本舗・・・・・・ある時姿を消した往年のレジェンドだ。プロセカをやっていなかったら、彼は永久に『Alice』を書いた「過去の人」のままだったろう。

どれほど巧みに過去曲が使われても、昔好きだったボカロPの名前を新しい書き下ろし曲で見つけたときの衝撃にはかなわない。

過去曲の収録からわかるのは、作品が今も残っているということ。一方、新曲の書き下ろしが示すのは、その作者が現在にもいるということなのだ。

ワンダショのイベスト「カナリアは窮境に歌う」への書き下ろし楽曲として提供された『箱庭のコラル』。これの制作アーティストとして「koyori/電ポルP」という文字列を見た時の驚きたるや・・・・・・。

のけぞるみのり
koyori← →俺

私がボカロを聴き始めた頃、ボカロPは必ずしも活動を職業として継続する存在には見えなかった。進学や就職、私生活や興味の変化によって、「いつの間にか活動しなくなっても不思議ではない人々」と捉えていた。

だから気がついたらいなくなる。米津玄師、ヨルシカやヒトリエのような例外はあるにせよ、基本的にはどこかでいなくなる。実際に何が理由だったのかは外からはわからないまま。

だからこそ、10年以上を経て電ポルPのような名前を再び目にすると、「まだやっていたんだ」という驚きが先に来き、感動が後追いしてくる。

それは、長く会っていなかった旧友の近況を知る感覚に近い。昔の作品を覚えているだけだった相手が、自分の知らない時間を生きたうえで、同じ名義で新しいものを差し出してくる。懐かしいのに、見ているものは過去ではないという奇妙さ。

このとき、止まっていたのは作者ではなく、自分の認識だったのだと気づく。

私はボカロから離れていた期間を、文化そのものの空白として扱っていた。しかし当然ながら、その間にも誰かが曲を作り、誰かが聴き、新しい名前が現れ、以前からの作者が活動を続けたり戻ってきたりしていた。

文化が現役であるとは、古いものが残っていることだけではない。新しいものが今も生まれていることだ。プロセカは過去作を保存するだけでなく、新曲が生まれる場を作ることで、その違いを見せてくる。

過去曲の収録とボカロPによる新曲書き下ろしの違いを示す比較図

新旧ファンの感情的邂逅

プロセカのメインユーザーは本当に若い。私みたいなおっさんはたぶん少数派だろう。公式イベントの空気感やユーザーの反応を見ていると、若者向けショップに迷い込んでしまった居心地の悪さのようなものがややあるほどだ。

さて、そんな若い層の反応を見ると、私がプロセカを通して最近の曲やボカロPを知ったように、逆向きの移動も起きているのが分かる。

プロセカからボカロに触れた人にとっては、私が昔から知っているド定番の曲も新しい。それこそ『ロミオとシンデレラ』なんかはボカロ界の『紅』みたいなもんだと思っているのだが、当然、「こんな曲もあったんだ」という反応をしている子もいる。なんて羨ましい。

面白かったのは、「今のボカロはダークでじめっとした感じのものが多いけど、昔からそうだったんだ」というような感想だ。

昔と今のどちらの見方が正しいかではない。同じボカロ史を見ても、入口になった時代によって文化の見え方が違うということの興味深さがある。

私からすると、今のダークな曲っていうのはかつてのそれと結構印象が異なっていて、必ずしも昔から「そういうの」があったとは考えていない。たとえばDECO*27なんかは昔から中絶だのなんだのを曲で扱っていたが、それはまあ「そういう性癖の人」と見なされていたわけだ。

一方で、最近のダークなボカロというのは、それ自体がファッションみたいになっていて、そこに文化の移動(というより表現の比重)が偏っているように見える。これはいわばブームのようなもの。

そこの差はリアリティだと思っていて、かつてはファンタジーとしてのダークさ。今は、リアルにつながる延長線としてのダークさを思う。たとえばマチゲリータPの『おかあさん』は普通にホラーだが現実味はない。一方、なきその『ド屑』は記号化されたリアリティを思う。

つまり、かつてのダークな曲は専門店で、今のダークな曲はトレンド。だからこそ、今のトレンドに浸かった子が「昔からそうだったんだ」と思うのに、面白さを感じる。この認識のズレ自体が、新旧ファンが異なる時間から同じ場所へ来ていることを実感させるのだ。

ボカロ曲、ド屑のサムネ

話を戻そう。

古い曲に対して「この曲が好きだ」と反応する若いファンを見かけることがあるのだが、ここで伝わっているのは、「昔の名曲だから敬意を払うべきだ」という歴史的価値だけではないだろう。ただ単純に、良い曲として届いているのだと思う。

実際、私は過度な温故知新は別にいらないと考えている。「この曲知らないの?」はウザいと思うし、そんな野暮なことは言わない。というか、2026年に『Close to you』の良さに気づけるなんて、とても幸せだ。何も悪いことじゃない。私も前知識無しで『-ERROR』とか聴きたいぜ。

もはや私は後方腕組みおじさんだ。自分も楽しみながら、過去を触れている若い世代へニコニコしてしまう。

古参ファンは既知の曲を足場に現在へ進み、新しいファンは現在のゲームを入口に過去へ進む。両者が詳しく交流する必要はない。年代も、ボカロに触れた経路も、知っている範囲も異なるままでいい。

それでも同じライブに居合わせ、同じ曲を知り、同じ追加曲を待つことはできる。そこで生じているのは、古参と新規が互いに語り合うSNS的な「つながり」というより、異なる時代のファンが同じ文化圏に居合わせる状態だ。

プロセカは、世代の差をなくしてはいない。むしろ、それぞれが別の入口から来たまま、同じ方向を見られる場所を用意している。

昔のボカロファンは現在へ、新しいファンは過去へ進み、プロセカで交差する構造

プロセカはボカロの博物館ではない

では、シメと行こう。本来ならフラットに語るはずだったが、熱が出てしまったためバランス感覚がやや不安定だったのを自戒。それだけボカロが好きで、そしてその気持ちを呼び起こしてくれたプロセカに熱い思いがあるということで容赦してほしい。

さて、ここまでの話を広げすぎると、プロセカがボカロ文化の全体を保存し、その歴史を正確に伝えているかのように見えてしまう。しかし、当然ながらそこまでは言えない。

プロセカに収録される曲は、当然ながら「選ばれた一部」だ。有名曲が多く、同じボカロPの曲が複数採用される一方、収録されない曲は膨大にある。権利や連絡の都合で使えない曲もあるだろうが、個々の不採用理由は外から断定できない。少なくとも、ニッチな曲まで網羅する完全なアーカイブではない。

しかし、それは必ずしも欠点ではない。

プロセカは歴史資料ではなく、現在遊ばれるエンターテインメントだ。知っている曲を求めるユーザーが多いなら、定番曲を中心に置くことには合理性がある。その中へ新しい曲や、ときどき意外な過去曲が混ざるからこそ、無理なく別の時代へ移動できる。

プロセカは、ボカロ史をそのまま再構築しているのではない。ボカロ文化の一部を選び、それを現在の作品やユーザーの中へ流通させ続けている。この限定を置いた方が、プロセカが実際に果たしている役割は見えやすくなる。

プロセカには過去曲があり、新曲がある。昔から活動するボカロPが書き下ろし、新しい世代のボカロPも加わる。かつてのファンは知っている曲から現在へ進み、新しいファンは現在のゲームから過去の曲へ進む。

だから、そこにあるのは過去の作品を年代順に並べた展示ではない。

プロセカはボカロ文化を保存しているのではなく、保存されたものを現在へ戻し、新しいものと混ぜながら流通させている。

過去曲を残すだけでなく、キャラクターに歌わせ、新曲の隣に置き、今のファンが触れる理由を作る。その動きが続く限り、古い曲も作者も「かつて存在したもの」だけにはならない。

個人的に2015年で止まっていたボカロは、プロセカによって「懐かしい思い出」から、もう一度「今も聴いている音楽」になった。

過去を過去のままにせず、現在だけにスポットライトを当てるわけでもない。この姿勢、ここに、私は多大なる感動と感謝が溢れてならない。


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